第4話 外れない、鎖

 月神島 将太宅~月神荘


「なあ、おっちゃん」

 これまでにないほど深刻な表情で居石が言う。

 運転している浜田、助手席の神野だけではなく、袈裟丸もその表情から強い決意のようなものを感じていた。

「なんだ?」

 神野の声にも緊張感が伺える。

「腹減った」

 この十秒を返せと言いたかった。

 車内が静寂に包まれる。

「隼人さん、こいつに飯食わせてないの?」

「いや…たらふく食べられた」

 まだ後部座席の袈裟丸の隣で、腹減った、と呟く居石は目が虚ろになっている。

「要、帰ったら病院に行こう」

「へ?なんでだよ?」

「さっき、死ぬほど食べただろう?それなのに腹が減るっているのはおかしい」

「こんな健康体な人間捕まえて言うセリフじゃねぇな」

 車は将太の家から月神荘に戻っている。

 月神橋の爆破を示唆した人間がいるということがわかったのは、事態収拾に一歩前進となるのかどうか、袈裟丸には分らなかった。

 しかし、少なくとも、将太が計画したものではないということが分かっただけでも、かなりの成果である。

 時刻は午後八時を回った頃だった。

 風はまだ吹いているが、雨は少し弱くなったような気がした。台風の中心に近づいているのかもしれない。

 将太の家から月神荘までは、一本道である。民家や店舗、月神荘と同じような民宿の間を通り抜けて、車が左折した時、一瞬、人影が見えた。

「ん?」

 後部座席の窓から外を見ていた袈裟丸は声をあげる。

「どした?」

 隣の居石が声をかける。

「いや…今、人影が見えた気がしたんだよな…真っ黒だったから交渉人かな…」

「こんな夜に外を出歩くなってんだよな。あれに夜道で出会ったら、死因になるぜ」

 酷い言われようだが、まだ諌とは決まってない。しかし、もしそうならば驚いて心臓が止まるだろう。

 時代が違えば辻斬りだと思われるに違いない。

「諌がいたのか?」

 神野がバックミラ越しに尋ねる。

「ああ…なんかそんな風に見えたんですけれど…」

 車は進んでいるので、とっくに通り過ぎている。

「勝手にほっつき歩きやがって」

 まだ、決まったわけではない。

 しかし、神野の頭の中では諌が歩いていたというように決めつけたようだった。

 そこから三分もしないうちに月神荘に到着する。

「自分はもう帰ります。何かあったら、遠慮せずに一報を」

「遠慮なんかするかよ。非常事態だからな、しっかり働いてもらうぜ」

 神野が言うと、浜田は、では、と言って車を走らせる。

「ただいま」

 三人が連れ立って民宿に入り食堂に向かうと、ゆのが食道のテーブルで鉛筆を持っていた。

「あれ、しおりはどうした?」

 神野の問いにゆのは首を振った。

「なんだ、一人で留守番か?」

 居石がドタドタと足音を立てて、向かいに座る。

 ゆのは算数のドリルを解いていた。

 神野は、ったく、と言ってキッチンへと姿を消す。

「ゆの、偉いな」

 ゆのは頷く。真剣に解いていたのか、表情が暗いように思えた。

「夏休みの宿題なの。早くやって残りの日は遊びたいから…」

「計画的だね」

 袈裟丸も居石の隣に座る。

「しおりも高校生だろ?あいつも宿題やってんのか?」

「要もやってなかっただろ?」

「なんでわかんだよ。見てたのか?」

「見てなくてもわかるよ」

「お姉ちゃんはもう終わってるって言ってたよ」

「さっすがぁ。お前のお姉ちゃんはすげぇな」

 満面の笑顔で言う居石に、ゆのも笑顔になる。

 姉を褒められたから嬉しくなったのだろう。

 二人はしばらく、ゆのの宿題を見てやりながら、雑談をしていた。

「今日は大変だったな」

 神野がエプロンを着けたままキッチンから出てきた。

 両手でプレートを持ち、居石ら三人が座っている隣のテーブルにプレートを置く。

 その上には缶ビールが二本と小皿に乗った料理が三つ乗っていた。

「すまんが、好きに晩酌していてくれ。簡単で悪いが肴も作っておいた」

「おっちゃんは飲まねぇのか?」

 ぐったりとした表情で神野はエプロンを外す。

「ちょっと身体がしんどくてな。悪い。先に休むわ。足りなかったら冷蔵庫に追加のビールはある。それに棚にも酒は各種あるから、勝手に飲め」

 神野は片手を挙げて奥に消えて行った。

「おっちゃんおやすみー」

 居石がその背中に声をかけた。

「おっちゃん、大丈夫かな…」

「まあ、とりあえず疲れたんだろ。俺たちが来て気を遣って…ないかも知れないけれど、橋が爆発されたり、知人が亡くなったり」

 ここで言う知人とは将太の事である。

「そう言えば、ここに来て島の人たち、見てねぇよな」

「そりゃ台風だからな。外を出歩くわけにはいかないだろう」

「まあ、そうかぁ。わざわざ被害に遭いに行かないわな」

「お土産屋さんとか、民宿とか、そう言った商売をしている人たちだろうから、特に困らないんだろうしね」

 神野は島を観光地としようと考えて失敗したと言っているが、それなりに観光客はいるのだろう。でなければこうした宿はやっていけない。それでも賑わっているとは言えないのかもしれないが。

