6月 4日 お題:悪堕ち・『掃除しよう』
「きゃっ!?」
ぼんやりと歩いていた私は、突如甲高く鳴り響いたブレーキ音に驚き、尻餅をついてしまった。
ふと我に返って見れば、歩行者用信号は赤。寸前で止まった車のドアが開き、慌てた様子で運転手のお姉さんが降りてくる。
――ああ、またやってしまった。
「だ、大丈夫!? どこか、怪我してない? す、すぐに救急車と警察を呼ぶわ!」
「い、いえ……大丈夫です。ただ転んだだけで、当たってないですし…… また警察のお世話になったら、怒られちゃいますし」
前にやった時にはそれはもうこっぴどく怒られた。2回目の今回がどうなるか……あまり想像したくない。
「せめて何か、お詫びぐらい――」
「本当に、大丈夫なので――痛っ」
立ち上がろうとして、左脚に痛みが走る。どうやら、変に捻ってしまったらしい。
「大丈夫!?」
私が足を押さえてうずくまるのを見るや、お姉さんはさっきまでの慌て様が嘘のような手際の良さで私の脚を診ていく。
「……捻挫ね。大丈夫、折れてはないわ。でも、早めに冷やしたほうがいいわね。私の職場、この近くなの。乗ってかない? 応急処置してあげるから」
「それは……」
多分このまま乗せていってもらったら、間違いなく遅刻だ。かと言って、このまま学校に着くまで放っておいたら悪化するのは間違いない。
どうしようか……
「ああ、ごめんなさい。急にこんなこと言われても、警戒するわよね。大丈夫、怪しい者じゃないわ」
迷っていると、私が警戒していると勘違いしたのか、お姉さんは名刺を手渡してきた。
「臨床心理士……メンタルクリニック・頭の掃除屋 所長……?」
「ええ。どう、信用してくれた?」
「え? あ……はい。そうですね。手当て、お願いします」
「オッケー、任せて。じゃ、後ろ乗っちゃって。肩、貸したほうがいい?」
「あ、いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
そうして私は、お姉さんの車で手当てをしてもらいに行くこととなった。
――この出会いが、私の運命を大きく変えることになると、私はまだ知らなかった。
♦
それから車に揺られること数分、お姉さんの職場へと到着し、待合室で足を冷やしてもらっていた私は、暇を持て余し、ふと、お姉さんに仕事のことを聞いてみた。
「そうだ、そういえば、頭の掃除屋って、何をするんですか?」
「あら、興味があるの? ま、頭の掃除屋と言っても、やっているのは一般的な催眠療法よ。トラウマの克服や、思い出したくない記憶の封印、それから、思い出せない記憶の呼び起こし、だったりね」
「思い出せない、記憶……」
「おや、心当たりがあるの?」
「えっと……そう、だと……思います。朝、ぶつかりそうになったのも、それが原因で……」
もしかしたら、ここでなら…… "あの事"に、納得のいく答えが出せるかもしれない。
「なるほどね……それは確かに解決したいはずね。それにしても、だと思う……か。ずいぶんと曖昧ね」
「そう……ですね」
実際、私にもそれが本当に忘れてしまった記憶なのか、それとも元から存在すらしなかった記憶なのか、区別がついていないのだ。
「ま、忘れかけた記憶なんてそんなものよ。どんな記憶か、分かる範囲でいいから話してみて。呼び起こしてみれば、何かわかるかもしれないわ」
「え、でも私お金なんて――」
「ああ、いいのいいの。私が気になるだけだし、さっきのお詫びもかねて、お題は結構よ」
「じゃ、じゃあ……お願い、します」
無料でやってもらってしまうことにあまり気乗りはしないが、それでも、この疑問は早急に答えを出したい。
「よろしい。それで、どんな記憶なの?」
お姉さんは、満足そうに笑顔を見せた。
「えっと…… 名前どころか、声も、容姿も、まるで思い出せないけど…… 私には、親友がいたはずなんです。でも、いつの間にかいなくなっていて…… 存在したということ以外何も思い出せないのに、彼女のことが頭から離れなくて、胸が苦しくて…… だけど、誰に聞いてもそんな女の子は知らないって言われて……」
「なるほど…… それは確かに曖昧ね……」
「私自身、彼女のことを思い出したのはつい3日前で……」
「3日前……なにか、切っ掛けがあったの?」
「はい。ちょうどその日、私の誕生日で、手紙が届いたんです。多分、その親友から」
「それで思い出した……と。成程……興味深い」
私の話を聞くうち、お姉さんはどんどん怖い表情になって何かを考えこんでいた。
「あ、……そうだ、ひとつ注意があるんだけど、聞いてくれる?」
ハッとしたように、お姉さんは元の調子に戻って話しかけてくる。
「注意、ですか?」
「実は、記憶を呼び起こすのには、少しだけ副作用があるの」
「副作用……」
