第四章

呪い、そして精霊王 一

 そこはふわふわしているようで、硬い確かな固体の感触があった。


 だが、始めて感じる感触だ。


 今までこんな不可思議な感触を身体に覚えたことはない。


 陸王りくおうが半ば意識を闇の中に迷わせていると、徐々に柔らかくも固い感触の中に吸い込まれていくような感覚を覚えた。


 それを感じて、闇の中で迷っていた意識が一気に浮上する。


 まず第一に頭に浮かんだのは、眠っていたのか、と言う事だった。だが次の瞬間、違う、と思う。


 眠っていたのではない。意識を根底から刈り取られるように失っていたのだ。


 それを思い出す。


 そしてそうなった直前のことも思い出した。


 向かってくる数多あまたの水の触手を一撃で断ち斬ってやろうと待ち構えていたとき、突如として目の前に炎の壁が立ったのだ。その直後、五体がばらばらにされるような凄まじい衝撃に襲われて、身体がどうなったのかも分からぬままに意識を失った。


 陸王は自分が何かの上に横たわっている感触を感じながらも、兎に角身体を動かしてみた。


 両腕は動く。

 足も両方無事のようだ。

 五体が無事で、思わず陸王は安堵の吐息をついた。


 だが、すぐにまた思い出す。

 雷韋らいはどこかと。


 よく分からないものの上に横たわる身体を起こして辺りを見渡した。


 陸王のいる空間には、明かりらしき明かりもないのにぼんやりとものの形が見える。それが何かを考えるよりも先に、雷韋を捜し当てた。


 少し離れた場所で横になっていたのだ。

 それも、何か形のあるような、ないようなものの上で。


 けれども、雷韋がいることに兎も角ほっとする。


 意識を失う前、炎の壁が現れたと言う事はあの時、雷韋が何かをしたのだ。そして強い衝撃を受けた。そこで意識はぶつんと乱暴に途切れてしまっているから、雷韋と花梨かりんがどうなったのかも分からなかった。


 それでも雷韋は傍にいた。陸王にとって、これ以上の僥倖ぎょうこうはない。ほっとして、思わず口端を小さく笑ませてしまう。


 それに見たところ、雷韋の五体も無事のようだ。怪我をしている様子もなかった。血の匂いがしないからそれは間違いない。


 雷韋が血を流せば独特な甘い匂いがする。芳香と言うくらいのいい匂いだ。鬼族特有の血の匂いだと思う。人間の血の匂いとは全く違うから分かる。


 それにしても雷韋も意識を失っているのだろうが、その寝顔は安穏としていた。とても安らかなのだ。だからか、意識を失っているようには見えなかった。単に眠っているようにしか見えない。あの時、魔術を使ったのが雷韋なら、おそらく自分よりも術者である少年の方が強い衝撃を受けているはずなのに、不思議だった。


 しかしながら、花梨の姿が見えない。そこは広い空間ではあったが、目の届く範囲にはいなかった。一体どこへ行ってしまったのだろうか。


 と、陸王は自分が横たわっていたそれに違和感を覚えた。見下ろしてみるとそれは透明だが空気ではなく、確かな形あるものだったが、今さっきよりかさが減っているように思えたのだ。宿屋にある寝台くらいの高さだった為、簡単に降りることは出来たが妙に柔らかく、そして不思議な硬さがあった。


 結局、陸王の見ている目の前で、それはみるみる萎んで音もなく地面に消え入ってしまった。


 雷韋が横になっているものも、多分同じものだろう。


 試しに陸王は雷韋を起こさぬようにそれの表面を静かに叩いてみた。すると、表面に波紋が幾つも立つ。微かに水音がしたような気もする。



「水? ……なわけねぇよな」



 怪訝に陸王の眉が寄る。

 それにしてもここは一体どこなのか。


 仄明かりもあり、微かに空気の流れもある。だだっ広い洞窟と言ったところだろうか。遠目に岩壁いわかべがあるのが確認出来る。


 しかしこんな場所は知らない。としたら、誰かに運び込まれたとしか考えられなかった。


 けれど一体誰にだろうか?

 思い当たる者はいないし、花梨がいない事も不思議だった。


 いや、もしかしたら花梨だけ助からなかったのか?