 居石は膝を叩きながら、よいしょ、と立ち上がると、神野が準備してくれた晩酌セットの方のテーブルに向かう。

「あ、お兄ちゃん、こっちのテーブルでいいよ」

 ゆのが言う。

「子供は気を遣うんじゃねぇよ。俺らは大丈夫だから。酒くせぇ息を浴びせたくねぇからな」

 そう言って缶ビールを開けた。

「お兄ちゃんは飲まないの?」

 ゆのが袈裟丸をじっと見つめている。

「ああ、もうちょっとしたらね。それまではゆのちゃんに付き合うよ」

「俺の酒には付き合ってくれないんだなぁ。へっ。いいですよ」

「子供より拗ねてるんじゃないよ。何歳だ」

 大声で笑って居石はビールに口を付ける。

「あのね、お姉ちゃんとゆの、お父さんの本当の子供じゃないの」

 居石はビールを盛大に吐く。

「ちょ…いきなり何言ってんの」

 咳き込みながら居石は立ち上がる。拭く物を取りにキッチンへと向かった。

 袈裟丸も、ゆのが言い出したことに戸惑っていた。

 ゆの本人は、丸い目を開いて袈裟丸を見ていた。

「ゆのちゃん、ちょっとお兄ちゃんも動揺を隠せないんだけれど、どういう意味かな?」

「ゆのとお姉ちゃんの本当のお父さんは、他にいるの」

「神野さん…さっきまでいたのは、本当のお父さんではないの?」

 ゆのは、うん、と頷いた。

 居石が雑巾を持って戻ってくる。自分の吐き出したものを拭きながら、やはり気になるようで口を開く。

「じゃあ、お前らの父ちゃんは、どこにいるんだ?」

「わかんない」

「わかんないのか…」

「今のお父さんとは…どうして一緒に暮らすことになったの?」

 袈裟丸はゆっくりと尋ねる。

「あのね、ゆのがまだ小さい時には、お姉ちゃんとだけ一緒にいたの。でも今のお父さんが迎えに来て、一緒に住むよって言われたの」

 だからだよ、とゆのは言う。

 やはり、ちゃんとしたことはまだわかっていないようだった。

 聞くならば、しおりに尋ねるのが一番だろう。

 拭き終わった居石が、雑巾をテーブルの上にポンと投げて、よいしょと座る。

「でも、そうは見えなかったけどな」

 改めて居石はビールを飲む。

「ゆのは…ちっちゃい頃から今のお父さんと一緒だから、もう今のお父さんといる時間が長いの」

 袈裟丸は頷きながら、話を聞く。

 ゆのは話しながらもペンを動かして計算式の答えを書き込んでいる。

「仲がいいっていうのは、悪いことじゃねぇよ。いいじゃねぇか」

 神野の作ってくれた、牛のしぐれ煮を口に運んでいる。

「どうして急に話してくれたのかな?」

「んー、わかんないけど…なんかお兄ちゃんたち、ゆのにお兄ちゃんがいたらこんな楽しいんだろうなって思って」

 少なくともゆのは二人に心を許してこの話をしたのだろうと解釈した。

「嬉しいねぇ」

 そう居石は言うとビールを飲む。

「お前らの父ちゃん、あ、今の父ちゃんな。こうした商売やっていると外から人がたくさん来るだろう?」

 ゆのは頷く。

「将太さんはここにも来ていたのか?」

「将太兄ちゃん?将太兄ちゃんは、お父さんにお金を借りに来てたりしてた」

 お金に困っていて、神野に助けを求めたこともあったのだろう。

 それにしても、ゆのから聞き出すなんて、居石の手腕もなかなかだと思った。

 本人が自覚していたかどうかは分からないが。

「ゆのちゃん、ちょっと聞きたいんだけれど…」

 ゆのが顔を上げる。

「宿題中ごめんね。あのさ、今のお父さんの所で暮らし始めて…嫌な気持ちになったこと…あるかな?」

「耕平、お前なに、聞いてんだよ」

 居石の眉間に僅かに皺が寄る。

「うん、変な意味じゃないんだ」

「変な意味しかねぇだろ」

 なあ、とゆのに優しい口調で語り掛ける。

「嫌な気持ちになったことはないよ。見てわかる通り、お父さんってぶっきらぼうで口が悪いときあるでしょ?でもね、島の人の事考えて仕事しているから、本当は優しいの」

 ほら見ろ、と言わんばかりに居石が袈裟丸を見る。

 幼く見えたゆのだったが、冷静に観察して自分の考えを発言できていた。

 袈裟丸にはそれが新鮮な発見だった。

 ゆのの生きてきた環境がそうさせたのかどうか、それは袈裟丸には判断できなかったし、その判断にも意味はないだろう。

 それでも、目の前の十歳の少女はしっかりと見ているのである。

「そっか、変なこと聞いちゃったね、ごめんね」

 いいよ、と笑顔で答えると、ゆのは計算に戻っていった。

「俺も…飲もうかな」

「おう、来い来い」

 それから二人で酒を飲み始める。

 午後十時過ぎ、勢いよく玄関のドアが開く。

 ゆのを含めた三人がドアの方に視線を向ける。

 そこには息を切らせて立っている浜田がいた。

 顔が濡れているが、汗だと一目で分かった。

「神野さんは…」

 その後に言葉が続きそうな途切れ方だったが、単に居場所を尋ねられているだけだと気が付く。

「先に休まれました…」

 聞き終わる前に浜田は上がり込むと、額の汗を腕で拭いながら、神野が消えて行った方向に進む。

 浜田はどこで神野が寝ているか分かっているのだろう。

 袈裟丸と居石は顔を見合わせて立ち上がり、その後を追う。

「なんだろうな」

「考えたくねぇ」

 居石は言ったが、酒に酔っている、というわけではなかった。

 キッチンへ続く扉を開けて、さらにその先、居石と袈裟丸の部屋の向かい側が神野の部屋だった。

「隼人さん、入るぞ」

 返答を待たずに扉を開ける。

 神野は何もかけずにベッドに寝転んでいた。

 枕もとには缶ビールが置かれていた。

「ん…なんだ、騒々しいな…」

 眩しそうに半目で浜田を見る。後ろの袈裟丸たちにも気が付いたようだった。

 神野はゆっくりと上半身を起こして、ベッドに座り込む形になる。

「隼人さん、来てください。見て欲しいんです」

 浜田はゆっくりと慎重に言った。

「…明日じゃ駄目なのか?」

 まだ神野の声は寝起きだった。

 何時だよ、と言ってスマートフォンを確認する神野の声に被せるように浜田は言った。

「今すぐです。お前らも…来てくれ」

 二人は顔を見合わせて頷く。

 袈裟丸の嫌な予感が、頭の中で台風の様に肥大していった。


 月神町 クリスタル店内


「話?」

 公家が聞き返す。

「この状況を説明できるのか?」

「この状況…まあ…そうですね…多分」

 切迫した公家の口調に対して、古見澤は抑揚のない声だった。

「公家さん、こいつは何なんですか?こっちは店としても大切な従業員も失ったんですよ。こんな奴に時間割くくらいなら、ちゃんとした捜査をしてくださいよ」

 それに、と杉田は続ける。

「どう見たって運ばれて行った宇喜多だろ?死んだあかりと同じ部屋にいたんだ。殺してトイレに立て籠ったんだよ」

 公家は困惑した表情だった。

「中にいただけで犯人となると、同じようにこの店の鍵を持っていたあなたも怪しいですけどね」

 杉田は古見澤を睨み付けて、お前は黙ってろ、と言った。

「わかりました。じゃあ、黙ります」

「ちょ…ちょっと待ってくれ。杉田、彼の言うことは傾聴に値する。少し聞く時間をくれ」

 杉田は睨み付けるように古見澤を見ると、黙って店のテーブル席の一つに大げさに座った。

 まるで漫画やドラマのワンシーンのようだと古見澤は思った。

「続けてくれ」

 ゴーサインが出た。さっさと安田の家で寝るために話始める。

「状況を整理しますけど…杉田さんがこの店に来て、扉を開錠すると、木下さんが倒れてきた、その木下さんは死んでいた。同時に店のトイレの中で木下さんのヒモ…ちょっと定義が良く分からないんで彼氏で統一します。その彼氏が頭を負傷して倒れていた。ここまでは良いですね?」

「まあ…ひどく簡単だな」

「まとめるとそうなりますよね。そんなものだと思います」

 古見澤は目を閉じて続ける。

「一つ。公家さんが聞いてなかったことがあったので、杉田さんにお尋ねします」

 杉田は不貞腐れたような表情で虚空を見ていた。

 古見澤は気にすることなく、続ける。

「昨日、最後に店を閉めたのは何時ごろですか?」

 問いかけられた杉田は暫く黙っていたが、公家が咳ばらいを一つすると、大きく溜息を吐いて口を開く。

「昨日っていうか、今日だよ。朝の五時に店を閉めた。それからさっき店を開けるまで家で寝てたよ」

「そうですか、ありがとうございます」

「その質問で何かわかるのか?」

「いえ、確認です。ついさっきまで店にいたっていうことなら話は変わるんで」

 公家は困惑するような表情で古見澤を見る。

「ということは、早朝の五時以降に、木下さんと宇喜多さんはこの店にいたことになります。何やってたんですかね?」

 公家の表情はさらに困惑した。

「大方、宇喜多の野郎があかりに金をせびりに来たんだろ。金が足りなくなるとすぐに自分の所に来るって言ってたからな」

 杉田が相変わらず虚空を見て話す。

「実際に、被害…というかその事実があったのか?」

 公家は杉田に詰め寄る。

「まあ、そう言ったことは、終わった後に、病院にでも行って存分に聞いて下さい」

 割って入る古見澤に、公家と杉田は呆気にとられた表情だった。

「どこから話しましょうかね…じゃあ、まず、杉田さんが言ったことを否定しましょう」

 自分の名前が呼ばれたことで、杉田はむっとした表情をした。ただ話の雰囲気で人格を否定されたと思って憤る人を古見澤は見たことがあるが、その例に漏れない、自分にとって定型的な人物だった。

「杉田さんは宇喜多さんを殺害犯にしたいようですけれど…」

「理解できないんなら、もう一回言うか?あいつは…」

「あ、いいです。全く無意味な妄想なので」

 なに、と言って立ち上がる杉田を公家が抑える。

「杉田さんが言っている、宇喜多さん犯人説は、行動原理として間違っています」

 言い切る古見澤に杉田はまだ怒りが収まらないようだった。

「仮に宇喜多さんが殺したんだとすると、なぜ店から逃げなかったんでしょうか?」

 公家も杉田も力が抜けていく。

「さっさと逃げれば良かったのに、トイレに立て籠る必要は無いです。それに、宇喜多さんは頭を怪我しています」

「そんな怪我なんか自分で頭を殴ったりすればいいだろう?」

「なんのために?」

「それは…自分も襲われたんだっていうように見せかけるためだろ」

「意識失うくらい殴る必要はあるのかっていう問題はありますけど…」

「自分を殴ったことある人間なんていねぇだろ。力加減を間違ったんだよ」

「一理ありますね。でも、それならドアを施錠して、そこに木下さんを座らせる必要は無いですよね?」

 杉田は黙った。

 それを見て、だから、と古見澤は続ける。

「宇喜多さんが殺害した、とすると、その後の宇喜多さんの行動がおかしいんです」

「木下が襲われながらも、犯人を店の外に追い出して、自分で鍵を締めて、そこで力尽きた、ということは考えられないか?」

「うーん…それは、木下さんの死因で否定できますね」

 公家は、あ、と声を上げた。

「木下さんは絞殺です。やったことないので知りませんが、犯人としては死んだことを確認して力を緩めるのではないですか?」

 公家は唸った。

「つまり、宇喜多が木下を殺害するには、状況がおかしい、と?」

「そうです。そうなると、犯人となる条件は絞られています。まず、木下さんの勤務状況を把握できた人物」

「殺す対象が店にいなければ意味がないからな」

「これだけだと、お店に来ているお客さんでも可能です。お目当ての女性がいれば…こうしたお店って、懇意になるとお店の女性からこの日はいるよって連絡が来たりするんですよね?」

 杉田は何も喋らない。杉田に代わって公家が答える。

「店に寄るらしいが、そういうことはあるらしいな」

 古見澤は頷く。

「次に、この店の鍵を入手できた人物です。こうなると、お客という訳にはいきませんね」

 公家の額に汗が滲んでいる。緊張しているのだろうかと古見澤は考える。

「鍵は店の金庫の中にありました。この店では最近、一度に大人数の女の子が辞めました。その時に預かった鍵が束になって保管されているはずでしたが」

 古見澤は一度杉田の顔を見る。

 体勢は同じだったが、表情は、何もなかった。

 無という表現しか古見澤には浮かばなかった。

「一本、無くなっていました。ちなみに木本さんの鍵は本人の手の中にありました」

 古見澤はジーンズの後ろのポケットに手を入れる。

「これは…金庫の中、店の鍵束と一緒に保管されていた残り二つの鍵束です」

「古見澤君、勝手に…」

「あとで何万回でも謝りますから」

 そんも発言で公家は黙った。

「この鍵束には大きさと形が違う鍵がいくつも取り付けられています。何に使うかはわかりませんけれどね」

 上手いことを言ったつもりだったが、二人は無反応だった。

「さっき、お二人が木本さんの死体の方に向かった時に持ってきました。ちなみに、こちらが店の鍵束です。ここに置きますね」

 古見澤は近くのテーブルに三つの鍵束を置いた。

「公家さん、見てください。この三つの鍵束を見て何か気が付きませんか?」

 近寄ってきた公家はテーブルの鍵束をじっくりと見る。

「鍵だってことくらい…だけれど」

 公家はそう言いながら顎に手を当てて見ている。

「店の鍵束は、全て鍵が揃っていますけれど、他の二つの鍵束は形も大きさもバリエーションがありますよね?」

「ああ…確かに…」

 納得するように公家は頷くと、古見澤を見る。

「それが…どうしたんだ?」

「店の鍵が一本無くなっていましたよね?」

 古見澤はそう言うと、店の鍵が取り付けられていない鍵束の内の一つ、さらにその中から一本の鍵を選んだ。

「この鍵は店の鍵と同じ形をしていますね?」

 公家は店の鍵束を取り上げて、見比べる。

「確かに同じだな」

「店の鍵束以外の二つの鍵束の中で、店の鍵と同じ形状はこの一本だけでした。つまり、無くなった一本の鍵はここに取り付けられていたんです」

「待ってくれ…この鍵は名前のシールが無いが?」

「シールなんですから剥がせば良いでしょう?」

 公家は、店の鍵束ではない方に取り付けられていた鍵を手に、入り口ドアへと向かう。

 外から鍵を差し込み回すと、ロックが飛び出してきた。

「確かに…店の鍵だ…どうしてこんなところに取り付けてあるんだ?」

 その問いは手に持っている鍵を見ながらの発言だった。

「店の鍵が無くなったように見せかけたいからでしょうね」

 公家は戻ってくる。

「それはそうだが…」

「金庫の中の引き出しを開けた時に、僕らは店の鍵を探していました。その頭で鍵束を見つけた時に、僕らのフォーカスはそれだけに合うようになります。特に、最初にこれが店の鍵だと言って手に取った人物がいれば尚更です」

「まだピンと来てません?」

 公家の額から汗が一滴流れた。

「この付け替えができたのは誰かってことです。お店の重要そうな書類などが入っている金庫です。開けられるのは限られるでしょう?というより一人しかいませんよ」

 公家は黙ったままだった。

 古見澤は公家が理解していると推測した。

「こいつは、俺がやったって言いたいんだよ」

 杉田が不貞腐れた表情で言った。

「まあ、あなたがやったって考える方が自然ですよね」

「俺はただ店を開けただけだって言ってんだろ」

 杉田は激高して立ち上がる。古見澤は微動だにしなかった。

「じゃあ、あなたと公家さんが会った、その時点でなぜ首を絞められていたことを知っていたんですか?」

 杉田が息を飲む音がしっかりと聞こえた。

「…は?」

「公家さんが死体を確認するまで、木下さんが首を絞められて死んでいたことは分かりませんでした。なぜそれをあなたが知っているんです?」

「見りゃ…わかるだろう…」

「木下さんの首にはストールが巻かれていました。首にはきっと絞殺の痕跡があったでしょうけれど、公家さんが死体を調べるまで、死因がはっきりとしていない状態です。死体に触れていないとあなたが証言した、その段階であなたは絞殺だと宣言しているんです」

