呪い、そして精霊王 二
「こいつも呪われてるのか?」
「えぇ、僅かながら。今少しで解呪されて目を醒ますでしょう」
「あの泉の水に問題があるってんなら、俺の方が遙かに呪われているはずだ。こいつは足を突っ込んだだけだぞ。本当に解呪されているのか?」
雷韋の安らかな寝顔を覗き込むようにして、陸王は真剣な声を出す。
すると、その声に促されるように雷韋から短い呻き声が上がった。瞼も痙攣するようにひくつく。
それに気付いたように、セレーヌは陸王を雷韋から少し引き離した。
「下がって。今、呪が完全に解かれます。何があってもこの少年に触れてはいけません」
セレーヌは陸王の胸元を腕で制した。
と、雷韋が透明な中にゆっくりと沈んでいく。
「おい!」
陸王は女を反射的に
「水の中に沈んで、解呪がなされたら自然と浮かんできます」
水という言葉を聞いて、陸王は驚きを隠せなかった。柔らかいのに硬い感触のこれが水だと言うのだから。
確かに波紋が広がったし、水音もした気がする。だが、水は形のないものだ。それなのにどうして寝床のように身体を横たえていられたのか、それが分からなかった。
「おい、こいつは一体どうなってる」
「わたくしが精霊に命を下しているのです。この水の中に入ってしまえば全ての穢れが取り除かれます。貴方も呪いの穢れが祓われて、服にも髪にも一滴の水もついていないでしょう?」
そう言われてから気付いた。頭からあの泉の水を被って濡れそぼっていた筈が、今は水の一滴もついていないのだから。
もしかして、今の雷韋と同じように自分も水の中に沈んだのだろうかと思う。
そうしている間にも、雷韋は水の中に完全に没してしまった。
セレーヌは水の中に没した雷韋を見遣りながら、「大丈夫です」と陸王に告げる。
そして陸王もどうしてか、セレーヌの制止に逆らうことが出来なかった。ただ、ことの成り行きを見詰めることしか出来ない。
雷韋が水中にいた時間はどのくらいのものだったか。陸王に、それは分からなかった。
そうして手出しも出来ずに見詰めていると、やがて雷韋の姿が水面に浮かんできた。
その
「もう、起こしても構いません」
それまで陸王を制していた腕を
陸王はすぐに傍へ寄って雷韋に声をかけた。
「雷韋、起きろ。目ぇ醒ませ」
声をかけられ肩を揺さぶられても、雷韋は一向に目を醒まそうとはしなかった。こんな時なのにも拘わらず、いつものように
そんな雷韋を呆れたように見遣って、陸王は言った。
「起きんぞ、こいつ。本当に解呪されてるんだろうな」
「確かに、貴方のようにはいかないかも知れません。魔族は多少の穢れはなんともありませんから」
その言葉に、陸王は肩越しにさっと振り返った。
セレーヌに向けられる黒い瞳は冷たく鋭い。
「精霊なら、その種族がなんであるか分かります。貴方は魔族ですね。それも、人と変わらず存在出来る高位の魔族。魔族は人外の種であり、その瞳は本来
魔族は獲物を飼う習性を持つ。気に入った獲物を飼い殺し、犯し、いずれ喰い殺す。
だが陸王の中にはそんな衝動はない。だから言った。
「だれがこんなクソガキ。こっちから願い下げだ。俺にも選ぶ権利はあるからな」
陸王の言葉に、セレーヌは小さく頷いてみせた。
「そうですね。わたくしの目にした貴方達は、『飼う』『飼われる』の関係には見えませんでした」
「だったらそれでいいだろう。俺だって、何も誰かに危害を加えようってわけじゃねぇんだ。こっちだって長い事、人として生きてきたんだからな。今更、魔族の性に忠実に生きるなんてのは無理なんだよ。それに、だ」
陸王はそこで意味深に言葉を止めた。そうしてセレーヌの様子を窺ってからもう一度口を開く。
