奪われた贄 二

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 唐突に森が開けた。


 開けたというより、これまで走り来た森の中に丈の高い下生えを生やした広場がぽっかりと姿を現したと言う風だ。


 あれから休むこともなく走り続けて、流石に陸王りくおうも膝をついた。


 戦場いくさばで敵味方も区別がつかなくなった中で、遮二無二人を斬りまくったときより、これまでの疾走の方が辛かった。単純な動きの方が、複雑な動きよりずっと重労働だと陸王は初めて知った気がする。最早上体を支えることもままならず、両手も下草の中の地面についていた。顔を地面に向けると、顎からも鼻先からも、垂れた前髪からさえも汗の雫が間断かんだんなく滴り落ちてくる。まるで雨の中ここまでやって来たような有様だった。身に着けている衣服も濡れて肌に張り付いて気持ちが悪い。


 そうしてなんとか息を整えようと努めているところへ、少しあとから雷韋らいが足取りも危うく追いついてきた。



「りぃくお~。置いて、くなぁ~」



 弱々しく情けない声を陸王ではなく、宙空へ向かって放っている。


 その雷韋も汗だくで、高く結った飴色の髪が首筋や顔にへばり付いていた。その有様は酷く惨めったらしい。


 雷韋は陸王の近場へ来てから、そのまま下生えの中へ頭から突っ込むように倒れ込んだ。


 二人共荒い息を草いきれの中に撒き散らしながら、暫しその場に留まる。入る力も入らないのではどうしようもないからだ。


 二人揃って、完全に力尽きていた。その様を広場中央に立つ白い鹿が眺めていたが、彼らにとっては全く関係なかった。


 今はただひたすらに身体を休めたい一心で、必死に喉と気管を荒く擦り続ける空気を吸い込んでは吐き出すのを繰り返す。


 気が付けば、陸王もその場に倒れ込んでいた。ふっと瞬間、意識が遠くなったと思ったあとに横様に倒れていたのだ。今は指先一本動かすのも辛い。兎に角、身体中の全てが重く、怠くて堪らない。瞼を開けていることすら億劫だった。だから陸王は瞼を閉じて、呼吸することにだけ集中した。


 すぐ傍からは、雷韋の呻き声が地を這うように聞こえてくる。回復が早いという雷韋も流石に堪えているようだ。



「あ~、あ~。もう、無理~。この怠いの苦しい~。喉、いってぇぇ~」



 雷韋の呻きと共に情けない声が聞こえた瞬間、草木がざわめいたような気がした。視覚に頼っていない分だけ、陸王の感覚が鋭くなっているのかも知れない。やけに何かの気配を感じるのだ。それが何かを探る間もなく、雷韋が起き上がる気配の方が早かった。



「よっしゃ、復活~!」



 その声音には、はっきりとした活力が漲っている。


 雷韋に一体何が起きたかと訝しげに瞼を開けると、少年が下生えを分けて覗き込んできた。



「大丈夫か、陸王」



 そう問われても、陸王は視線を向けることしか出来なかった。話す事などまだまだ無理な相談だ。


 その様子に、



「あ~、こりゃ、くたばってるって感じだなぁ」



 雷韋は独りごつように口にした。そして陸王の肩へと手を伸ばしてくる。


 何をするのかと訝しんだまま成り行きを見守っていた陸王だったが、雷韋の掌が肩に触れた瞬間、淡い緑色の光が陸王の肩に灯った。


 それは植物の精霊魔法エレメントアだ。


 大地は生と死を司り、循環を司っている為、癒やしの力がある。その大地に根付いている植物にも癒やしの力があるのだ。大地の力に比べれば圧倒的に弱い力ではあるが、癒すだけなら植物の精霊でも充分すぎる効果があった。


 雷韋は植物の精霊力を直接陸王の中に送り込んでいるのだ。草木なら辺り一面にあるのだから、精霊力の源としては十二分だった。



「今、精霊達の活力を送り込んでるから。すぐに動けるようになるぜ」



 雷韋はにっこりと邪気のない笑顔を見せた。


 この笑顔を見せられるだけで、陸王は心底ほっとする。それは純粋な喜びだった。自分を肯定されたような気分になるのだ。


 陸王が密やかな安堵に包まれているのと平行して、身体が軽くなっていく。精霊の力のせいだろう。重苦しい殻を脱ぎ捨てるような感覚があった。ぱらぱらと音を立てて剥がれていくような。


 ややもすると呼吸も落ち着き、熱く爛れるようだった肺も冷えてきた。疲れが剥がれ落ちて一番実感するのは、やはり喉の違和感がなくなっていくことだろう。擦り切れているのではないかと思うほどに痛みを覚えていた。咳き込むだけで喉から出血するのではないかと思うほどに。けれどもそれもなくなっていく。徐々に四肢にも力が満ちていく。


 二度、三度と陸王は大きく息をついて、それからゆっくりと上体を起こした。



「もういいぞ、雷韋。随分と楽になった」



 声をかけるが、雷韋はぶんぶんと顔を横に振った。



「駄目だ。まだ精霊力が満ちてない」



 急に怖い顔をして、雷韋は陸王を引き摺り倒す。



「俺がいいって言うまで駄目だ!」

「おいおい」



 半ば呆れて言うも、雷韋は全く聞かなかった。それどころか、陸王の両肩をがっしりと地面に押し当てる。



「あとちょっとだ。もうちょっとで精霊力が満ちるから、それまで絶対動くな」



 雷韋にそう強く言われて、陸王は致し方なさそうに嘆息をついた。言葉の代わりに、それで了承の意を示したのだ。


 今度は両肩から精霊力を流し込まれているせいか、さっきと比べると圧倒されるような力を感じた。どう表現すればいいのか、敢えて言葉にすれば身体の芯を中心にして、そこから身体の末端に向かって活力が目覚めていくような感じだ。


 だが、それがまた心地いいのがたちが悪い。雷韋が傍にいるだけでも陸王は安心出来るのに、ここで自分の肩を押さえ付けている雷韋を傷付けて恐怖心を引き出したらどんなにか心地いいだろうかと思った。


 視界の隅に満月が入った瞬間、そんなことがふと脳裏を過ったのだ。

 そして陸王は知らず、口端を微かに引き上げていた。


 自分を見下ろす雷韋の深い琥珀の瞳をじっと見詰め返すと、脳裏に八つ裂きの姿になった雷韋の未来の像が浮かぶ。それに伴って自然、腕が僅かに持ち上がった。今ここで首を締め付けて、驚きに見開かれた綺麗な瞳を抉り取ったらどんな悲鳴が陸王の耳を喜ばせるだろう。


 と、急に両肩から圧が消え失せる。



「いいぜ、陸王」



 雷韋の無防備な言葉にはっとした。

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