 杉田は沈黙していた。

 古見澤はちなみに、と続ける。

「公家さんはストールで首を絞めたと考えていたようですけれど、それはちょっと無理かもしれないです。僕も触ったことありますけれど、ストールって薄いんですよ。首を絞めるほどの力に耐えられるとは思いません」

 古見澤は杉田の目を見るが、杉田は視線を逸らす。

「それに、ストール自体にほつれとか、変形は認められませんでした。つまり、ストール自体は凶器ではないし、ストールが巻かれた状態から、絞殺の痕跡を観察することはできません」

 店内は静寂に包まれていた。

「あれは、絞殺の跡を隠すためにあなたが巻いたものですね?店に置いてあった衣装の中からストールを見つけて巻き付けたんです。でも…あの色はアンバランスです。木下さんは真っ赤なドレスでした。そのドレスに群青色のストールは…似合わないと僕は思います」

「古見澤君、杉田はなぜこの店を施錠したんだ?」

 木下が発見されたとき、杉田は店を開けた時に、飛び出してきた、と言っていた。

「それについても、説明します。まず、木下さんが殺された時に何が起こったのか」

 杉田の額に汗が滲んでいるのが、見えた。

「恐らく店内で揉め事が起こったと思います」

 古見澤は目を閉じる。

「カッとなった杉田さんは、木下さんは絞め殺します。つい、弾みで殺してしまったことに呆然とした、杉田さんは一度、金庫のあった部屋に戻ります。この時、店の扉の鍵を締めていなかったことが杉田さんの不運でもあり迂闊だったところです」

 公家は真剣なまなざしを古見澤に向けていた。

「店内に戻った杉田さんは愕然とします。木下さんの死体の側に、宇喜多さんが立っていたのです。動揺した杉田さんは鈍器のようなもので宇喜多さんを襲います」

「宇喜多は杉田に襲われたのか…」

「宇喜多さんは店の奥側にいたのでしょう。入口から逃げるより、近場の扉に入って籠城することを選んだ。宇喜多さんがトイレに入ったのはそのためです。しかし、杉田さんの一撃が強かったのか、トイレの鍵を締めたまま、宇喜多さんは気を失います」

 目を開けた古見澤は杉田に視線を向ける。

「追撃できなくなった杉田さんは、木下さんを引き摺って外に運び出そうとします」

「外?」

「はい。改装作業中の店に運ぼうと考えたんです」

 杉田が拳を握っているのが見えた。少し古見澤も緊張する。

「しかし…それよりもさっさとこの場から逃げようと考え直した杉田さんは、途中で運ぶのを諦めます。諦めたところが丁度入り口の所でした。杉田さんは奥からストールを持ってきて首に巻きます。そのまま、上半身を起こすようにして扉を閉めて施錠するんです」

 ゆっくりと歩いて杉田と距離を取る。まだ杉田は握り拳のままだったからである。

「それからはエレベータを使って下に降りようとして、僕らに出会ったんです。不運でしたね」

 話ながら移動して、公家よりも後方に立つ。

 杉田は公家と古見澤を睨み付けるように見る。

「杉田、もう少し詳しく、話を聞かせてもらえるか?」

 公家が一歩踏み込んだ瞬間、杉田は走り出す。

「待て!」

 公家もその後を追う。しかし、杉田が飛び越えた木下の死体を公家は丁寧に避けていた。

 廊下に出た公家と古見澤だが、杉田の姿はもう見えなかった。

「公家さん、あれ」

 古見澤の視線の先、エレベータを通り抜けた廊下の先に、非常口があった。この先は非常階段に続いている。

 公家は頷いて走り出す。

 走り出したタイミングで、エレベータが開き、警察の鑑識係が数人到着した。

 鑑識の人間と公家はぶつかってしまった。

 公家が立ち上がり、非常口に取り付けられたレバーを上げてからドアを開いて杉田を追った。

 古見澤は後を追うことはしなかったが、非常口から出て階段から下を覗く。

 公家が勢いよく階段を降りていく音が響いていた。

 十分してから、エレベータで公家は戻ってきた。

「駄目だ、逃がしてしまった」

「お疲れ様でした」

 古見澤はなるべく皮肉を込めないように言った。

 公家の肩が僅かに濡れている。台風の目が通り抜けていくのも近いのだろうと考える。

 廊下のベンチに疲労困憊な様子で座る公家に、古見澤は飲み物でもご馳走したい気分になった。

 到着した鑑識は店の中を調べていた。

「杉田はどうするんですか?」

「そう…だな。もう手配はしておいた。後は任せるよ」

 公家の顔には疲労の色が出ている。

「また、君の世話になってしまったな」

「送ってもらうだけでは足りなくなってきましたね」

「すまんが、ちょっと他のご褒美は考えられない」

「いや、冗談ですから。お言葉ですが…もう少し柔軟に考えても良いのでは?」

「それは良く言われるよ。その通りだな」

 力なく笑う。

 さて、と公家は立ち上がる。

「約束通り、先生の家まで送る。また雨風が強くなってきそうだからその前に送ることにしよう」

「ありがとうございます」

「その前に、少し鑑識に指示をしておきたいので待っていてもらって良いかな?」

「はい。僕も、島の方に連絡をしておきたいので」

「心配だな」

 はい、と言うと、公家は店内へと入って行った。

 その後姿を見送って、古見澤は立ち上がり、非常口の方に向かう。

 外に出るわけではなく、警察がうろちょろしているところで電話をすることに気が引けたからだった。

 メールではなく、電話と決めたのは、声を聴いておきたくなったからだった。

 耳に当てたスマートフォンからは呼び出しの音が聞こえる。

 全く向こうの様子がわからない、と言う点も電話したくなった一つの動機かもしれないと古見澤は思う。

 外界から隔絶された島、台風という自然災害、何かあったら逃げ場はない。

 早く島に行きたい気持ちがあるが、手段がなく状況が許さない。

 繋がらない時間も含めて、極めてもどかしい。

 やはり居石に電話をしたのが間違いだっただろうか、と考える。肌身離さずスマートフォンを持っているような性格ではなかった。

 居石に電話をしたのは先ほどまでメールを送っていたからであり、袈裟丸が苦手と言うわけではなかった。

 そんな事を考えている間に、回線が繋がった。

 しかし、向こうから声はしなかった。

「あ、もしもし?」

『はぁろぉう。雄也ぁ。どうしたぁ?』

「お…いい感じに酔っているね」

 さっきまでの心配が一気に吹き飛んでしまった。思わず口元に笑みが浮かぶ。

『まだまだ。こんなんでは酔ってねぇよ』

「そうか。流石だな」

『早く来いよ』

「無茶ぶりだな。結構頑張っているんだけれど…」

『お前なら泳げんじゃねぇのか?』

 居石の声の奥から、馬鹿じゃねぇか、という袈裟丸の声と少女が笑う声が聞こえた。

「今どこにいるの?」

『バイト先のおっちゃんの民宿の食堂』

 確か、責任者は神野という名前だったと思い出す。

 さらに袈裟丸の声で、ちゃんと話せ、と言われる。

「晩酌中ってことか」

『おふこーす。おっちゃんが作ってくれたツマミを食べながら酒煽っているよ』

「そっちはどう?橋が落ちて何か不自由していないか?」

『いや…ないね』

「そうか…なら良かった。変わったことはなかった?」

『そりゃ沢山あったぞ。爬虫類に半仮面にスーツに刀だ』

「ごめん、全くわからない。酒足りてないんじゃないか?」

 分かる訳ないだろ、という袈裟丸の声とほぼ同時だった。それでも、いつも通りの居石で古見澤は安心した。

『あ、あとな、橋は爆発してたんだ』

「ほう」

『あのな、電気会社の人たちの監視カメラで見てたら、橋の上と下から爆発してたんだ。上は島の将太って人が運んでいた段ボールが爆発したんだよ。でも下がわからない。そんでな、将太っていう人の家に行ったら、金が置いてあって、段ボール運べって手紙も置いてあった』

 黙って聞いていた古見澤は、無茶な説明から、なんとなく状況を把握できた。

 順序立てて説明しろ、と袈裟丸の声が聞こえる。こういう状況でも電話を代わることが無いのは、居石に電話をしたのだから用があるのかもしれない、と考えているからだと、古見澤は理解していた。

