導きの獣 三

 雷韋らいが目指したのは山の方だった。陸王りくおうの手首を掴んでどんどん進んでいく。


 森の中では、夜でも僅かな風に吹かれてアイオイの花びらが舞っていた。匂いも当然充満している。


 そんな中で雷韋は辺りをきょろきょろと見回し、時には立ち止まりしながらも奥へ奥へと入って行った。


 そして陸王は手を引かれるままについていくだけだ。


 明かりは辺りをしっかりと照らしている。時折、闇の中で光るものを見たが、それは草木に隠れている小動物達の瞳だった。


 白い鹿の姿はまだない。

 それでも雷韋は、ほとんど迷いのない足取りで進んでいく。


 そうして、いつしか足下に変化が生じていた。それまで平坦な足場だったが、少しずつでこぼこし始めたのだ。


 しかも、登りになっているらしい。そこまでやって来て、やっと雷韋は足を止める。再び辺りを見回して、



「この辺りだと思うんだけどな」



 と呟いた。


 明かりは煌々と周辺を照らしている。



「雷韋、この辺りってのはどういうこった」



 陸王も辺りに目を馳せているが、何かがいる気配はない。だが、雷韋はそれに返す。



「精霊達の声が聞こえる方に来たんだ。白い鹿がこの辺にいるって言うから来てみたけど、いないんだよなぁ」



 その様から、雷韋も困惑しているのが知れる。



「植物の精霊はその場からほとんど動かないんだ。草木に宿ってるからな。光竜のもとにかえらない限りは。だからこっちに歩いてきたんだけど……」



 精霊は約百年単位で交代を繰り返す。地上の出来事を光竜に伝える為に。光竜も精霊達が運んできた世界の流れを読み、懐のうちから光竜の流れを含んだ精霊達を解放して世界を回していくのだ。


 それは大地と同化して、眠りに就いている光竜が無意識のうちに成す事だった。


 この世には精霊の流れと光竜の流れの二つが存在する。


 そのうち、雷韋が読んだのは精霊の流れだった。精霊使いだからこそ成せた技だ。



「なら、あの鹿がここからどこへ行ったか精霊に聞いてみりゃいい」

「そうなんだけど、この辺に……あ、いた!」



 雷韋がある一点を指差した。そこへ視線を移すと、陸王のあらわした光の玉の明かりに薄ぼんやりと照らされて、白い姿を闇の中に浮かび上がらせる鹿の姿があった。鹿の姿は少し離れた小高い斜面にある。


 そして、今度は陸王にも呼んでいると分かるような高い声を上げた。


 雷韋はその声に反射的に身体を動かしていた。それまで掴んでいた陸王の手を放して、目の前に現れた緩い斜面を登っていく。


 陸王はそんな雷韋を僅かながら呆れたように見遣ったが、後頭部を乱暴に掻きつつ、少年のあとに続いた。


 白鹿はまるで道案内でもするように、二人とは一定の距離を保って斜面を飛び跳ねるように駆け上がっていく。


 そうして上っていくこと暫く。斜めに傾いでいた月も、いつの間にか頭上高くに昇っていた。その間の道のりは、決して平坦な場所ばかりではなかった。藪の側面は切り立った崖になっていたり、勾配も急になっていく。


 木々に手を這わせながら上りの勾配を上がり続けていると、急に地面に違和感を感じた。足下のでこぼことした感触は変わらなかったが、いきなり平坦な場所に出たのだ。しかも光の玉は、その場所から全く違う樹木を闇に浮かび上がらせている。


 ずっとアイオイの木が茂っていた山道とも言えない勾配が、ぱたりと途切れていた。


 否。違う。


 樹木の葉の形を見ると、それは確かにアイオイの葉だった。


 なのにどうした事か、花が一つも付いていないのだ。花びら一枚降ってこない。背中の足下から吹いてくる風にはアイオイの花の匂いが混じっているのに、その場所には花の匂いがなかった。


 長い間アイオイの花が揺れる中にいても、鼻が馬鹿にならないほど確かな匂いがするというのに、ここには湿った草木の匂いしかしない。ただの森の匂いだ。


 陸王も雷韋もその事に気付き、まるで化かされた気分だった。思わず辺りの木々に目を馳せるが、光に照らし出された中にはやはり花弁ひとひらもない。蕾さえ見つからないのだ。低い下生えにも花びらが降りかかっている痕跡はなかった。それどころか、自分の身体から花の匂いが立ち上っている有様だ。



