第3話 戦慄する、町

月神島 公民館


「なんか公民館って子供の頃を思い出すよな」

神野の車の後部座席で居石は言った。視線は窓の外に向けられているが、雨が叩きつけられているので風景を見ているわけではない。

居石は民宿で借りた傘を足の間に立てるようにして、持ち手を両手で抑え込むようにしている。

まるで武士のようだと袈裟丸は思った。

「うちの近くの公民館は漫画があったり、遊具があったりして楽しかったな」

車の運転は浜田、助手席に神野が陣取っている。

浜田がなぜ運転手に甘んじているのかは不思議なところだったが、島での日常の延長線上な気がして、聞くことを躊躇った。

車はまず、民宿がある、恐らく島で最も店舗が集まっている場所から、島の中央に向かった。密集地から離れると、島を反時計回りに進む。

民宿から五分ほどで公民館に到着する。

車から傘をさして出るのは難しいな、と思っていたが、公民館の入り口は、ホテルの様に庇があって、雨に濡れずに下りることが出来る。

とは言っても、台風の中ではあまり意味は無く、雨の直撃を避けることが出来たくらいだった。

「屋根、意味ねぇな」

文句を言う居石を先頭にして、神野と袈裟丸は小走りで公民館に入る。

浜田は車を置きにいった。

自動ドアを通って、冷房の効いたロビーに入った頃には、袈裟丸は少しぐったりしていた。

「綺麗じゃん。おっちゃん、ここ建てたばっかり?」

新築の家を建てた人間に尋ねるみたいで、変な感じがした。

「昨年だよ。新しいだろ?」

「新築の建物の臭いがする」

居石は両手で鼻に空気を送っている。居石の言う通り、確かに綺麗で清潔感が漂っている。柱や壁もまだ光沢を放っていた。

「会議室は二階だから」

神野はそう言うと、ロビーを奥へと進む。その先にエレベータと階段があったが、神野は階段で二階に向かう。

「エレベータでいいじゃん」

「良いから行けって」

名残惜しそうにエレベータを見ていた居石の肩を持って階段に向かわせる。

二階に上がったところで神野が立ち止まる。

ポケットからスマートフォンを取り出すと耳に当てた。

着信のようだった。

「おう、おう…おう。はあ?」

最後の台詞は大声だったので袈裟丸は驚いた。

「そいつに適当な事するなよ。俺の大事な従業員だからな。そんなことするわけないだろ。古見澤を疑っているんなら、海渡ってでもぶん殴りに行くからな。無い頭絞って考えろ」

今度は低く恫喝する。

ちゃんとやれよ、と言って電話を切った。

「おっちゃん、なんか荒れてんな。浮気でもばれたか?」

「お前らの友達が町の方で警察に捕まっているらしい」

「は?」

袈裟丸は変な声を出した。

「うおー、あいつ捕まったんだ。だから、返信が無いのか。いや、いつか何かやるやつだと思ってたんだよなぁ。何考えているかわからないっていうか…」

なぜか居石は笑顔だった。

「逮捕じゃねぇぞ、要。ただ拘束されているってだけだぞ」

「どういう状況ですか?」

居石にかまう間もなく、神野に状況を尋ねる。

神野は電話で聞いた事を、簡略したものだったそうだが、二人に説明した。

その頃には居石も真面目な顔で言った。

「古見澤はそんな殺人鬼みたいな人間じゃない」

「つかみどころはねぇけど…人は殺さねぇな」

居石はせいぜい軽犯罪程度で捕まっているのだと思っていたらしく、大事だったことに少し反省しているようだった。

「まあ、俺もまだ面と向かって話したことはねぇが…お前らの友達だったら、そんなことはしねぇはずだ。だから強く言っておいた」

神野とはまだ会って、時間は経っていないはずだが、二人のことを信用してくれていることに、袈裟丸は感謝していた。

「どうなるかはまだわからんし、こっちはこっちで大変だけど、お前らも気遣ってやれよ」

袈裟丸は神野に頭を下げた。

居石も神野の言葉に頷いていた。

会議室に行かなければならないが、少なからず二人は動揺していた。

袈裟丸は自分自身のために、話題を変えようと思いつく。

「神野さん、ちょっと聞きたいんですけれど。神野さんって何者なんですか?」

「ただの民宿の親父だろ?」

「お前に聞いてねぇよ」

居石はもういつもの調子に戻っていた。

「いや、普通の民主のおっちゃんだぞ」

「でも、浜田さんとか…さっきの電話って刑事さんからですよね?神野さんへのホットラインとか、やりとりの様子を見ていると…普通じゃないですよね?いや、普通じゃないっていうと、また変ですけれど…」