「そっちは台風の被害は出ている?」

『雨と風が強えぇっていうくらいだな。地盤は強そうだよ。なんとなくな』

「小高い山っていうか…丘みたいなのが見えたけれど…鉄塔が立っている」

 居石は、ああ、と言うと、一旦言葉を切る。恐らく酒を流し込んでいるのだろうというのは、簡単に推測できる。

『土砂崩れはちょっと心配だなぁ。俺らがいる側は大丈夫だろうけど』

「そうか。わかった。とりあえず大人しくしておいて。明日には何とかしてそっちに行くから」

『何とかしてって来れんのかよ』

 ごもっともな意見だった。

「何とかするよ。それは心配しないで。自分たちの身の安全を考えて行動してくれ」

『報道番組みてぇなこと言うなぁ』

 居石はヘラヘラ笑って茶化しているが、そこは一番理解している人間であるし、そういった現場も見てきた経験がある。

「ならいいんだ。じゃあ、切るぞ」

『ん、ちょっと待て。この電話はそれだけか?』

「そうだけど?」

『実家のおかんかよ。もうちょっとなんかねぇのか?』

「なんかって?」

『綺麗な女の子がここにはいっぱいいたよー、とか、かわいい子に会ったよーでもいいけどさ』

「今、綺麗な女の子がいた所にいるけれど…」

『それどこだよぉ。なぁ、なんでそんなとこにいるんだよ』

「ちょっと説明がしんどいけど…」

『あーちょっと待て、スピーカにしておくから。あーこれで良し』

「さっき女の子がいた気がするんだけれど、そばにいる?」

『おう、いるぞ?』

「刺激が強いかも」

『お前、どんな話するんだ?』

『古見澤、袈裟丸だけど、ちょっとだけ席外してもらうか?』

「ああ、耕平、元気そうだな。さっきから声は聞こえてたんだけれどな」

『俺は要がいる以上、こいつの行動を監視しておかなきゃいけないからな』

 今度は袈裟丸の奥で、俺は犯罪者か、と声が聞こえた。

 すぐ近くにいる子供を、袈裟丸にお願いして少しの間だけ、席を外してもらった。

 古見澤はさっきまで遭遇したことを説明した。

 居石よりは説明ができただろうと自分でも思う。

『こっちも大概だと思ってたけど…古見澤の方、ヤバいな』

『帰ったら神社行くぞ。俺もついて行くから。祓ってもらえ』

 袈裟丸と居石がそれぞれコメントを貰う。

「心配してくれているってことだけで大丈夫だよ」

 それにしても、と袈裟丸が言う。

『なんか…変な感じだよな』

「何が?」

『いや、こうして橋が落とされて、台風も相まって、俺等は孤立したわけじゃない?』

『外界と隔絶、ってやつだな。嘘みたいな状態じゃんか』

 居石もそれにコメントする。

「まあ、そうだね。こっちからもそっちからも行き来できない」

『こう…小説とかのお決まりのパターンだと、こっち側で殺人が起きてってなるような気がするんだよな』

 本をよく読む袈裟丸らしい意見だと古見澤は思った。

『お前は小説の読みすぎだろ。現実ってものを見ろよ』

『現実は小説より奇なりって言うだろ』

『知らねぇ』

『お前は本を少しは読め』

「まあ、確かに孤立したのはどっちかって言えばそっちだね。物語で言えば、そっちで殺人事件が起きてっていう風になりそうなのにね」

『そう。そっちで今の所で二件、短い時間で殺人が起こっている…』

『お前ね、家から学校までずっと信号に引っかからないで来れたとしても、これは何かの陰謀だって考えるのか?』

『なんだよそれ』

『あのな、浮世の風が吹く限り、有り得ないってことは無ぇの。そこら辺をしっかり意識しなさいよ』

 居石は諭すように袈裟丸に言った。

「居石、お前の例えは面白いと思うけれど、こっちが信号を意識していれば、簡単に信号に引っかからないで行けるだろ?」

 電話口から袈裟丸の、おお、という声だけが聞こえた。

 電話の向こうで二人がどういった表情をしているか、手に取る様に分かった。

『それはそうと、雄也、今日はどうするんだ?電車も動いてないだろ?』

 居石は話を変えて、古見澤の宿の事を心配していた。

「ああ、それは大丈夫。さっき言ってなかったけれど、夕飯食べている時に安田先生にお会いしてね」

『誰それ?』

「K大の水理研の教授だよ。水工学会でお世話になったことがあって…。それで安田先生がこの近くで別荘をお持ちで、たまたまご家族で遊びに来ていたっていうから、お邪魔させていただくことになった」

『ツイてんじゃん』

「それは本当にラッキィだと思う」

『ということは、もうこれから移動だな?』

 袈裟丸が言った。

「そう。刑事の公家さんが戻ってきたら連れていってもらう」

『まあ、今日はゆっくり寝てくれ』

「そうだね」

 それから三人で五分ほど話をした。島の事も追加で聞いた。

 古見澤は先程非常口の扉を開けた時に見た光景を伝えるべきか考えたが、直接関係ないだろうと思ってやめた。

 じゃあ、と簡単な別れ際の挨拶を済ませて通話を終える。

 まだ公家は戻ってこないようだった。

 古見澤は非常口を開けると、非常階段の踊り場まで出る。

 踊り場は庇があり、直接の雨は防げるが、台風では意味がない。

 まだ台風の目は抜けていないようで、雨もほとんど降っていなかった。

 ガチャンとスライド式のドアを閉めると、視線の先を確認する。

 普段よりも暗い町の光の先に島が辛うじて見える。

 その外観に、点在する灯り。

 象徴的に立っている三本の高さの異なる塔は風力発電機だと居石は言っていた。

 補足的に、袈裟丸がマグヌス式の風力発電だという説明も聞いた。

 だとすれば塔の頂上はマグヌス式の円筒が回転しているはずである。

 しかし、中央の発電機だけが、風に対してゆっくりと回転している。他の二本の塔に比べて圧倒的に遅いのである。

 ここからではなぜかという判断はできない。それに島にはあの設備を設計開発した会社の人間もいると聞いた。

 ならばもう何かしらの対応をしているだろうと古見澤は推測する。

 視線を非常階段の下に向ける。やはり出歩いている人はほぼいない。

 もう、公家も帰ってきているころだろうと思い、非常口の扉を開けようとする。

「あれ?」

 力を入れても非常口は開かなかった。

 外からはロックが掛かるタイプの扉だったのだろうと推測する。

 見苦しいが背に腹は代えられず、扉を何度も叩いた。

 すぐにドアが開くと、そこには公家が立っていた。

「どうしたんだ?」

 少し焦った様子で公家が尋ねる。

「ごめんなさい…外から開かないってことを知らなくて」

「わかった。入りなさい。濡れるよ」

 後ろで公家が非常口を閉める。

「終わったから、行こう」

 そう言って、二人でエレベータへと乗り込む。

 そのまま、誰も乗ってくることなく地下駐車場まで下りると、公家は車を取ってくると言って駐車スペースに歩いて行った。

 その後姿を見ながら。古見澤はスマートフォンを取り出して電話を掛ける。

「もしもし、塗師さんですか?はい。そうです。あの、ちょっとお願いがあるんですけれど」

 公家の乗る車のエンジン音が地下駐車場に響いた。


 月神町 月見ヶ丘


 風は強いままだったが、雨は小雨よりも少ない。

 浜田を先頭に、神野、その後ろに居石と袈裟丸が並んで歩いていた。

 ゆのも行きたいと、愚図っていたが、神野が諭して留守番をさせてきた。

 時刻は午後十時を回ったところだった。神野の民宿から、浜田の車で五分ほど、将太の家へ向かう時の分かれ道を反対側へと進む。

 そこから三分ほど進んでから車を降り、各々懐中電灯を携えて坂道を上る。

 道はぬかるんでいるわけではなく、かといって歩き易いわけではない。

 昼間ならばまだしも、夜である。懐中電灯の灯りだけが頼りになる。

 四人の行く先にあの風力発電機がある。

 恐らく、目的地はそこだろうと思う。

 しかし中央の塔、マグヌス式回転翼が取り付けられている頭頂部がゆっくりとしか回転していない。ほぼ止まっているように見える。

 何かが起こっているのだと袈裟丸は肌で感じる。

 しばらく上って、袈裟丸はふと、左手に視線を向ける。

 右手は切り立った崖だが、左手は開けている。

 島の家々の灯りの先に輪郭だけで月神橋が見える。

 さらにその先、海を越えたところに月神町の灯りが煌々と光っている。

 食堂で古見澤と会話ができた。

 今、古見澤はあの町にいるわけである。

 目と鼻の先ということにはならないが、遠くて会えないというわけでもない。

 しかし、今はそんな友人とも会えない状況なのである。

 視線を正面に戻して、黙々と坂道を上る。

 隣の夏真っ盛りの格好をした別の友人は、靴で行け、と浜田に言われても頑なにビーチサンダルで行くことを譲らなかった。

 これはグリップが普通のサンダルと違う、という訳の分からないことを言って、浜田と神野を呆れさせた。

 何かあったら袈裟丸が面倒を見る、ということで二人に納得してもらっていた。

 そんな居石は、全く疲れた様子もなく、すいすいと坂道を上がっている。

 しばらく進むと勾配が緩やかになる。

 その先には広い草地が広がっていた。

 その草地に風力発電機を乗せた鉄塔が三本鎮座している。三本の白く塗られた鉄塔はフェンスで囲まれていて、立入禁止の文字が書かれたプレートが張られている。

 しかし、有刺鉄線などはなく、恐らく動物対策なのだろうと袈裟丸は考えた。

 人間ならば簡単によじ登れる。

 近くで見ると、思っているより大きい。真ん中の風車は見上げなければならないくらいである。

 草地と言っても、サッカーコート等の芝生が僅かに長い程度のもので、歩くのに邪魔にはならない。

 三本の塔の周辺には近隣住民が僅かだが集まっていた。

 その中心には、白田や黒木といった日本電力開発機構のメンバの顔が見える。

 三上や川角もいることが確認できた。さらに白田や黒木と共に会話に参加しているのは、袈裟丸も見たことが無い顔だった。

 恐らく、公民館で会えなかった徳田だろうと思った。

「あれが徳田さんかな?」

 袈裟丸は隣の居石に声をかける。

 周辺を見渡していた居石は袈裟丸の視線を追ってから言う。

「そうだろ。みんなお揃いのポンチョ着てんだから」

 確かに、開発機構の面々はお揃いの色違いのポンチョを着ていた。

 白田が黄色、黒木が赤、川角は周囲が暗いがフェンスの上に設置されているライトで紺色と分かった。そして三上が緑色で徳田が黒色だった。

 偏った戦隊ヒーローのようで、袈裟丸はいたたまれない気持ちになった。

 島の住人達も初めて見るが、老若男女が集まっていた。

 住人たちはレインコート等着用しておらず、傘も持っていない。

 濡れそうになっても大丈夫なほど近い所から来たのだろうと袈裟丸は思った。

 住居数は島の反対側にもあるということを聞いていたので、それに比べれば集まった人数は少ない。

 茶髪にタンクトップ、ホットパンツの若い女性が三人話しながら立っていたので居石はそれに見とれていた。

 浜田は神野を連れ立って白田の方に向かっていた。

 袈裟丸と居石は後れを取ったので足早に二人の元へと向かう。

 近づくにつれて、空気がピリピリとしているのがわかる。

 袈裟丸も緊張感に包まれて行く。

 二人は白田や神野たちから僅かに距離を取って立ち止まる。

 輪の中に入ることは躊躇われた。

 居石と袈裟丸の姿を確認した白田は一瞥しただけだった。

 その顔からは精悍さや爽やかさが一切失われている。

 川角が神野に説明をしようとしているところだった。

「私たちが異常に気が付いたのは午後九時半くらいでした。発電機のモニタリングを常時しているのですが、中央の風車の発電率が急激に落ちたんです」

 その発言をきっかけに、全員が上を見上げる。

 照明は上まで届いていないため、外観の輪郭は分かる、といった程度だった。

 しかし、マグヌス回転翼が取り付けられた縦型風車は、左右の風車と比べてはっきりと回転が落ちていた。

「俺たちは五人でここに点検に来たんです。この鉄塔は中に入れるようになっています。中は蓄電池と梯子が一本あるだけです。梯子を上ると、発電機があります。梯子は点検のために設置してあります。発電機のある場所には小窓があって外に出れるようになっているんです」