「俺には精霊王なんざ知ったこっちゃねぇ。鹿を追って辿り着いた先にあの化け物がいただけの話だ。お前さんがどう思おうが、俺達にとってはどうするもこうするもねぇ。雷韋の意識が戻ったら、俺はこいつを連れて山を下りる。贄の娘のことも知ったことか。いいか。雷韋には俺の事は何も言うな。そして、もう一度言う。俺達はお前に嵌められてあの泉に連れて行かれたんだ。ただそれだけの事だ」
一気に言い放って、陸王は雷韋を本気で起こしにかかった。
「雷韋、起きろ」
言うと、陸王は雷韋の頬を打った。乾いた音が響くのと同時に雷韋の声が上がる。
「いって! 何すんだよ、いきなり!」
「お前が大人しく目を醒まさんからだろう」
「あんた、また殴っただろ! 痛ぇなぁ」
言いながら起き上がって頬を撫でる雷韋の様子が常と変わらないのを確かめて、陸王は言った。
「それだけ元気がありゃ、あとはどうとでもなるな」
その言葉に雷韋はきょとんとする。
「何? 何が? ってか、ここどこさ?」
「俺にもよく分からん」
嘆息と共に言い遣る。
「はぁ?」
「兎に角、ここを出て山を下りるぞ。俺達にはなんの関わりもねぇ場所だ」
「そんな……。つかさ、なんで俺達こんなところにいるんだ? 泉の傍にいたんじゃなかったっけか?」
そう言って雷韋は自分の座っているものに気が付いて、慌ててそこから降り立った。
「な、なんだこれ? 水……の精霊がいっぱいいる。ってより、水そのものだ」
「水の寝台です。それで貴方にかけられた
突然セレーヌの声が響いて、雷韋は肩を大きく跳ね上げた。声がしたのは陸王の隣だった。
色素の薄い白い女は、陸王の隣に立っていた。
柔らかな笑みを湛えて。
けれど、その女を見る雷韋の目付きは大真面目だった。突然の声に驚かされ、更にまた雷韋は驚いていたのだ。
これは精霊だと知って。
守護精霊は普通、人の周りを漂っているものだ。だと言うのに、精霊の流れがこの女の周りだけ、あからさまに違った。精霊が漂っているのではなく、流れて循環しているのだ。それが意味するところは、光竜の流れがセレーヌの周りだけで完結していると言う事だ。
人ではなく、精霊だからそうなる。
そして、女の周りで循環している精霊はいつか
一目で雷韋に分かったのはこれだけだ。それでも雷韋にとっては驚くべき事だった。
「あんた、
問う雷韋の声は酷く硬かった。
なのにセレーヌの声は優しい。
「わたくしは水の精霊の亜種。精霊達にはセレーヌ・サーシェルと呼ばれています」
「セレーヌ・サーシェルって、
雷韋の言うとおり、セレーヌ・サーシェルとは光竜が使っていた言語である神代語の名前だ。人間族は共通語で名前をつける事から、姓もない。だが陸王の場合、日ノ本出身の為、姓がある。姓は、日ノ本では家系や血筋を表すためのものだ。家系や血筋によって、姓が変わる。そして、姓は祖先を辿る事が出来る便利なものでもあった。けれど、大陸の人間族にはそんな慣習はない。大陸で姓を持つのは神代語で名をつける獣の眷属だけだ。
「それにしても精霊の亜種? う~ん、精霊の亜種の話は師匠から聞いた事があるような気がすっけど、でもあんた、人の姿してっけど、精霊の集合体じゃないよな。一つの精霊だ」
「亜種だから、一個体で人の姿を持って、意思も感情も人族のようにあるのです」
「もしかして俺達を助けてくれたのか? あの水の化け物とは全然違う感じがするけど、どうなんだよ」
雷韋の声音がどこか不思議そうに、けれど詰問調になる。
「わたくしは見ていました。貴方が炎の結界を張ったところを。ですが、火と水は反発し合うもの。炎の壁は水を蒸発させ大量の水蒸気を発生させて、大きな爆発を起こしたのです。それでも貴方達が怪我を負っていないのは、火の精霊達が護ったからです。あの少女も無事ですよ」
少女と言われて、雷韋はそこでやっと
「姉ちゃんもいるのか!? どこに!」
雷韋がセレーヌに詰め寄ろうとしたとき、陸王が雷韋の襟首を掴んだ。
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