奪われた贄 三
今、一体何を考えていたのかと
雷韋は獲物である前に、陸王の対だ。対を殺せば自分も死ぬ。分かっている筈なのに、凶暴な快楽に浸りそうになった。
陸王の脇でちょこんと座っている雷韋から、陸王は目を瞑って顔を逸らしたまま上体を起こした。そして目を硬く瞑り、両拳を握り締める。
己の中で快楽の質がどろりと変化した事実に反吐を吐きたくなった。
力みすぎて、吐き出す
「ん? まだどっか辛いとこあるのか?」
半ば不思議そうに、半ば不安そうな顔をして。
そんな雷韋を見ることもなく、陸王は立ち上がった。
「なんでもねぇ」
その声音には微かな怒気が含まれていた。当然、己自身に対してのものだ。あまりにも浅ましい自分に苛立ちが募る。出来る事なら、この身体に満ちている忌まわしい血を全て抜いて、全く別の種族の血と入れ替えたいくらいだ。
そんな事で呪われた身とおさらば出来るなら是非したかった。けれどそうはいかない。これはもう、生まれ持った宿命なのだ。今更変えることなど出来ない相談だった。
雷韋に知られることなく陸王は自嘲の笑みを口端に乗せた。
「陸王? どうしたんだ? やっぱ、完全に元には戻らなかったか?」
背後から不安そうな声が聞こえてくるが、陸王は「いや、楽になった」と淡泊に返すだけだった。
「そうなのか? なんか調子悪そうだけど」
雷韋の言葉尻が小さくなっていくのに気付いて、陸王は小さく吐息をついた。
「お前のお陰でもう充分回復した。大丈夫だ。それより、待ち人がいるぞ」
言って、広場の真ん中に立ち尽くしている鹿を示した。
「あぁ、うん」
そう答えはしたものの、雷韋の声音はどこか納得がいかないという風に、どこか不満げな色が滲んでいる。
その声を聞いて、陸王は仕方なしに振り返ると雷韋の頭に手を乗せた。
「何も気にする事ぁねぇ。いいから行くぞ」
雷韋はそれに対して、こっちもまた仕方なさげに頷いてみせた。
丈高い下生えを掻き分けながら白い鹿の方へと歩んでいったが、それはもう身動きする気配を見せなかった。広場の中央でじっと立ち尽くして、ゆっくりと己に近付いてくる陸王と雷韋の方に顔を向けている。
そうして二人が目の前に辿り着いても、鹿は身動きしなかった。ただ一声鳴いて、あらぬ方角に顔を向ける。
そんな仕草に、陸王も雷韋も怪訝に思った。が、鹿は向いた方向から顔を動かさない。何かを注視しているように。
まるで、そちらを向けとでも言っているかのようだった。
不審に思った陸王が、先に鹿の視線の向く側に目を遣った。釣られるように、雷韋もまた。
けれど、目を遣った先には木々が
そこでまた、鹿が一声上げる。
雷韋は不思議そうに鹿の顔を見直したが、
「なぁ、あっちになんかあるのか?」
と問うても、鹿は雷韋の顔を見ることはない。
「俺、ちょっと様子見てくるよ」
雷韋はそう言って歩き出した。その後ろから陸王が声をかける。
「大丈夫か?」
「え? 何が大丈夫?」
肩越しに振り返る。
「一人で平気かと言う事だ」
それを聞いた雷韋は、吹き出すように小さく笑った。
「平気だよ。だって、例えば魔物がいるような気配はないもんさ。そんなのが近くにいたら、俺より鹿の方が逃げ出すってば」
雷韋の言葉に陸王は僅かばかり考え込んでから言った。
「気を付けろよ。お前は俺の生命の綱なんだ」
「分かってる。あんたも俺の生命の綱だもんな」
嬉しそうに笑ってから、雷韋は鹿の見た方向へ走り出していった。そしてあっという間に森の暗がりの中へ消えていく。
雷韋は夜目が利く。だから光の玉は
雷韋が消えていった暗闇の方へ目を向けて眺めながら、陸王は自分の言葉が自分でも嫌になった。
──お前は俺の生命の綱──
口に出して、なんと白々しい言葉なのかと思う。無意識的本能とは言え、雷韋を害する妄想を逞しくしていたくせに、と。腹の底から黒い感情が湧き上がりそうだった。勿論それは己に対してだ。この感情を雷韋にだけは向けてはいけないと思う。
もしこの先、雷韋に対してこの忌まわしい本能が抑えられないと判断した場合は、あの少年を一人残して去るだろう。
それは迂遠な自殺。
と同時に、迂遠な殺人でもある。
完全に離れてしまったら、待っているのは精神と魂の死だ。己を殺す事に躊躇いはないが、雷韋を引き摺ってしまうと思うと躊躇いが出てくる。
だからそうならない為にも、あの少年を傷付ける事だけはしたくなかった。
共にいてこそ、互いに生きていけるのだから。
それが対であり、
陸王は胸の内で、この世界を創造し人族を創った神はなんと面倒な制約を作ったものかと思った。
同じ種族同士ならまだしも、自分達は異種族間の対だ。しかも自分にとって鬼族は最高の獲物であり、鬼族にとって自分は天敵だ。こんな厄介な対をよくも作ったものだと。
これが魂の条理だというなら、自分達は世界一厄介な太極魂だ。
最早、彼らの関係は『悲劇』と言ってもよい。いや、あるいは『喜劇』なのかも知れないが。それを思うと、皮肉な喜劇もあったもんだと苦い笑いが自然と浮かぶ。
そんな事をつらつら考えているうちに、雷韋が戻ってきた。それも大慌てという風に。
「どうかしたのか、雷韋」
雷韋の様子に不可解げな声を出すと、
「ひ、人がいるんだよ!」
そう言って、ごくりと空気を含んで唾を飲み込んだ。そんな様子にも陸王は眉根を寄せる。
「人がいたって事は、近くに集落があるって事か。村か何か」
「そうじゃなくて、なんか変だったんだ。わさっと男達が現れてさ。何が変なのか俺にもよく分かんねぇけど、様子がおかしかった」
そこまで言って、雷韋は陸王の腕を引いた。
「来てくれよ!」
「あ?」
不機嫌な声を出したが、それと同時に陸王が顕した光の玉を雷韋が消滅させてしまった。
「おい、雷韋。いきなり何しやがる」
僅かに焦った声音が少年に向けられたが、それを雷韋が遮ってしまう。
「いいから! こっちに松明よりも明るい光があったら俺達がいるってバレちゃうだろ」
「だったらなんだ」
「だから連中、なんか変なんだってば! 見つかったら何されっか分かんねぇような雰囲気なんだ」
それを聞いて、陸王は小さく舌打ちした。
「仕方ねぇな。お前は目が見えるんだろうから案内しろ。ただし、その男達ってのの様子があまりにもおかしいようなら俺は引き返すからな。面倒事は御免だ」
「何言ってんだよ! 山の様子がおかしいのが気になるって言ってただろ。それに
満月の月明かりの中に、白い鹿の姿はどこにもなかった。
「どこ行きやがった」
陸王も手を伸ばせば届く距離にいた鹿の姿がない事を、少しだけ闇に慣れた目で確認する。
雷韋もほんの僅かだけぽかんとしていたが、はっと思い立ったように陸王の腕を引いた。
「それより陸王、行ってみようぜ。ちゃんと案内すっから」
「あぁ」
陸王は渋々と応じた。
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