導きの獣 五
陸王が息切れを起こしながらも足を止めると、鹿もそれに気付いたように前方で立ち止まって振り返る。
「雷韋」
肩を上下させながらも呆れたように声をかけると、雷韋がよろよろと腕を上げた。
「も、無理~。ちょっとだけ休まして」
言うだけ言って、腕がぱたりと落ちる。胸を上下させながら吐き出す
否。
転がっていくように見えたのは、緩い風に吹かれて地面を走る薄紫色の花びらだった。
はっとして見上げると、アイオイの花が木々の一面に咲いていた。はらり、と陸王の目の前にも滴り落ちてくる。鼻が馬鹿になるようでならない濃厚な匂いもしていた。
気が付かぬままに、木に花が咲いていたのだ。咲く土地にまで来ていたと言う事だ。
陸王の中に当然ながら疑問が生じた。
一体、あの花の咲かなかった場所はなんだというのか、と。
瞬間、それを考えようとしたが、やめた。こういう事は雷韋に聞いた方が早いからだ。
「雷韋、お前いつから気付いてた」
陸王は整わぬ息の合間に問うていた。雷韋は何を聞かれたのか分からぬと言う風に、顎を上げて陸王を逆さに見遣る。
「お前なら気付いていただろう。精霊の声が聞こえるんだからな」
それを聞いて、やっと雷韋は合点のいった顔をしたが、もう一度弱々しく腕を上げてそのまま落とした。待てとばかりに。
その様を目にしてから、陸王は鹿の様子を窺った。光の玉に照らされて光る獣の目は、黙って二人を映しているように見える。少なくとも彼らをおいて駆け出す様子はない。
それを確認して、陸王も傍の木に
陸王は沸き上がる汗を袖で乱暴に押し拭った。それでも汗は次から次へと滴り落ちてくる。
頭上から降ってくる花弁のように、際限なく。
陸王が木に
「はー、マジでつっかれたぁ」
言いながら雷韋は手の甲で顎の下を拭って、そのまま腕ごと汗の雫を振り払う。
茂みの方へ汗の玉が細かく散っていくのが、陸王の目には止め絵のように見えた。思わず見入ってしまう。
「で、なんだっけ?」
だが、雷韋のあっけらかんとした声が陸王を正気に戻した。
見入っていた方向から雷韋に目を戻すと、少年は立ち上がって土や葉っぱを外套から払っているところだった。
けれど、問うた陸王も一瞬気を取られたものの為に、何を質問したのか思い出せない。
その代わりとでも言うように雷韋が、
「あ~、気付いてた? って、精霊の声のことか?」
と、質問を繰り返して陸王のもとまで歩いてきた。
「途中から聞こえ始めてたけど、それが何さ。陸王だって鹿を追ってる途中からアイオイの木に花がつき始めたのに気付いてたろ? 降ってきたもんさ、花びらが。今だって、ほら」
そう言って、掌を翳す。その手に花びらがふうわりと落ちてきた。しかし雷韋はそれを払い落とす。見慣れて飽きたとでも言うかのように。
「いや、そうじゃねぇ。花芽がついてなかったあの場所がなんだったかって事を聞きたい」
「そんなの、俺にだって分かるもんか。でも、あそこを抜けたって事は確実だよ」
陸王はそう答える雷韋の変化にはっとした。
なのに、へばって倒れていた雷韋は平然としているのだ。
「お前、へばって倒れてたんじゃねぇのか?」
「へ?」
雷韋は陸王の言葉に頓狂な声を上げた。それから、あぁ、と納得のいった顔で笑ってみせる。
「鬼族はさ、回復力が高いんだ。ちょっとした怪我ならすぐに治るしさ。確かにさっきは完全にへばってたけど、少し休んだから回復した。もう完全復活」
元気な笑顔で言って、左腕に力こぶを作ってみせた。
「あぁ、そうかよ」
そんな雷韋を見遣って陸王は面白くもなげに言い遣ったが、雷韋から聞かされたのは意外な種族の特性だった。けれど、回復力が高いのなら合点がいく。立っていられなくなるほど疲弊していたのに、ほんの僅かばかり休んだだけで今はけろりとしているのだから。
その逆に、陸王は青息吐息だ。急に立ち止まったことで膝が僅かにがくついている。
「なぁ、陸王さぁ」
「あ?」
未だ収まらぬ早駆けの鼓動と整わぬ呼吸の合間から、不機嫌な声が出た。
それを意に介すこともなく、雷韋は問う。
「もしかして森の様子が変わったこと、気が付かなかったか?」
「あぁ、気付かなかった。なんせ
言って、陸王は顎で鹿のいる方向を示した。
示された先を雷韋が見たとき、鹿が高く鳴き声を上げた。まるで先を急かしているように。
陸王はそれを聞いて、もう一度汗を拭ってから
「ほら、来いってよ」
そう言って、動きたがらない足を無理矢理に動かし始める。
「え? 今の、分かったのか?」
雷韋が不思議そうな顔で陸王を見た。その雷韋を、陸王も見下ろす。
「何が分かったかだと?」
「鹿の声さ。今俺達に、早く来いって言った。精霊がそう伝えてきたから分かるんだ」
今この状態であんな先を促すような鳴き方をされれば、それは自明の理だと思うのだが。そう思ったが、陸王は特に何も言わず、雷韋の出方を待った。
「だからあんた、鹿の言う言葉、分かったのか? 精霊使いでもないのに」
「馬鹿か。この状況で鳴き声を上げるってのは、どう考えても催促されていると考えるのが普通だろう。俺達を引き摺り回してる張本人なんだぞ」
それを聞いて雷韋は首を傾げたが、「そっか」と小さく呟いて徐々に早足になる陸王にくっついてきた。その足運びが更に速くなり、いつの間にか駆けるものに変化する。
途中から陸王が駆け出したからだ。
それに合わせて白い鹿も再び駆け出した。
そうなって慌てたのは雷韋だ。
「ちょ、陸王!」
「なんだ」
息を弾ませながら答える。
「あんた、さっきの疲れほとんど取れてねぇじゃん。少しは休めよ。俺みたいにさぁ」
「休むだと? そんなもん構うか」
ほとんど全速力で走りながら乱暴な言葉を返す。
「だって、どこに辿り着くのか分かんねぇけど、着いたら何も出来ませんでした、なんて事になったら」
「知らん」
陸王は自分でも何が知らないのか分からなかったが、反射的にそう答えていた。兎に角、今やる事はただ一つ。
あの鹿のあとを追うことだけだ。この白い生き物がどこへ向かおうとしているのかは分からない。それでも確かに急き立てられた気はした。さっき鳴き声を聞いたときにそれだけは理解していた。だから雷韋を急かしたのだ。疲れなどほとんど取れていない自分の状態を省みずに、行くぞ、と。
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