第20話 一周年記念の日 1 阪神淡路大震災の日に 

 1995年1月17日。この日は日本国中の誰もが忘れることの出来ない日となってしまいました。


 そろそろ正月気分も抜け、新しい年が動き出したばかりの時でありました。豊かだった日本の経済にも陰りが見え始めてから、もう何年かが過ぎておりました。いつか収まるであろうという期待は、次第に嘆きに変わり出して来ていましたが、それでも新しい年の初めは誰にでも希望の抱ける時でありました。


 そんな日本の先行きの不確かになり出した大変な時に、阪神淡路大震災は起きたのでありました。大異変に、天と地がひっくり返ったようなという表現がなされますが、正しくその言葉通り大地がひっくり返されてしまったのであります。


 

  その日は朝から何となく気忙しい気分でありました。会場も弁当や飲み物などの手配ももうすでについているので、何も心配はなかったのでしたが、何かとても落ち着きません。テレビでも見ようとスイッチを入れると、火事のニュースです。何処だろうと思いながら見ていると、地震が起きたと言っています。

 

  早朝、神戸の町が燃えています。大したことがなければいいがと思いながら朝食の後片付けをしていると、ふと西宮に住む姪のことが気になりました。すぐ姉に連絡すると電話が全く通じないとのことで不安がつのりました。新しい土地に移り住んだばかり、慣れない土地でさぞ心細いことでありましょう。

 

 時間が経つうちに先ほどの火災は次第に大きくなって行きます。だんだん悪いことを想像するようになって、ますます落ち着かなくなりました。私は新潟地震を経験していましたから、地震の恐さがよく分かります。色々なことを考えているうちに、夕方から始まる落語の会などはもうどうでもよくなってきてしまいました。


 午後になってようやく姪の無事を知らせる連絡が入り、私はすっかり元気になりました。テレビをずっとつけっ放しで、地震の様子を気にかけながら過ごしていましたが、あれほどの大災害もその時点では我等仲間達にとっては、どこか遠い所の事件でしかありませんでした。



 落語研究会が出来て一年が過ぎても、月に一度の練習も最近では少々熱意に欠けてきていて、何となくただ楽しく時を過ごしているだけの会でありました。竜頭蛇尾という言葉がありますが、そもそも竜のような立派な頭でもない研究会なのでありますから、その言葉にも当てはめにくく、単なる頭でっかちで尻すぼみの情けない会なのでありました。


 しかしそんな皆の中にも、一周年を迎えた記念に何かをやりたい、という盛り上がりが生まれ、その一二か月前に自分達の落語の発表会をしよう、との提案が持ち上がりました。それで子供達のピアノやバレエのおさらい会のように、盛大に発表会をやる予定を立てたのでありました。

 しかし何しろメンバーの落語に関する実力は「口自慢の仕事下手」でありましたからこりゃぁいけません。どうしたものかと考えた末に良いことに気が付きました。



 師匠の落研の後輩で本職の噺家になった何人かの中から、三遊亭笑遊師匠に来て貰って寄席を開こうではないか、という話に変わっていきました。会場もこの会館の二階、いつもの練習場所であります。単に落語を聴くだけでなくお祝いなのだからと、話の後には飲食と懇談の時間も設けました。この日の為の打ち合わせが何度も広原さんのお店で行われ、準備も万端整えてこの日を迎えたのでありました。




 お客は予定時間よりもずっと早くから集まってくれました。予想以上に入場券の売れ行きがよく、会場は超満員になりました。飲食付きで落語を聴くというのもよく売れた一因だったようですが、それ以上に皆の売り込みがものすごく上手だったのでしょう。あれほどに自己愛の強い、自己PRの上手い人達の集まりですから当然のことでもありました。


 

 相変わらず佐川さんはお店の方はそっちのけで、色々と気配りに大忙しで。下足番に不備はないか、会場の暖房は効いているか、座布団は足りているか、電球は切れていないか等とあちらこちら走り回っております。広原さんは弁当の注文にかかりっきりです。


 武田さんは受付係でお客に愛想を振りまいていて、その様子がとてもかわいらしい。ほとんど顔なじみのお客ばかりで、なかなか挨拶も大変でして。

 鍋さんは会場の色々な所でカメラを向けて記録撮影係りとして張り切っているし、弦巻さんは座布団の敷き加減を調節し、お客を上手に隅からキチンと座ってもらっています。なにしろ会場に一杯の人なので上手く座らないと溢れてしまうほどでありました。


 榎木さんはお客に駄洒落を言って「もう前座を勤めさせていただいてまぁす」と楽しそうにやっておりまして。浦辺さんと師匠は今日の出演者と隣の部屋で打ち合わせをしています。皆それぞれが忙しくしている中、鬼頭さんは悠然と構えて部屋の中央に座り、始まるのを待っております。回りに座っているお客を相手に、


「我々の芸は未熟で、今日は本職に来て貰うことになったんだが、そもそも芸なんてぇものは客に見て貰えるようになるまでには、なかなか大変なもので、一朝一夕には出来上がるものではなくってだねぇ・・・」

 と又、相手の迷惑はお構いなしにこむずかしい芸術論とやらを語っております。



 予定の時間までにはもうすっかり会場は満員の人で埋まり、会は時間通りに始まりました。

 「今日、神戸の方で地震がありまして、こんなに被害が大きいとは知りませんでした。昼の段階ではあまり詳しいことも分からなかったのですが。

 あちらの方で大変なことになっている時に、我々ここで笑っていていいものかどうかとも思いますが、全く予期せぬ出来事でしたので・・。」

 「うちは親戚が大阪方面にいるのですが、無事だと聞き安心しました。皆さんの所では如何でしたでしょうか」


 師匠は被害の大きさに戸惑いながら挨拶をすると、会場のあちこちから「大阪の叔父の所は大丈夫だった」とか「神戸の姉さんから電話があった」とか言う声が聞こえてきて、皆でそれぞれの知り合いの無事を喜び合うというおまけ付きの会になりました。




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