 三上の説明に、袈裟丸は上を見上げる。三本ある鉄塔は向かって左手が一番低く、中央が最も高い。右手の鉄塔は両者の中間くらいの高さだった。

 袈裟丸の目算では低い鉄塔が約五メートル、中央の鉄塔が十五メートルほど、右側の鉄塔は十メートル程度の高さだと判断した。それぞれ約五メートルの差があることになる。

 それぞれの塔の頂上から一メートルほど下の所に長方形の枠が設置されている。その部分が開くことで中から外に出ることが可能だということである。

「自分が確認してきました」

 顔が青ざめている黒木がゆっくりと口を開いた。

「発電機周辺の開発設計を川角としていたので、自分が昇るのが最適だと…」

 黒木は口籠る。

「黒木さんが上ったっていうのは、全員見てるんですか?」

 浜田が質問で引き継ぐ。

「間違いないです」

 徳田が答える。メンバーの中では最年少で袈裟丸たちとも年齢が近いと袈裟丸は聞いていた。声が力強く、頼もしさを感じた。

 その回答にとりあえず満足した浜田は神野に向き直る。

 ここから先は浜田が説明するようだった。

「隼人さん、いいですか」

「何が?彼らの問題じゃないのか?俺が呼び出されるような内容かよ?」

「落ち着いて聞いて下さい」

 浜田は真剣な表情だった。

 居石は先程からずっと鉄塔の頂上を見つめていた。

「おい、何見てんだよ」

 次に視線を戻した居石は黙ったまま、目を見開いて地面を見つめる。

 その様子がいつもの居石とは違っていて、見たこともないような顔つきをしていた。

 その表情に袈裟丸は声をかけられなかった。

 浜田の言葉が続く。

「隼人さん、この風車が止まったのは…あの羽の上で…しおりちゃんが死んでいるからだ」

 風が強く吹いた。

 その風で浜田の言っている言葉も消し去ってしまえば、どれだけ良かったか。

 袈裟丸は息を飲む。

 喉に異物が詰まったような気がした。

 神野は目を見開き、動きが止まる。

 ゆっくりと視線を鉄塔の頂上へと向けた。

 見えなかったのか、すぐに浜田へと視線を戻す。

「本当にうちの娘か?」

 その声があまりにも冷静だったので、袈裟丸はいたたまれない気持ちになった。

「俺が確認しました。島のバーベキューの時に、見たことがありましたから…」

 意を決したように黒木が言った。

 黒木が青ざめていたのはそういった理由だったのかと袈裟丸は理解した。

「鉄塔の中から、小窓を通って外に出て、点検用の梯子が外に掛けられているので、それを上って風車まで行きました」

 そしたら、と言って声を詰まらせる。

 公民館では冷たい印象があったが、目の前の黒木はそう見えなくなっていた。

「しおりちゃんが、横たわっていたんです。風車の中で…」

 再び浜田に引き継ぐ。

「連絡を受けて、自分が向かいました。彼と同じ方法で上まで行って確認してきましたけど…」

 浜田は神野に気を遣っているように見えた。

「続けてくれ」

 感情が無くなったかのような声で神野は促す。

「胸に刺し傷がありました。心臓を一突きって感じです」

「つまり、うちの娘は殺されたってことか?」

 神野の問いには誰も答えることが出来なかった。

 問いではなかったかもしれない。

 神野にとっては現実から導かれる、単純な推論を全員と共有したかっただけなのかも知れない。

 その推論の正しさは、結果として、神野の問いに誰も答えることができなかったということが証明していた。

「娘はまだ上か?」

 今度の問いには、浜田は頷いて回答した。

「フェンス開けてくれ」

 べったりと額に張り付いていた前髪を無造作に掻き上げる。

 三上が黙ってフェンスを開けた。

「神野さん、ハーネスを着けてください。内部は一人しか入れませんから、十分気を付けてください」

「白田さん、神野さんに行かせるんですか?」

 徳田の指摘を白田は無視して、神野にハーネスを渡す。

 頭にはヘッドライトも着けていた。

 神野も黙ってそれを装着する。

 徳田はそれ以上何も言わなかった。

 淡々と準備する神野は、ハーネスを着けて、フェンスの中に入って行く。

 浜田も続いて入る。

 どこかから持ってきたロープを肩に掛けていた。

 ロープは神野の身体に取り付けられ、三上が開けた鉄塔内部への入り口をくぐる。

 開いた入り口から神野が梯子を上っている音が聞こえている。

「なんで神野さんが行かなきゃならないんだ…」

「行くやつがいねぇからだよ」

「それはそうだけど…」

 鉄塔を見上げていると、神野が小窓から姿を出した。

 そのまま外に取り付けられている梯子を上って風車までたどり着いた。

 その様子だけ下からわかる。

 懐中電灯で照らしたところで灯りが届かないような距離で神野が何か作業をしている。

 ロープが降ろされて、鉄塔頭頂部から何かが降りてくる。

 しばらく降りたところでそれがしおりの遺体だと袈裟丸には分かった。

 袈裟丸は口元に手を当ててそれを見ていた。

 居石は歯を食いしばる様にしていた。

 後方で見ている見物人たちからも時折悲鳴があがり、すすり泣く声も聞こえてきた。

 しおりの遺体は浜田が下でキャッチして、上の神野に懐中電灯で合図を送る。

 神野はそれを確認すると、再び小窓まで下りてきて鉄塔の内部に戻った。

 浜田は素早く、フェンスから出ると、フェンスの脇にひっそり建てられていたプレハブ型の倉庫に向かう。

 中からブルーシートを出すと、フェンスの全面に当てがって、目隠しをした。

 先程のロープやハーネスも倉庫から持ってきたのだと、袈裟丸はその時気が付いた。

 ブルーシートが張られたフェンス内にいるのは、神野と浜田だけになった。

 袈裟丸や居石、開発機構の職員たちはフェンスの外で佇んでいるしかなかった。

「なあ、耕平」

 居石が穏やかな声で言った。

 袈裟丸は黙って顔だけ居石に向けた。

 居石は、しおりが死んでいた鉄塔の風車部分を見ていた。

「しおりは…なんで死ななきゃいけねぇんだ?」

 これ以上ない質問だった。

 すべてがそこに集約されていると言っても良い。

 袈裟丸は必死に考えた。

 友人の質問に答えてやりたい、そう思ったからだった。

 でも、その質問にしっかりとした答えを出すことはできなかった。

「そう…だな」

 その四文字が、袈裟丸の精一杯だった。

「おやおやおやおや」

 一際響く高音が響いた。

 袈裟丸と居石が振り向くと、まばらになった住人の間から、爬虫類と半仮面が歩いて来た。

「これはどうしたことですか?」

 わざとらしく驚いた様子で石田がやってきた。

 丁度二人の間からフェンスを見ている。

 差していた傘が二人にぶつかっているが、石田は謝ることも気にかけることもない。

 視線の先に集中しているのである。

 その後ろの諌は、相変わらず黙ったまま、一定の距離を保って見ている。

 半分だけ露出している顔に表れる表情からは、一切の感情が排斥されている。

 袈裟丸は傘が当たらない程度に距離を取る。

 居石も同じように離れるが、その際、わざとらしく傘の端を払うようにした。

 普段であれば注意するところだが、黙っていた。

 石田は交互に二人の顔を見る。その仕草もわざとらしく、心の底から苛立った。

 居石が口を開こうとした時に、白田がやってきた。

「石田さん」

「ああ、白田さん、これはどういったことです?大騒動じゃないですか?いったい何があったっていうんですかぁ?」

 石田はだんだんと声を大きくしていった。

 フェンスの中に声が届くようにしているのだと気が付くと、さらに腹が立った。

 それはつまり、石田は中に誰がいるか知っている、ということである。

「お騒がせしています。少し…ではないですね。極めて非常事態です。神野さんの娘のしおりさんが亡くなりました」

 白田は正しく石田に伝えた。

「ええぇ。それは大変な事じゃないですか。なんとも…事故ですか?」

「それが…どうやら事故ではなさそうで…」

「事故ではない?確か彼女は病気などなかったはずですから。となると…自殺されたか…殺人ですか?これは一大事ですねぇ。この島始まって以来の一大事ですよ」

 どこまでも腹が立つ言い方である。

 袈裟丸でさえ腹が立っているのだから、居石など我慢できないのではないかと思い、視線を向ける。

 居石は腕組みをして、じっと立っていた。

 存外、我慢強いのかと思っていると、足元が不自然な動きをしている。

 見ると、立ったまま、右足を小刻みに震えさせていた。そのため、右脚はすでに草地に埋まっている。

 その気持ちは良く分かったが、止めさせないと足が抜け出せなくなる。

「橋が落とされていますから、医者が来ません。ちゃんとご遺体を調べることが出来ませんが、仰る通り殺されている可能性があります」

「ちょっと待ってください」

 そのセリフと共に、石田は掌を立てて見せる。

 そのポーズをする人間を袈裟丸は初めて見た。

「だとすると…この島に殺人鬼がいるっていうことですか?」

 石田は大きく口を開けて見せる。

 そのポーズをする人間を初めて見る、二つ目の事例だった。

「そこもまだわかりません。浜田君が調べることになると思います。憶測での意見はお控えください」

「それにしても…場所が場所ですねぇ。やはり建設に反対している人物がこうして実力行使に出た、と言われても仕方がないですねぇ…。あ、しまった、それだと、私が一番有力な容疑者ってことじゃないですかぁ。しまったなぁ。自分で首を絞めてしまった」

