奪われた贄 五

 その花梨かりんの脇に回って、陸王りくおうは吉宗の刃を引き抜いた。そして彼女を石柱に縛り付けている縄を掻き切ってやる。刃を収めたときには花梨は自分で猿轡さるぐつわを外し、陸王の両手を取った。



「誰だか分からないけど、有り難う」



 言う声音は涙に震えている。花梨は何度かしゃくり上げながら涙を手で拭った。そして息を大きく吸ったかと思うと、



「もうこんな村、嫌! 大嫌い!」



 花梨は声を大にして叫んだ。更には陸王の両腕に掴み掛かる。



「ねぇ貴方達、村の人じゃないわよね? どこから山に入ってきたの? うぅん、そんな事どうでもいい。私を逃がして! 死ぬなんて嫌!」



 必死の花梨を目の前にして、陸王は大きく嘆息をついた。



「俺は別に助けるつもりはなかったが、そこのガキがどうしてもってんでな。頼むなら、俺よりそこのガキに頼め」



 言って、陸王は泉の外で立ち上がったばかりの雷韋らいを顎で示した。


 花梨は言われた通りに雷韋に縋る為に泉の水を跳ね上げてそこから飛び出すと、さっき陸王にやったように雷韋の両腕を掴む。



「お願い、助けて! 村の人達に知られないように山を下りたいの。ここにいたら私、水神様の贄にされてしまうわ!」

「お、おう。助けるのはいいぜ。たまたま明かりが見えたから隠れてたけど、なんか爺さんが水神だかの贄にするって言ってたから、それ聞いた時から助けるつもりだったし」



 若干押され気味にそう答えた雷韋の目が、ふと花梨の左腕に止まった。そこには黒く丸い痣がある。



「姉ちゃん、なんだよ、それ」



 雷韋の真剣な視線と低く出された言葉に、花梨は弾かれたように少年から両手を離すと痣を隠した。そればかりでなく、雷韋から顔ごと視線を逸らしてしまう。


 今度は雷韋が花梨の両腕を捉える番だった。



「なぁ、助けてやるから正直に言えよ。あんたを助けるのに必要になってくることかも知んないんだ」



 雷韋が真剣な顔で言い募ると、花梨は堅く目を閉じて小さく呻くように呟いた。



「水神様の、贄の証なの」

「贄の証? ちょっと! よく見せてくれ!」



 雷韋は強引に花梨の右腕を引っぺがした。少年とは言っても、二人は二歳ほどの差しかない上に雷韋はなんだかんだ言っても男だ。花梨の腕は簡単に剥がされてしまう。


 そしてそこに見たのは、真っ黒な丸い痣。禍々しく白い肌に浮かび上がっている。



「雷韋、なんだ、こいつぁ」



 陸王が花梨の後ろからやって来て、覗き込むように痣を眺めている。



「姉ちゃんは贄の証だって言った。でも、これは呪いだよ」

「呪い? なんだってそんな事が分かる」

「さっき俺、泉に足突っ込んだだろ? その時に感じたのと同じ感覚がする。いや、それよりももっと強くて、濃い感じだ。そう、何百倍も濃い」



 雷韋が喉を詰めるように説明する間、花梨はじっと足下を見詰めて何も言わなかった。


 陸王はそれを見遣って溜息をつく。



「で、どうなんだ、雷韋」

「え?」

「解呪出来るのかってこった。こんなもんをつけたまま逃げて、無事に逃げおおせるとは俺には思えんのだがな」



 呆れたように髪を掻き上げてみせる。



「あ、そだよな。でも、多分無理だ」



 雷韋は俯いて小さく左右に首を振った。



「言ったろ? 解呪してくれるはずの地の精霊が集まってくんないって。集めてもすぐに散っちまう。これじゃ精霊魔法エレメントアは使えない。きっと水が山全体を穢してるからだ。地の精霊が穢れた水を浄化しようとしてて、それで俺に力を貸すことが出来ないでいるんだ」



 雷韋の呟きにも似た弱々しい声を耳にして、そこでようやく花梨が顔を上げた。



「『せいれい』?」



 怪訝に見開かれた花梨の目を雷韋は俯いたままで、不思議そうに上目遣う。



「なんだよ。精霊だよ。知ってるだろ? 俺は見ての通りの異種族だからな。精霊使いエレメンタラーだよ」



 そう言って、尖った耳を軽く動かしてみせた。


 途端、花梨が短い悲鳴を上げてへたり込んだ。花梨は今更のように雷韋の容姿を再認識したのだ。おそらく、ただの人間の子供だと思っていたのだろう。



「なんだよ、獣の眷属を見るのは初めてかよ?」



 雷韋のどこか不機嫌そうなその言葉に、花梨はこくこくと頷きを返してくるので精一杯のように見えた。


 その様子に、雷韋の方こそ驚いたという顔をして覗き込む。



「異種族を知らないってことは、精霊使いも知らないのか?」

「な、何、それ。獣のなんとかって言うのも始めて聞いた」



 上擦った花梨の声が響いたとき、陸王は何者かの気配を感じて振り返った。だが、見た先には石柱を中心にした半円の泉があるだけで、何もない。村人が戻ってきたという感じでもなかった。岩壁から、さらさらと水が流れているだけだ。