「なんだ、ここは」



 どこか唖然としたように陸王が口を開くと、雷韋が答えた。



「ここ、なんだか変だ。精霊の気配が弱々しい」



 その言葉に、陸王は雷韋に目を遣った。雷韋の顔は眉根を寄せて深刻そうに沈んでいる。



「なんだろう、この感じ」

「お前はどう感じるんだ」



 陸王に問われて、雷韋は低く唸り声を上げてから言った。



「生命力が凄く弱いって言うか……ここから突然、精霊の声が聞き取りにくくなってるんだ。これまでは精霊の声が煩いくらいだったのに。春だから、特に植物の精霊が。なのに、ここは静かすぎるくせに声が聞こえにくいんだ。まるで何かに邪魔されてるみたいに」



 それを聞いて、陸王も辺りを見ておかしいとは思った。素人目にもアイオイの木々の変化は顕著だ。



「確かにおかしいっちゃおかしいな。辺りに立っているのはアイオイの木だ。だが、どの木にも花一つ咲いちゃいねぇ。蕾すらな」

「それはきっと、精霊が正常な状態じゃないからだ。だからおかしいんだ」

「なら聞くが、精霊がおかしくなっている理由はなんだ」



 陸王の単純明快な質問を耳にして、雷韋は大仰な溜息をついた。そして、じっとりと陸王を見上げる。



「それが分かってたら『おかしい』なんて言ってねぇよ」



 ふてたような声音で言い遣る。



「原因は全く分からんのか」

「そうでもない。多分、この山に原因があるよ」

「ま、そうじゃなけりゃこんな現象が起きたりはしねぇか」



 全く陸王の言う通りだった。山で何かが起きていなければこうはなっていない。そんな事は門外漢でさえ分かる道理だ。


 だからこそ雷韋は苦虫を噛み潰して、その上苦い薬でも飲み込まされたように、くそ面白くもなく顔をしかめてしまうのだが。


 そんな顔の雷韋を見て、陸王は気を逸らすように言った。



「さて、雷韋。あの鹿はどこに消えた」



 それを聞いて雷韋は「え?」と虚を突かれた顔になる。琥珀の大きな瞳が陸王を見た。



「俺達を誘っていただろう。ここまで登ってきたのはあいつを追ってきたからだ」

「そう言や、そうだった。辺りの様子や精霊があんまり変だったから忘れてたよ」

「おいおい、お前が呼んでるだか言って俺を連れ出したんだろうが」



 陸王は呆れた風に前髪を掻き上げた。


 雷韋もそれに合わせたように深い溜息をつく。それはどこか途方に暮れたといった感じだった。



「取り敢えずさぁ、あいつもどこに行ったか分かんねぇからこのまま行ってみようぜ」

「あ?」



 雷韋の適当な反応に、陸王は不機嫌そうな声を出した。思わず雷韋を見下ろす鋭い目つきが不穏な色を帯びる。


 しかし陸王の不機嫌には慣れっこなのか、雷韋は再び陸王の手を掴んで「ほら、行こうぜってばさ」と言って両手で引っ張った。引っ張られて、陸王も仕方なく従う。



「ったく、しょうがねぇサルガキだな。足下、気を付けろ」

「分かってるって言うか、誰がサルなのさ!」



 雷韋は文句を言うが、地面は平坦そうに見えて、確実にでこぼことしているのだ。先を急ぐことにばかり気を取られていれば、簡単に足下を掬われて捻挫でもしそうだ。しかも今の雷韋は陸王を両手で引っ張って後ろ向きで歩いている。


 足を取られて今にも転げそうに見えた。

 流石に陸王も見かねて雷韋にもう一度声をかける。



「雷韋、もう引っ張らんでもいい。一人で歩ける。それよりおまえは精霊の声を聞きながら、あの鹿がどこに行ったかに注力しろ」



「ん~、分かった」



 言って、渋々という風に陸王から手を放すと前を向く。それから数歩歩いたところで、前を行っていた雷韋の姿が忽然と消えた。

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