「ええ。ちょっとした物忘れ程度なら何ともないんだけどね。心の奥に深く埋まった記憶を呼び起こすと、その分他の、どうでもいい記憶が思い出せなくなってしまうことがあるの」
私の不安を察してか、お姉さんは優しそうな表情をして続けた。
「殆どはCMやら街で見た広告やら、本当に他愛のない記憶なんだけどね。何を忘れてしまうか分からないから…… 怖いようなら、やめてもいいわ」
「いえ……大丈夫です。続けてください」
「分かったわ。足も、もう大丈夫そうだし、行きましょうか」
お姉さんに支えられながら、私は診察室へと向かい、備え付けられた椅子に腰かける。
「じゃあ、始めるわね。目を閉じて、リラックスして……」
言われるがまま、目を閉じて全身の力を抜く。
「鼻からゆっくりと、深く息を吸って…… 吐いて……」
アロマか何かを焚いているのか、深呼吸をすると、微かないい匂いが鼻腔をくすぐり、心がより一層落ち着いていく。
「そのまま、心の奥に沈み込んでいくことをイメージして……」
だんだん、何も考えられなくなり、お姉さんの声が遠くなっていく。
普段眠りに落ちるのとはまた違った心地よさで、私の意識は深淵へと堕ちていった……
♦
パンッ、と手を叩く音が響き、私の意識は急速に覚醒へと導かれる。
「おはよう」
「あ、あれ? もう、終わり……ですか?」
一瞬眠ったかと思ったら、次の瞬間にはもう目覚めていたような、そんな感覚だ。
それに、彼女のことは、依然思い出せないまま。
「ええ、終わったわ。あなたの親友のことも、しっかり分かったわ。あなたにはまだ思い出せないだろうけど…… でも安心して。あなたの親友は、実在する…… いえ、実在していた、ね」
「実在……していた?」
「そう。あなたの親友は、もう、この世界にはいないの。あなたが彼女のことを思い出せなかったのは、忘れていたのではなく、記憶を奪われていたから」
「どういう……ことですか?」
「……あなたの親友は、勇者として異世界に呼ばれたの。それで、もう帰ってくることはできないから、彼女の存在はこの世界からなかったことにされ、そのせいでこの世界の人間の記憶からも消えてしまった。だから、あなたが全てを思い出すには……世界の呪縛を、解く必要がある」
お姉さんは真面目な顔で、にわかには信じられないような話を淡々と続ける。
「どうして……そんなことが言えるんですか?」
「それはね、私が……」
お姉さんの姿が、どこからか現れた黒い霧に包まれていく。
「……その異世界から、来ているから」
やがて霧が晴れた時、お姉さんの姿は、この世のものとは思えないような姿になっていた。
漆黒の翼と尻尾に、捻じれた角、そして青白い肌。形容するならば、まさしくそれは悪魔。
「……っ」
「驚かせてしまったわね。でも安心して、あなたに危害は加えないわ。むしろ、あなたを探していたの」
「私を……?」
「そう。あなたこそ、勇者を知り、そして勇者を知っている、彼女に対する一番の切り札。まさかこんなに早く出会えるとは、思わなかったわ」
「……つまり、あなたは、あの子の敵……ということですか?」
切り札として私を探していた、とくれば、彼女があの子の味方であるはずがない。
「察しがいいわね。その通りよ」
「……どうして、わざわざ正体を明かしたんですか?」
「それはもちろん、あなたには私に対抗する術なんてないし…… それに、彼女の記憶を取り戻したいなら、あなたは否が応でも私の誘いに乗るしかないから」
「……っ」
確かに…… 今、彼女だけがあの子に繋がる唯一の手掛かりだ。
それに、世界を超える話、なんて他に誰を頼ればいいのかすらも分からない。
あの子との記憶が確かに存在したと分かった今、胸の痛みは増すばかりで、あの子の記憶を求めずにはいられない。
だったら……たとえそれが、悪魔の囁きでも、私は……
「わかり……ました。 教えてください。どうすれば、あの子のことを思い出せるんですか?」
「それは、誘いに乗る……ということでいいのかしら?」
「……はい」
「ふふっ、分かったわ。教えてあげる。簡単よ。あなたが、この世界の存在でなくなればいいの」
「この世界の存在で、なくなる……」
「ええ、そうよ。 まず、あなたの中から、彼女以外の、この世界に根付いた記憶をすべて消し…… それから、私たちの仲間となってこの世界の理を外れ、そしてこの世界を離れること」
「記憶を……全て……」
「そう。それで、あなたはこの世界の呪縛から解放される。 さあ、彼女か、それともそれ以外の全てか…… あなたは、どちらを取るの?」
そんなの、決まってる。
「もちろん……あの子です」
「そう。後悔はない?」
「……はい、もちろん」
「良い答えね。ではまず、"頭のお掃除"……始めましょうか」
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