 後頭部をポンポンと叩く。短い時間で三例目の事例を見ることになった。

 居石がそろそろ我慢ならないのではないかと思っていたところで、ブルーシートが大きく揺れて、神野が姿を現す。

 大股で石田まで近づいてくると、真正面から石田を見据える。

 二人の距離では神野の方が背は高いので、見下ろす格好になる。

 石田の後ろで諌が一歩、二人に近づいた。

「石田、お前は帰れ」

「何故でしょう?」

「自分で言っただろう?お前が有力な容疑者ってやつだ。確定したら引き摺り回してやるから、大人しくしておけ」

「白田さんが言ったでしょう?勝手な憶測で物を言ってはいけませんよ」

 三秒ほど睨みあう。

「浜田の見立てだと、うちの娘は心臓を刃物で一突きされて殺されてるんだとよ」

 神野はゆっくり視線を諌に向ける。

 その目だけで、心臓が悪ければショック死してしまいそうなほど、威圧的だった。

「そんなにわかりやすく刀なんか持って、自分が殺しましたって言ってんのか?」

 神野は諌に向けて言った。

「私は滅多なことでは刀を抜かない」

「それを信じろっていうのか?誰が信じる?あんたが言ってるだけだろ?」

 神野は諌から視線を外さないまま、目前に立つ。

「あんたが…殺したのか?」

 そんな状況でも、諌は表情を変えなかった。

「殺してない」

 初めて諌は神野の目を見る。

「おっちゃん」

 居石の声が響く。その場の全員が居石に注目した。

「あんたがそうなっちゃダメだろ。冷静になれよ」

 神野は驚いた様子だった。

 恐らく居石がまともなことを言ったからだろう。

「俺は冷静だ」

 それだけ言ってフェンスの中に戻って行った。

「首より下だけで生きている人は、大変ですねぇ」

 額から汗が一滴垂れた石田は、震えたような声で言った。

「おい、爬虫類」

 人の呼称とは思えない言い方で居石が叫ぶ。

 身体を硬直させて石田が居石を見る。

「別にあんたの容疑が晴れたわけじゃねぇぞ。今んとこ、この島に住んでいる誰もが容疑者。その中であんたは最有力だってことだけは変わらねぇんだからな」

「だ…だから何故でしょう?」

「勝手に島をいじった、おっちゃんへの恨みと、常に危険人物引き連れてっからだ」

 それだけでは最有力とは言えないが、袈裟丸は黙っていた。

「いいですよ。どう思おうが勝手ですからねぇ。どちらにせよ、この島から逃げることなんて誰も出来ないんです。殺人者と一緒に台風一過を待つのも一興ですねぇ」

 雨が少し強くなってきた。

「せいぜい、今度は自分が殺されないようにしてくださいね」

 石田は、ふざけるように居石の腹に手刀で当てて、はしゃぐ様にして帰って行く。

 見物員たちも帰って行ったようで、姿が見えなくなっていた。

 石田と諌の姿が見えなくなってから、袈裟丸は居石に近づく。

「要、よく手が出なかったな。偉いぞ」

 まるで犬にしつけているような言い方になってしまったが、本心だった。

 当の本人は腕組みしながら、爬虫類と危険人物が消えて行った方をじっと見つめていた。

 気が付くと、居石の肘辺りに血が滲んでいる。

 腕組みしている手に力が入って、腕を傷つけているようだった。

「要、腕の力抜け」

 同じセリフを何度か言って、袈裟丸の声が届いた。

 居石は腕組みを解いて、出血箇所を見る。

「ん?かすり傷だ」

 そう言うと、何度か手で拭った。もう血は止まっていた。

「騒々しい馬鹿は帰ったか?」

 神野が浜田を連れ立って出てくる。

 二人共苦々しい表情をしていた。

「どう…でしたか?」

 白田が尋ねる。

 迷うように言ったことから、言い方を考えていたのだろうと袈裟丸は考えた。

「やはり、刃物によって刺された傷が致命傷っすね」

 浜田は帽子を脱いで汗か雨かわからない水分を拭った。

「刃物ですか…」

 三上が呟く。頭の中では諌の姿が浮かんでいるのだろうかと袈裟丸は思う。

「専門家じゃないんでちゃんとしたことは分かりませんけれど、背中まで傷が達していますから、それは間違いないでしょうね」

 川角が何か言いたそうにしていたのを遮るように神野が声を上げる。

「まず、帰るぞ。しおりを運んでやらにゃあかん」

 正論だった。誰もが頷く。

 浜田が必要なくなったブルーシートを取り外し、倉庫にあった竹で即席の担架を作った。まだ余っていたブルーシートで神野と浜田がしおりの身体を包んで、担架に乗せた。

 担架は神野と居石で持った。

 開発機構の職員たちと共に話し合った結果、公民館へと運ぶことになった。

「神野さん、ゆのちゃんはどうするんですか?」

 下り坂を慎重に歩いている神野と居石に袈裟丸は尋ねる。開発機構の職員たちは鉄塔周辺の安全確認をしてから向かうということだった。

 念のため残ると言った浜田も一緒だった。

「あいつは一人でも大丈夫だ。そう教えてんだ」

 袈裟丸は食堂でゆのと話したことを思い出していた。

「おっちゃん、あいつらの親じゃねぇんだろ?」

 前を歩いている居石が振り向かずに言った。

「なんだ、知ってんのか」

「ゆのから聞いたよ」

 そうか、と言って神野は黙った。それ以上何も言わなかったのは、神野自身がまだしおりの死を現実として受け入れていないのだろうと袈裟丸は考えた。

 今は、島の住人として、やるべきことをやっている、そういった感覚なのかもしれない。

 坂道が終わると、浜田が運転してきた車が見えてきた。

 鍵は預かっていた。

 袈裟丸が後部座席を倒して、そこにしおりを担架のまま寝かせる。

 運転は神野、助手席に居石、後部座席に袈裟丸が乗り込んで公民館へと向かう。

 袈裟丸は将太の家から戻ったときの事を思い出していた。

 あの時見た黒ずくめの人影。

「神野さん…聞きづらいんですけれど…しおりちゃんが何時ごろ殺害されたかって浜田さん言ってませんでしたか?」

「おい、耕平、ちょっと考えろ」

 居石が振り返らずに怒る。

「二時間は経ってんじゃねぇかって言ってたな」

 神野は淡々と答える。

 居石は鼻から息を吐いた。

 十時頃発見されたということは、午後八時頃に殺害されたということになる。

「その頃は俺たち、将太さんの家から帰る頃ぐらいですね」

「お前、何時に何してたって覚えてんの?」

「そりゃ、なんとなく時間は気にするだろ?」

「子供の頃、夕方のチャイムで家に帰ってたタイプだろ?」

「なんだよそれ」

「それ、言えてんな」

 神野もそう言って力なく笑った。少し、神野の気休めになっただろうかと思う。

 それとも、前を向こうと必死になっているのだろうか。

「お前ら、とりあえず、公民館に着いてしおりを降ろしてくれたら、宿に戻っていいぞ」

「何でだよ。最後まで付き合うって」

 居石が反論する。

「いられてもすることねぇだろ」

 気持ちは嬉しいけどな、と神野は付け加えた。

 居石は神野の要望であれば、と考えたのか、素直に引き下がった。

 まばらに立っている外灯や、車のヘッドライトによって雨が断続的に可視化されている。

 この島でも灯りは全てを照らしているのだと袈裟丸は思った。

 公民館へは十分ほどで到着した。

 三人で手分けしてしおりの死体を運び出すと、公民館の中へと入って行く。

 公民館は神野が管理しているようで開錠もスムーズだった。

「おっちゃん、この島でなんでもできるんじゃねぇか?」

 その様子を見た居石が言った。

「人殺しは止められねぇみたいだけどな」

 居石のしまった、と言う顔はなかなか見ることはできない。

 無人の公民館に入り、一階にある倉庫のスペースに死体を置いた。

 そこだけ冷房のスイッチをつけておく。

 入口に戻り、神野の運転で民宿まで戻る。

 車内は無言だった。

「じゃあ、すまんが、ゆの、よろしくな」

 それだけ言い残して神野は公民館へ戻って行った。

 それを見送ると二人は民宿へと入る。

 部屋に戻る気が起きなかったのは居石も同じようで、二人で食堂に入って無言でテーブルに向かい合う。

 片付けて行かなかったので全てそのままだった。

 居石が作ったハイボールの氷が全て溶けていた。

「お姉ちゃんはぁ…」

 目をこすりながらパジャマ姿のゆのが食道に入ってきた。眩しそうに目を細めている。

 袈裟丸が言い淀んでいると、居石が笑顔で口を開く。

「あ、悪りぃな、ゆの。ちょっとなお姉ちゃん、今日は友達の家に停まってくるんだってさ」

 へぇ、とゆのは言う。

「だから、先に寝てな」

「浜ちゃんとどこ行ったの?」

「ちょっと…喧嘩があってな。父ちゃんが仲裁に入んないと止まんなかったんだってよ」

 ふーん、というと、おやすみと言ってゆのは部屋に戻って行く。

 ゆのが出て行ったことを確認すると、居石は真剣な表情に戻る。

「どうすんだよ…。適当なこと言って」

「じゃあ、どうすりゃ良かったよ?」

 その答えを袈裟丸は持っていないし、居石もそうだっただろう。

 目の前に、酒がまだあるのに、居石は手を付けなかった。

 短い時間だったが、しおりを知って接していた二人にとっては、他人事ではない。

 ましてや、長く過ごしてきた神野や島の住人たちにとっては、その悲しみは尋常ではないだろう。

「何ができる?」

 居石が呟く。

 袈裟丸は顔を上げる。居石がどこを見ているかはわからない。

「しおりの…しおりとゆのに、俺等は何ができんだ?」

 また袈裟丸は答えられなかった。さっきから答えられないことばかりだった。

 だから、袈裟丸は考えた。どれだけ時間を使っても良いから、自分が納得するような考えを、居石に伝えることが、自分の誠意だろうと思った。

「…話してあげる」

 どれだけ時間が経ったかわからないが、袈裟丸が口を開くと居石がすぐに注目してくれた。

「何を?」

「ゆのに、ちゃんと説明してあげるんだよ。自分の姉がなぜ死んだのかっていうことを」

「それが…俺らに出来ることか?」

「他に…思いつかない」

 神野隼人との親子関係が無いということがわかった以上、唯一の肉親である姉が殺されたのだから、なぜ殺されたなければならなかったのか、ゆのはそれを知らなければならないのではないかと考えたからだった。