 そうとも考えられる。それか、自分達を連れてきた誰かが、彼女だけをここに運び込まなかったかだ。


 どちらにせよ、陸王にとっては雷韋が無事であればそれでいい。

 雷韋は花梨を気にするだろうが。


 そうして陸王が雷韋の頬を叩いて目を醒まさせようとしたときだった。



「まだ起こさない方がいいですよ」



 突然背後から、聞いた事もない女の声が響いてきた。声は花梨のものと比べて深みがある。花梨の声ではないと気付いて、陸王は反射的に振り返った。


 振り向いた先には、白くぼうっと淡い光を放つような女が立っていた。


 真っ白な長髪に薄い蒼の瞳。そして頭から青白い薄物を被っている。

 それを見て、陸王の口から早口に詰問調の言葉が飛び出した。



「誰だ、お前は」

「わたくしはセレーヌ。水の精霊の亜種です。今は数が少なく、珍しい存在になりましたが」

「精霊の亜種だと。それも水の。って事は、あの泉にいた奴の仲間か」



 セレーヌと名乗った女はその言葉にゆるりと首を振った。



「あれは水の精霊の塊。精霊王です」

「精霊王?」

「狂った精霊の塊を『精霊王』と呼びます。光竜の言葉も届かない、凶暴な精霊達の塊です。わたくしは精霊王からこの地を取り返したく、そこの少年に助けを請いました」



 そう言ってセレーヌは雷韋に、色素の薄い瞳を向けた。

 陸王もつられて雷韋を肩越しに見る。



「なんだって雷韋こいつに目をつけた」



 雷韋に向けた顔をセレーヌへと向け直す。



「その少年が精霊使いエレメンタラーだからです。彼が現れたとき、精霊達がざわめきました。精霊使いに力を借りるべきだと」

「なら聞く。いつ雷韋に助けを求めた。ずっと一緒にいた俺に知られずに、いつ近付いた」



 女はそれに対して、問いかける眼差しを向けてきた。



「わたくしは貴方達二人の前に姿を現したのですよ? 覚えはありませんか?」



 問う眼差しは、そのまま言葉になって現れた。

 陸王はそう言う女を訝しげに目をすがめて見遣る。



「お前に会った覚えはねぇが、思い当たる節はある。あの時の鹿か? それくらいしか心当たりがねぇからな」



 セレーヌは小さく、しかし確かに頷いた。



「そう、正解です。わたくしは結界の外ではあの姿にしかなれません。このほらの外は精霊王のせいで穢されています。本来はわたくしがこの地の主でしたのに、精霊王が湧いた四百年前から」

「湧いた? どういう事だ」

「精霊王は混沌の中から現れます。精霊界から飛び出して、混沌の中を通り抜け、このアルカレディアに湧くのです。貴方も聞いた事があるのでは? 混沌世界には全てがあり、全てがない、と。そんな世界を通り抜けてきたものが正常である筈がないのです。現に、精霊達が狂って、一塊ひとかたまりの精霊王になっているのがその証。精霊王のせいで、わたくしの力は封じられてしまいました」



 セレーヌは色素のない手を胸の前で握り、悔しそうに俯いた。


 それを見て、



「お前は精霊の亜種なんだろうが。何か特別な力を持ってるんじゃねぇのか」



 陸王は眉根を寄せて問う。

 が、セレーヌはふるふると首を振った。



「わたくしは確かに精霊よりは力があります。でもそれは、同族の精霊を使役すると言うだけのもの。それ以上の力は持っていません。人の姿を持つ、精霊の一個体に過ぎないのです。精霊の集合体の精霊王には何も出来ません。かなわないのです」



 その声音は、悲壮そのものだった。


 いや、実際に悲壮を訴えたのだろう。瞑った目からは一筋の涙が流れ落ちる。


 それを見て、陸王は嫌そうな顔をした。


 陸王にとって、精霊だろうがなんだろうが、女の涙を見るのは気分のいいものではないからだ。



「で、もう一人女がいたはずだが」



 陸王は話題を変えるように言った。

 するとセレーヌは、頬に流れた涙を拭いながら頷いた。



「彼女は別の場所に。呪いが重く重なって、穢れが身体に蓄積されていますから」



 陸王はそれを聞いて眉間に皺を寄せた。

 それに対してセレーヌは陸王の黒い瞳を真っ直ぐに見詰める。



「貴方も精霊王の操る水を被って汚染され、呪われていました。それをここに湧く水で解呪したのです」

「水で解呪しただと? それは精霊の力か? じゅを解く事の出来るのは大地の精霊だけじゃねぇのか」

「水は大地から湧き出るものです。つまり、光竜の力を大きく授かっている大地の精霊から、僅かながら解呪の能力が与えられているのです。大地に根付く植物の精霊が癒やしの力を与えられているように」



 セレーヌはそう言って微笑んだ。だがその笑みは、酷く儚く陸王の目には映った。何故かこのまま消え去ってしまいそうなほどに。


 けれど、今はそんな事を考えている場合ではない。雷韋も助かり、花梨も助かった。が、陸王が水を被って呪われたと言う事は、雷韋も泉に足を踏み入れて呪われているはずなのだ。

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