 それを不審に思い、陸王は雷韋に声をかけた。



「おい、雷韋」

「何?」


 花梨の方に屈めた腰を元に戻して聞き返す。



「込み入った話はあとにしねぇか。ここには水神の贄と水神と呼ばれる魔物がいるんだろうが。色々聞きてぇことはあるが、今は場所を変えた方がいい」

「あぁ。それもそだな」



 陸王の真剣さに押されたように、どこかぽかんとしていた雷韋の顔も俄に引き締まる。そうして花梨に声をかけた。



「姉ちゃん、色々聞きたい事や話したいことはあるけど、一旦ここを離れようぜ。それに逃げたいんだろ?」

「も、勿論!」

「じゃあ、立ってさ」



 そう言って、雷韋は花梨の両腕を引っ張って立ち上がらせた。それからにっこり笑いかけて、



「俺、雷韋ってんだ。あっちのでっかい人は陸王。姉ちゃんは?」



 気軽に自己紹介をして、花梨にも問うた。



「私は花梨」



 花梨が答えた瞬間、



「伏せろ!」



 陸王が吠えた。


 その声に雷韋は花梨を引き倒し、陸王は触手のような何かを叩き斬っていた。


 陸王の手に手応えがあった直後、激しい水音が辺りに響く。それは大量の水をぶちまけたときのような音だった。



「なんだ、今の! 陸王!?」



 雷韋は花梨に覆い被さって陸王に問う。

 そして陸王は泉に向かい、吉宗を正眼に構えていた。



「触手のように水が襲ってきた」



 言って精神を統一するように陸王は静かに息を吐き出し、その呼気こきは肺から両腕を通って刃の切っ先で止まる。


 そのままじっとしていると、何かが陸王の神経を引っ掻いた。


 反射的に陸王は吉宗の刃を宙に薙ぐ。吉宗がそう動きたがったのを感じたからだ。


 途端、再びの激しい水音。


 だが、ただ水音が響いたわけではない。陸王が頭から水を被っていたのだ。


 吉宗が再び薙いだのは水の触手だった。それも、一直線に陸王に向かってきた触手だ。それを薙いだからこそ、陸王は全身が濡れそぼったのだ。


 けれどそのお陰で、後ろにいた二人は水滴の一滴ひとしずくさえ被ることはなかった。


 その様を玉の明かりで見ていた雷韋が、悲鳴に似た声を上げる。



「陸王! その水を浴びちゃ……っ!」

「逃げろ!」



 陸王は雷韋の声を遮って強く声を上げた。



「でも!」



 雷韋が反論の声を上げるも、



「水が襲い掛かってきたって事は、水神って奴が動き出したんだ。お前らは足手纏いだ、逃げろ!」



 陸王は再びそれを遮った。


 その言葉を受けて、雷韋は陸王にどんな迷惑をかけようとも、こんな場所でこんな時、足手纏いにだけはなりたくないと思った。だから急いで俯せに倒れている花梨を抱き起こした。



「姉ちゃん、走れるか?」

「だ、駄目よ。足が震えて」



 そう言う声も震えていた。それなのに、目だけは雷韋に縋り付いてくる。


 それを見て、雷韋は花梨に背を向けてしゃがみ込んだ。その姿はちんまりとしている。



「おぶされよ」

「でも、君の方が小さいのに?」

「俺はなりは小さくても男だ。女一人おぶれないわけないだろ」



 さぁ、早く、と雷韋は急かした。

 そうしている間にも、陸王は水の触手を次々と断ち斬っていた。

 おそらく狙いは花梨だ。贄なのだから狙われて当然だ。


 その花梨を庇うように陸王が立っているから、代わりに狙われるのだろう。陸王もそれを理解していて、背後にいる二人に一滴も水がかからぬように触手を断ちながらも己が楯になって頭から被っているのだ。


 逃げるのなら、一刻も早く逃げろと思いつつ。

 そんな陸王を気にかけながらも雷韋は大声を上げた。



「姉ちゃん、早くしろ!」



 促されて、花梨は震える腕を雷韋に伸ばした。花梨だって逃げ出したいのだから、それは必死の行動だった。けれど、思うように身体が動いてくれない。なんとか雷韋の両肩に手をかけたとき、陸王が断ち切った水の飛沫が足下に散った。反射的にそれに目を向けると、その水は小さいながらも水溜まりを作ってうねうねと動いていた。


 意思があるように。

 呪い、選んだ花梨を捕らえようとするように。


 花梨はまるで、背骨に恐怖が詰まったような叫びを上げた。そして雷韋の首に力の加減もなく両腕を巻き付けたのだ。


 その時の力加減が強すぎて雷韋は一瞬息を詰まらせたが、苦しい中で無理矢理に背負い上げた。それから陸王に一旦向き直ったが、我が目を疑った。


 光の玉に照らされた空間の中で、無数の触手が陸王目掛けて襲い掛かってくる瞬間だったからだ。それなのに陸王は慌てる素振りもなく、左下に刃を構えて叩き斬るつもりのようだった。


 だが雷韋の目には不思議と見えていた。もしそれをやったら陸王は水圧で吹き飛ばされると。それだけではない。五体がばらばらに吹き飛ばされる未来も見えていた。


 数瞬後の有様が雷韋の目には見え、その代わり、現在見えている世界は止まって見える。


 だからだろうか、未来をましなものに変えようと無意識が働いたのは。


 それは火だった。

 火炎壁──炎の結界だ。


 それが三人を取り巻いた。同時に、雷韋の目に映る時も物凄まじい勢いで動き出す。


          **********


 山が崩れ去るような轟音が天に轟き、地を震わせた。


 花梨を贄に捧げ、開かれた道を下っていた者達は皆、空気の波動と大地の振動にその場に転がる。彼らには何が起きたか分かろう筈もなく、ただ風圧で体勢を崩し、大地の振動に足下を掬われて転がるしかなかった。


 そして山の中腹に広がる村からは、山の一点から濛々もうもうたる煙が上がるのが見えた。


 闇よりもくらい影の山から真っ白な煙が立ち上がっているのだ。

 昏い影の中だからこそ、はっきりとそれが見て取れた。

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