第一章
過去の残滓 一
緑が濃い。草も木も、一面に茂って噎せ返るようだ。
春の到来。
そこかしこに生命が満ち溢れ、冬の死の時期から蘇生する。
草花は蕾をつけ、あちこちで花開かせている。
だがそれは、草花ばかりではない。木々にも言える事だ。
アルカレディア大陸では今、大陸中に林立するアイオイの木が薄紫の花を開かせている。
アイオイの木が小振りの花を零れるかの如く花開させると、大陸の者達は本格的に春の到来に感じ入るのだ。
遠目に目を遣ると、山も濃い緑を白っぽく霞ませている。
辺りの木々にもばらつきはあるものの、満開の花をつけた木からは風が緩く吹くだけでほろほろと、ほころぶように花びらが舞い落ちる。
その様を見て、
薄桃色の花片が満開に咲くと、まるで山が霞みがかって
そして、朧月夜のもとの桜は更に美しい。
朧に霞がかった月光。
闇に浮かび上がる桜。
緩い風に撫でられて散る桜の花弁。
その光と闇のような対称の美。
まるで一枚の絵のような完璧な美しさが素晴らしかった。
そんな桜の下で一人杯を傾けていると、はらりと枝から舞い降りてきた桜の花びらが杯の中に落ちたりする。その様は、
今、目の前で散る薄紫色の花びらと桜の花びらが、現在と過去を重ねあわせて目に映る。
桜にはほんのりとした匂いがあるが、アイオイの花には濃厚な匂いがあった。その違いに陸王は自分が今、アルカレディア大陸にいるのだと実感させられる。
「陸王?」
その声にはっとさせられた。
数歩前には、緩く波をうった飴色の髪を高く束ねている、十四、五の小柄な少年が突っ立っている。
「何してんだよ、行こうぜ」
雷韋が手招きをしながらかけてくる声に、陸王は足を止めてアイオイの花を見上げていた事に気付いた。気付いて、すぐに雷韋のもとへと歩き出す。
「何ぼけ~っとしてたんだよ。……あ、やっぱアイオイの木って珍しいか? 日ノ本にはないのか?」
目尻に紅を差した大きな琥珀色の瞳が、興味深げに陸王の黒い瞳を覗き込んでくる。
「まぁ、日ノ本で見た事ぁねぇな。似たような花木ならあるが。とは言っても、俺も大陸に渡って来てそこそこ長いからな。もう見慣れた」
黒い髪を掻き上げながら答える。
日ノ本は、このアルカレディア大陸の遙か東の海に浮かぶ島国だ。国は六十六国に分かれて存在し、その頂点に帝が座している。
そして陸王は、日ノ本から大陸に渡ってきた侍だ。大陸では傭兵のように雇われて働く雇われ侍をしている。
それに対して雷韋は盗賊であり、魔導士。正確には
それも異種族の。
それを示すように、少年の耳は尖っている。
雷韋の種族は
それ以前に、雷韋は元々独りだ。親も一族も何者かに滅ぼされ、唯一生き残っていた赤子の雷韋を盗賊
雷韋は陸王の言葉に興味を示したらしく、
「その花木ってどんなんだ? アイオイの花みたく綺麗か? 匂いは?」
陸王の腕を強く引っ張って、日ノ本の話を
日ノ本から渡ってくる侍は少なくないが、彼らはあまり日ノ本の話をしない。それは陸王も同じだ。大陸と日ノ本の価値観はあまりにも違う。話したところで伝わらないから、侍達は日ノ本の話を積極的にはしないのだ。
けれどだからこそ、日ノ本の話はどんな些細な事でも大陸の者には珍しかった。
そもそも、日ノ本はこの世界で最も若い土地だ。大陸で神々の時代が終わったあとに出現した島国だからだ。その為、独特の文化を育んでいると聞く。知られている限りでは、大陸の文化はほとんど及んでいないと言う事だった。
陸王は雷韋のお
「桜と言ってな、儚い花だ」
「儚いって、どんな風に?」
「さっと咲いて、ぱっと散る。……侍の生き様と似ているな。戦で
雷韋は手を顎に当てて少しの間考え込んだが、
「う~ん、よく分かんねぇよ」
聞いたはいいが、結局、想像がつかずに不満げな顔をする。
「侍っつったって、俺、侍なんて陸王しか知んねぇもん。で、あんたみたいな花? あんたはどこからどう見たって、全然花っぽくないよ」
最後は唇を尖らせて、最早
その雷韋の頭を陸王はぽんぽんと叩いて、
「生き様だ、生き様。俺を直接花に例えるな。手前ぇで考えただけでもぞっとする」
そう言って歩き出した。
「あ、待てよ~」
まだ声変わりもすんでいない、奇妙に高い声が陸王を追う。
二人が歩いているのは旧街道だ。木は一応切り倒されたままで開かれてはいるが、雑草が茂っている。
この道を行こうと言い出したのは雷韋だった。
草木が茂っている方が精霊の声が聞こえていいから、と言うただそれだけの事でこの道を行く事になった。
精霊使いの雷韋には精霊の声が常に聞こえてくる。特に春ともなれば尚のことだ。鬱蒼と茂るアイオイの木々、咲き誇る草花。
精霊達は唄っている。
それが雷韋には堪らなく魅力的に聞こえてくるのだ。
だが陸王にとっては、この道は進むに易くない。むっとするほどの花の匂い。特別花の匂いが嫌いなわけではないが、アイオイの花の匂いが
全く迷惑な話だ。
けれど、雷韋がどうしてもと言って聞かなかった。嘘か本当か、精霊達が呼んでいるとまで言い出したのだ。侍の陸王には精霊の声など聞こえるわけもなく不機嫌さを露骨に表したが、雷韋はそんな事には全く構っていなかった。
小さな子供のように駄々を捏ね、強請りに強請って結局、雷韋の粘り勝ちになった。
陸王は足下の草を掻き分け、肩に降り積もるアイオイの薄紫色の花びらを払いながら進んだ。
それでも陸王がこの道に入ったのは、何も雷韋が強請ったからばかりではない。
ちょっとした好奇心も彼の中にはあった。
街道が廃された先に何があるのかと、そんな好奇心だ。
雷韋は精霊使い故に精霊に惹かれて行こうと言い出したが、陸王は木々が排除されているだけになっているこの街道がどうして使われなくなったのかが知りたかった。
案外、春のうららかな日和に陸王の心も緩んでいるのかも知れない。
それにしても花の匂いが鼻に付く。
アイオイの花はそうなのだ。嗅ぎ慣れて鼻が馬鹿になると言う事がない。しっかりと濃く匂う。いつまで経っても匂うのだ。
そのせいで、春先になるとアイオイの花の匂いを染み込ませた旅人や商隊も少なくなかった。
今朝発った村では想像もしていなかったが、まさか自分もそうなろうとしているとは。
確かに嫌な匂いではないが、飽きてしまう。これなら鼻が馬鹿になった方がまだしもだった。
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