「つまり、しおりを殺した奴を、突き止めようってことだよな?」

「結果的にはそうなるな」

「なんか考え、あんのか?」

「ない。今は」

 だから。

「考えるんだよ。二人で」

 風が窓を揺らす音だけが、食堂に響いた。


 月神町


 公家は車のナビを見ながら運転していた。ナビの時刻は十時半を回ろうとしている。

「場所、知っているんじゃないんですか?」

「ああ、まあなんとなくはね。別荘地だから大まかな場所は分かっているんだが、誰の別荘か、ということまではわからない」

 すでに車は駅を超えている。

 駅前から月島橋に向けての賑やかな雰囲気から百八十度変わり、暴風雨が無ければ静かな夏の夜を過ごせるだろうと古見澤は思う。

 車のライトと、僅かばかりの外灯が唯一の灯りだった。

「ああ、あそこだ」

 公家がハンドルを切ると、林の中へと車が吸い込まれて行った。

 両側に木立が並ぶ道は、風も大人しく、防風林としての役割を担っていた。

 その道の先に、暖かなオレンジの光が見える。

 車がその光に近づくと、西洋風のお洒落な平屋二階建ての建物が見えた。

 周囲がレンガで囲まれて、闇の中に浮かぶオレンジの灯りが象徴的だった。

 川に灯篭を浮かべる行事があったことを古見澤は思い出した。

 レンガの間に門扉があり、そこで道が終わっている。

 同時に駐車場にもなっているようで、車が二台駐車してあった。

「ここで良いのかな」

 公家が停車している二台に向かい合うように車を停めると周囲を見渡した。

 パラパラと雨が降っている。

「ここで大丈夫です。あとは僕が呼び鈴を鳴らすだけですから」

「今日は本当に申し訳なかった。しかも捜査協力までしてもらって…感謝するよ」

「ああ…気にしないでください。腐った貝にあたったと思えば良いんです」

「腐った…」

「ものの例えです。荷物、降ろして良いですか?」

 ああ、と公家は生返事で言うと、トランクを開けた。

「一応、連絡先を教えてくれないかな?」

「何でです?」

「え?」

 まさか聞き返されると思っていなかったのか、公家は口が半開きになる。

「これから先、連絡がくることってあるんですか?」

 いや、と口籠る公家が何も言えないと分かると、古見澤はスマートフォンを出して自分の電話番号を表示する。

「これです。登録してください」

 公家は、ああ、と再び言うと、自分のスマートフォンに番号を打って登録する。

「ありがとう」

「いえ、じゃあ…ここまでありがとうございました」

 古見澤は早足でトランクに回ると、鞄を受け取る。

 改めて運転席側に回って会釈をすると公家は片手を挙げて駐車場を後にした。

 形だけ公家を見送ると、念のため鞄の中身を確認する。落とすようなものはなかったはずだと思い出しながら漁っていると、入れた覚えのないビニル袋に手が当たる。

「ん?」

 外に出してみると、ジッパ付きの袋に入った土器の欠片だった。

 コミットで机の上に置かれた証拠品だということを思い出す。

 あの時、鞄を机の上に置いたままで、免許証など、返却されたものを集めていた時に一緒に交じってしまい、持ってきてしまったのだろうと思った。

 早く帰りたかったので、確認せずに手当たり次第詰め込んでいたのだ。

 早速、連絡先交換が役に立つときがきたが、今日はもう会いたくなかった。

 そして、ジーンズのポケットから木本の死体の側に落ちていた土器の欠片を取り出して、それも同じ袋に入れた。

 明日、公家に電話して返そうと心に決めて、門扉の前に立ち、インターフォンを押す。

『はい』

 渋い男性の声がする。安田の声とは違っていた。

「古見澤です。あの…安田先生の…」

『伺っております。少々お待ちください』

 幾分か柔和な口調で男性が言う。

 一分もしないうちに玄関のドアが開き、白髪の男性が姿を現した。

 白いシャツに黒いスラックスというスタイルで細身だった。

「お待たせしました。どうぞ」

 開けてくれた門扉を抜けると、規模の小さい庭園が家に取り付けられた外灯で照らされていた。一般住宅の庭より広いが、大豪邸の庭よりは狭い。一般住宅からすれば十分豪邸のレベルに入る。

 庭園の中央には人が二人座れる程度の大きさの東屋が置かれている。その東屋を中心に十字に歩道が伸びていた。

 その歩道で庭園は四つに分かれており、それぞれに草花が植えられていた。一階の窓から木製の庇が伸びて雨を遮ることが出来るようになっている。その下はウッドデッキである。一階の窓は今はカーテンが閉まっており、照明が点いていること以外、中は見えない。

「どうぞ。お入りください」

 重岡が玄関の扉を開けると、けたたましいくらいの音が玄関に響き渡った。

 古見澤が少し動揺していると、重岡は大丈夫です、とだけ言って上がるように促す。

 安田家別荘に入ると、所謂一般の二階建て住宅だった。

 玄関入ってすぐに廊下が奥に伸びていて、その途中に二階に向かう階段がある。

 入口は家の左手にあるため、右方向に空間が広がっていることになる。

 奥に伸びている廊下の右手に二つ扉が並んでいて、さらに突き当りに一つ扉がある。

 けたたましい音は、玄関の扉を閉めると鳴りやんだ。

「古見澤様、申し遅れましたが、安田先生の別荘の管理兼小間使いのようなことをさせてもらっています、重岡と申します。古見澤様も何か用がございましたら、どうぞお声かけ下さい」

 丁寧にお辞儀した重岡に古見澤は、どうも、とだけ言った。

 足音がしてすぐ右手の扉が開いた。

「おお、古見澤君、遅かったな」

 安田が赤らめた顔で出てきた。お酒を楽しんでいたのが手に取る様に分かる。

「先生、遅れて申し訳ありません」

「台風はどうだ?あまり強くなってないように感じるが…」

「そろそろ暴風雨になると思います。先生は…飲酒中ですか?」

「飲酒って…言葉が変じゃないかね?」

「あれ、そうですかね?」

 古見澤は笑顔になる。

「よし、まあ、積もる話もあるだろうから、さあ、入って。重岡さん、古見澤君の荷物を部屋に持って行ってくれないか?」

 重岡は、わかりました、と笑顔で言うと古見澤から鞄を受け取り、階段を上って行く。

「失礼します」

 そう言って安田の出てきた扉から入ると、広いリビングだった。

 向かって左手にはキッチンがあり、立っていた女性と目が合った。

「いらっしゃいませ。ようこそ。主人がいつもお世話になっております」

 キッチンで頭を下げる。

「家内の知美だ」

 安田が紹介する。

「そんなところにいないで出てこないか」

 安田が声を荒げて言う。

「ごめんなさい。揚げ物の油に火が入っているので、動けないんです」

 安田は唸った。

「勝手に火が消えるような装置が無い古いコンロなの。古見澤さん、玄関の音、煩かったわよね。ごめんなさいね。こうした音がしないと私気が付かなくて…」

「家内は耳が悪くてね。重岡さんがいるときは大丈夫なんだが、一人でいる時もあるからな。防犯ってやつだ」

 知美は安田本人よりも五歳年下であることは以前聞いて知っていた。

 笑顔が似合う大人しい女性、というのが古見澤の第一印象だった。

 落ち着いた淡い黄色のスカートと白いブラウス、淡い水色のカーディガンがそれを強調させる。

「幸助はどこ?」

「部屋だと思います」

「さっきそこにいただろう?」

「年頃の子ですよ?一人になりたい時だってあるでしょう?」

 知美は笑顔を崩さずに諭すように言った。

 安田は、まったく、と言って鼻から息を吐く。

「古見澤さん、どうぞ、お座りになって。今ちょっとしたもの作っているから」

「あ、お構いなく…」

「いいの。私もお腹空いちゃったし。さっきまで主人と飲んでいたんだけれど、飲み足りなかったのよ」

「こいつよく飲むんだよ。酒も強いしな」

 知美は笑顔になるとキッチンに戻る。

 リビング入り口から奥に、テーブルとソファのセットが置かれている。

 古見澤がソファに座ろうとすると、安田が、そうだ、と言う。

「おい、まだ料理できないだろう?ちょっと上に行ってくる」

「幸助の部屋?そっとしておいてくださいよ?」

「あいつの部屋なんか行くか。俺の部屋だよ」

 そうですか、と言って知美は笑顔になる。

 安田の後ろについてリビングから外に出る。

 そのまま階段を上がって二階へと向かう。

「さっきの重岡さんって普段どこにいらっしゃるんですか?」

「近くに家があるから、そこに住んでいるよ。歩いても十分ぐらいだから大した距離じゃない。この別荘にいてもらうときは一階の奥の部屋に彼の部屋がある」

「ここに住み込んでっていう訳じゃないんですね」

「そう。たまに掃除とか、メンテナンスに来てもらうくらいだ」

 よいしょと、言って安田は最後の一段を上がる。

 二階は階段を上がってすぐ右手に廊下が伸びていた。

 上がってすぐのところに扉が一つあり、その隣に二つ扉が並んでいる。廊下に沿って扉が三つ並んでいる造りである。

 廊下を進むと、左手に三つの扉、右手に扉が一つだけあった。位置と扉の数から、右手の部屋は広そうだと思う。

「この部屋が息子の部屋でね」

 安田は階段を上ってすぐの部屋を顎で示して言った。

「高校生なんですよね?」

「そう。まあ、仕方ないが、この時期っていうのは難しいな」

 そう言って安田は笑った。

「君の方が歳は近いから、時間があったらなんか話聞いてやってくれ」

 はい、と古見澤は頷く。

「こっちの広い部屋はなんです?」

 古見澤が言うと、安田はニヤッと笑う。

「ちょっと見てみるか?」

 安田が扉を開ける。

「ああ…シアタールームですか?」

 その部屋は薄暗い照明で包まれていて、部屋の奥の壁、庭の方角に大きなスクリーンが設置されていた。

 部屋の横やスクリーン両脇の壁にある棚にもDVDやCDが並んでいた。スクリーンの正面、扉がある方の壁には、ラックに乗ったプレイヤがいくつも置かれている。

「こういったご趣味があるんですね」

「私の若い頃は映画が娯楽の大半でね。それが今でも続いているってだけだよ。他の同年代どうかわからんが、それに漏れずに、私も歳を取ってお金を掛けられるようになった」

「素敵ですね」

「君、趣味は?」

「えっと…ない…ですね」

「無理にとは言わんが、持っておいた方が仕事にもハリってものが出るぞ」

 そういって安田は笑った。

 安田の意見に心から賛同したわけではないが、そうした趣味持てていることが単純に羨ましいと感じた。

 シアタールームの真正面に当たる入り口の部屋は、夫婦の寝室だということだった。

 安田の目的は最も奥にある、安田自身の書斎だった。

「ふらっとここまで来て、仕事をする時もあるんだ」

 安田くらいの地位だと、そうしたことも出来るのだろうと古見澤は思った。

 書斎の中は、机と本棚があるだけの簡素な空間だった。

 机は一つだけある窓に向かって置かれていて、方角的に海を望める。

 今は、かろうじて木が揺れている影が見えるくらいである。

「ちょっとそこへ座ってくれるか?本は床に置いてよいから」

 部屋の隅に本が積まれた椅子があり、その椅子を安田は示していた。

 古見澤は本を床に置いて椅子を安田の正面に運ぶ。

 安田も机の方から椅子を持ってきて座る。

「いや、改めて、ここまでお疲れさんでした」

 いえ、と古見澤は言う。まだ安田が自分をここに連れてきた理由がわからない。

「店で会ってから、ずいぶん遅れたけれど何かあったのかい?」

 古見澤は話すかどうか迷った。

 しかし、隠すことでもないと考えて、朝から起こったことを要点だけ話した。

 話し終わると、安田は真剣な顔をして腕を組んで目を閉じ、黙って考え込んだ。

「どうかしたんですか?」

「ああ、いや…大変だったな」

「大変でした。人生でこんなこと何回もありません」

 だろうな、と言って笑った。

 すぐに表情を戻した安田は古見澤の目を見て言った。

「君が、月神島に行くというから、話しておきたいことがあってね。幸か不幸かすぐには島に行けないことになってしまったがね」

「話したいこと…ですか?」

「下で妻も待っているから、短くしよう」

 そう言うと、安田は両手を膝の上に置いた。

「島と町の話だ。この町と月神島には因縁がある」

「因縁…喧嘩でもしているんですか?」

「昔からの…そうだな…呪いみたいなものだよ」

 はあ、と古見澤は言う。

「島の名前にもある通り、昔はあの島は漁業の無事を祈る神様が祀られていたんだ。それは今もだがね。そんな島に、町の方で悪さをした人間や、別の土地でも悪行を働いた人間が送られるようになった」

「島流しですね」

「その通りだ。江戸時代末期まで続けられていたらしい。島の規模もあって、送られた罪人たちは、島を切り開きながら、そこに住んでいた人間達と社会を作っていた。それが明治期になり、産業工業の発展を迎えると、島の資源が注目された」

「宝庫だったということですか?」

「今も売られているが土器などの産業品、地下に鉱床もあるといわれていた」

 他にもあるが、と安田は言った。

「今はそこじゃない。問題はそれを知った町の人間のしたことだ」

 古見澤は背筋が伸びた。

「当時の町の人々は、それを自分たちのものにしようと考えた。ここまで聞けばそれから起こることは想像し易いだろう?」

 安田は鼻息を吐いて、文字通り一息つくと話を続ける。

「島と町の人々は争いを始めた。とはいえ、一方的だった。島の人間は町の外に追いやられ、町の人間は島に移り住んだ」

「入れ替わったんですか?」

「町の人間の数は今ほど多くはない。大半の人間は島に移り住んで、そこを拠点にした。追いやられた島の人間は、町に残り、生活を始めた」

「島の人たちは自分たちの場所を取り返そうとするでしょう?」

「何度か試みたようだが、失敗したようだ。町の人間の方が資源の使い方を良く分かっていたということだな」

 古見澤は納得する。持っていても使い方を知らなければ意味がない。

「結果として、そのまま元の町の住人たちは島で、元島の住人たちは町で子孫を繁栄させてきた。それが今の島と町に住む人々の祖先だ」

「何とも…壮絶ですね。今でもいがみ合っているんですか?」

「さすがにそれは無い。壊れてはいるが、橋が開通した時も町と島でお互いセレモニーを開催していたし、今では島と町を行き来しながら生活している。島の子供たちも町の学校に通っている」

「ここまで聞かせてもらって気になったんですけれど…」

 どうした、と言う顔で安田が見る。

「先生、随分詳しいですね?」

「ああ、ここに別荘を構えてから、町の事を調べ始めてね。因縁が深いということが分かったんだ」

 安田は立ち上がる。

「君には、概略でも知っていてほしいと思ったんだよ。何も知らなかったからといって、何か変わるわけではないがね。意識は変わるよ。さ、下に戻ろう」

 はい、と言って古見澤も立ち上がる。

 島と町にそういった歴史があることに、確かに考えさせられるものがある。

 しかし、事実は事実、それ以上でも以下でもない。

 そして、居石と袈裟丸が、なお心配になってきた。

 安田の書斎からリビングに戻る道中、安田は幸助の部屋をノックする。

「幸助、下に降りてきなさい。お客さんに挨拶ぐらいはしなさい」

 反応はない。

 安田は諦めて階段を降りる

「全く、訳がわからん」

「一人で勉強しているんじゃないですかね。夏休みの宿題とか」

「君だったら、そうするかね?」

 考えるが、自分だったらしていると思う。

「しないですね」

 古見澤は苦笑いをする。

 階段を降りたと同時に重岡が声をかけてきた。

「あ、お二人でいらしたのですか?」

「ああ、ちょっと島と町の歴史についてディスカッションをしていたんだよ」

「詳しく教えていただきました」

「それはそれは…有意義な時間でしたね」

 柔和な笑顔で重岡は言った。

「さあ、そんなところで話していないで。こっちに来て座ってくださいな。ありあわせのものしかできなかったけど、ごめんなさいね」

 遅い時間に来て文句をいう人間がかつていたかのような台詞である。

 古見澤は申し訳なく言って、安田より先にソファに座る。

 目の前のテーブルには焼酎やウィスキーの瓶が置かれて、古見澤が座ったと同時に知美がアイスペールを運ぶ。

「なんでも好きな物を飲みなさい」

 安田も後から座るとそう言った。

 カーテンが開かれており、リビングからは庭が一望できる。

「素敵な庭ですよね」

「台風っていうのと、夜なのが残念だよ。明日にもう一度見てくれ」

「そうですね。あ、でもこれ、窓、大丈夫ですか?」

「まだガタガタしてないからな。風は大丈夫だろう。音は防音だから聞こえんが大丈夫だと思う。私らが気付かなくても重岡が気付いてくれる。な?」

「はい。大丈夫です」

 その表情で固まっているんじゃないかと思うほど、先程と同じ笑顔だった。

「重岡さんは一緒に飲まないんですか?」

 その言葉が、重岡には意外だったようで、初めて笑顔以外の表情に一瞬だけ変わった。

「ああ、それはお心遣いありがとうございます。ですが、残念ながら下戸なので。お茶でお付き合いいたします」

 そう言うと、ソファから少し離れたところのダイニングテーブルに座る。

 時刻は夜の十一時を回っていた。

 こんな時間に、テーブルの上に乗っていたのは揚げ物のオンパレードだった。

 唐揚げに天ぷら、箸休めの御新香が唯一の救いだったが、古見澤は明日の胃もたれが気になった。

 お腹が減っていたわけではなかったが、一つ二つと口に運ぶと、あっさりとした揚げ物で、箸が進んだ。

 知美がどうやって作ったのかはわからないが、箸が止まらなかった。

 知美は三十分ほど付き合って、重岡とお茶を飲んでいたが、古見澤と安田が専門領域のテーマで話始めると、先に休むことを告げて自室に戻って行った。

「先生、まだ大丈夫でしょうか?」

 代わりにキッチンで洗い物や酒の肴を作り始めた重岡が言った。

「ああ、まあ自分のペースで飲んでいるよ。それに古見澤君が来てくれるまで酒は控えていたからな」

「そうだったんですか。申し訳ありませんでした」

 謝ることはない、と安田は言った。

「ですが、先生、梅酒はちびちび飲んでいらっしゃいましたね」

 重岡は笑顔で言った。

「梅酒なんぞ、酒に入らん、あれはジュースだ」

「ジュースじゃないですよ、先生。子供飲めないじゃないですか」

 古見澤は笑ってツッコミを入れる。

 当たり前の事を言っているだけである。

 安田と重岡は笑った。

 二人が楽しそうにしているので古見澤は少し安心した。遅れてきて、もてなしを受けている分、何かの形で返さなくては、と思っていたからだった。

 お酒の席はそこまで好きではない。

 酒を飲むことはほどほどに好きだが、なぜ大人数で飲むのか。

 古見澤には意味が解らなかった。

 そういう人はお酒好きではなく、騒ぎたいだけだと最近分かった。

 本当にお酒が好きであれば自分一人でも楽しめるはずである。

 重岡が皿を持って戻ってくる。

 この上さらに料理が来るのか、と思っていると、置かれた皿にはチーズやナッツ類が乗せられていた。

 作ってもらった料理はほとんど古見澤だけで平らげた。

 安田家の人々は箸をつけているものの、量を食べるということは無かった。

「例えば…そうだな。カードをシャッフルするとしよう。よく手品師がやるね。その時、どれくらい混ぜたらカードがランダムになるか、ということを考える時、水理学的な渦、という側面が見えてくる。単純な例えではなくてね。海流によって運ばれる海流ゴミみたいなものだよ」

 安田は大学での講義の愚痴から、ナビエストークス方程式の解の話、そして古見澤が統計学の話でそれを解決できるのではないか、という話を受けて、口を開いたところだった。

「いつか、実験してみたいものだが、これにはカットオフ現象が関係していると思う」

「聞いたことないです」

「過去に数学者がやった研究だと、カードを混ぜている最中、あるタイミングで急激にランダムになることがあるのだそうだ。この急激にランダムになるという現象がカット・オフ現象だ」

「難しいですが、楽しいですね」

 重岡は具体的な現象などは知らないようだったが、安田と古見澤のする話に楽しさを感じられる人物だった。

 にこやかに笑いながら重岡は立ち上がり、空いた皿を持ってキッチンへ向かおうとする。

 その時、部屋に皿が割れる音が響く。

 安田も古見澤も一斉に音のする方向を見る。

 立ちすくんだ重岡の足元に、持っていた皿が落ちている。

「重岡さん、大丈夫?どうしたの?」

 安田が立ち上がるのと同時に古見澤も立ち上がる。

 動かないで、と言う安田が重岡に近づく。

 古見澤はその場で立ったまま重岡を観察した。

 目を見開いて一点を見つめたまま、重岡は固まっていた。

「すぐ片付けよう。破片を取るから…」

 安田がしゃがみ込んで皿の破片を拾い集めている。

 古見澤は重岡の視線の先を追う。

 窓、庭、そして、東屋。

 重岡が皿を落とした理由が、古見澤には分かった。

「どうした?」

 様子がおかしいことに気が付いた安田も立ち上がり、重岡の見ている方向に視線を送る。

 風に揺れる木々を背景に、ぼんやりと闇夜に浮かぶ東屋。

 日差しを遮ることだけを目的に作られたような、簡素な東屋に向かう十字路の途中に、男が一人、倒れていた。

 緩やかに傾斜がつけられた屋根から水滴が落ちている。

 その雨滴が石畳の歩道に俯せに倒れた男に落ちている。

「こ…幸…助」

 安田の声は掠れ、息を吐き出したと同時に発せられた声だった。

「先生、あれは幸助さんですか?」

 古見澤は少し声を張って言った。

 重岡が代わりに頷く。

 こちらも震えているのがわかる。

 古見澤は駆け出してリビングを飛び出す。

 玄関から靴を履いて外に飛び出す。

 けたたましいほどのサイレンが家に響く。

 知美が起きないかどうか、古見澤は心配になった。

 玄関を飛び出すと、猛烈な風に身体がよろめく。

 周りの木々が風を弱めているが、それでも風が強いことに変わりはない。

 雨も身体を打つが、気にしていない。

 服もあっという間に濡れている。

 家と庭の間、一階リビングの窓に沿って進み、十字路を入る。

 家と東屋の間に立つ。

 倒れている幸助は、腕や足が折れ曲がっているが、背が高いことは分かる。

 ジャージの上下に、顔の脇に眼鏡が落ちている。

 頭から血が流れていた。

 古見澤の心臓が早鐘を打っている。

 古見澤は周囲を見渡すが、二階の窓も暗く、家の反対側にも人の気配はない。

 後ろから、けたたましいサイレンが響く。

 視線を送ると、重岡が慌てた様子で古見澤の横に立つ。

「これは…なんと…」

「先生は?」

「奥様の所に…」

「重岡さん、警察と救急車を呼んでください」

 重岡は急いで家に戻る。

 再び十字路の歩道を古見澤は見下ろす。

 喉が締め付けられるような感覚を覚える。

 口元に手を当てて、一歩後ずさる。

 ふと。自分の足元に視線を落とす。

 古見澤が立っている十字路、その道の上に、土器の破片が落ちていた。

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