「何人かこっちの知り合いが、町の方にいるってだけだよ。長く生きてっと、人脈だけ広くなっちまうからな。民宿なんてやっていると尚更だよ」

神野はそう言って笑う。

「やっぱりさ、俺もバイトとか、それこそ学生実験教えているけど、後輩の学生と仲良くなったりすることが多いぜ。だから、おっちゃんの言ってること、俺、わかる」

「後半、なぜ片言になってんだよ。それはお前だけだろ。俺も実習の授業で学部の学生と接しているけど仲良くなるなんて無いぞ」

「ほら…お前は…なあ?」

「なあ、じゃねぇよ。なんだよはっきり言ってくれよ。気になるだろ」

「ああ…まあ…またな。ほら、会議室行こうぜ。おっちゃん、どこだよ」

歩き出す神野について行く居石の後ろを、袈裟丸は問い詰めながら歩いた。


月神島 公民館二階会議室


会議室はやはり、新築で清潔さが際立っていた空間だった。

空間だけを見れば、である。

二十メートル四方ある会議室の中央に円卓のテーブルが用意されている。その周囲を取り囲むように椅子が配置されている。

正確には中央がくりぬかれているので、ドーナツである。

木製の茶色のテーブルだったので、袈裟丸はオールドファッションを思い出していた。

会議室入口から見て、正面の一脚は空席で、そこを起点として時計回りの方向に三人、反時計回りの方向に一人が着席していた。全員テーブルの上にノートPCかタブレットを置いていた。

神野たちの入室に、着席している全員がこちらを見る。

「申し訳ない。遅れたか?」

神野がずかずかと入って行って、正面の王様席に着座する。

「うっす」

二人の後方から声が聞こえてくると、浜田が入室してくる。

反時計回りの方向の一席、一人だけ座っているその横に腰掛ける。

「なんだこの悪の組織みたいな会議室は…」

居石も少しは圧倒されているようだった。

「二人共そこに座ってくれ」

神野が示したのは、自分が座っている正面の席だった。

そそくさと二人は着席する。

その間、神野が二人の名前だけ、参加者に紹介していた。

「彼らが土木を勉強している学生さんたちですか」

神野の隣、袈裟丸たちから見て左手の男性が口を開く。

短く刈り込んだ髪に、黒色の無地のTシャツを着ていた。僅かに引かれた椅子から見える下は、ジーンズだった。

値踏みするような言い方だったが、少年のような目をしているのが、袈裟丸には印象的に映った。

「何でアロハなの?」

今度は神野の右隣の女性が口を開く。

肩までの髪を片側だけ耳にかけて、銀縁眼鏡をかけたその容姿はPTAの役員です、と紹介されても納得するだろうと、袈裟丸は思う。

「あ、これっすか、普段着っす」

居石は何も考えていないかのように、にこやかに答える。

「こっちの人たちは、日本電力開発機構の方々だ」

神野が不審そうに見ている袈裟丸の視線に気が付いたのか、説明した。

「日本電力…あ、そうなんですか…」

「へー。うちの大学からも就職しているやついたよな?」

確かにそうだった記憶がある。電力発電事業に関する、特殊法人として設立された会社である。

その職員たちがなぜこの島にいるのか、というのが次に浮かんだ疑問である。

「僕らはこの島で発電設備に関する実地試験を行っているんだ。通称月神島プロジェクトと呼ばれている」

黒Tシャツの男が口を開いた。

「あ、紹介が遅れたけれど、僕はこのプロジェクトの主任をしている白田です」

白田は立ち上がって二人に近づき、名刺を渡した。

そこには自分で紹介した肩書の下に白田修二郎と書かれていた。

「向かいのPTAみたいな格好しているのが川角恵子」

どうも、と川角が笑顔で挨拶する。悪い人ではなさそうだと思った。

そして白田も川角に対する感じ方が似ていることに少し嬉しくなっていた。

「その隣、ごつい体格しているのが黒木清治、川角と黒木は俺と同期なんだよ」

「お前の危なっかしい仕事の仕方に辟易しっぱなしだ。何とかしろ」

黒木は白のシャツにスラックスという格好で、オフィス街に紛れ込んでも分からないくらいの社会人スタイルだった。

顔つきも白田とは正反対で、特に目つきが鋭い。人相が悪いとか、性格が悪そうというわけではなく、厳しく指導するころで有名な先生という印象を袈裟丸は受けた。

「内輪揉めはやめましょ。彼らから話を聞く時間じゃなかったんですか?」

最後の一人が発言する。

「俺は三上秀介です。この中では最年少かな。よろしく」

袈裟丸に最も近い位置に座っていた三上はにこやかに挨拶する。

三上は薄く茶色がかった短髪で、悪戯っぽい顔立ちが、幼さを感じさせる。最年少ということも納得だった。

「そんなこと言うなって。いつものやり取りだろ」

白田は笑いながら三上に言った。黒木の表情はほとんど変わらない。

「本当はもう一人いるんだけれどね。ちょっと体調を崩しているの」

川角が説明する。

「本当はそっちが最年少。徳田華っていう女の子なんだけど…徳ちゃんの方が君らに近いかな」

白田は川角に確認するような視線を送る。川角は黙って頷いた。

「うん。こんな五人が月神島プロジェクトのメンバ。ここに住み込んで研究開発しているよ」

白田が髪を掻き上げながら言った。

「え?ここに住み込んでいるんすか?」

居石が驚いたように言った。

「うん。何かあった時に便利だし。島は綺麗だしね」

「へー。不便じゃないっすか?」

「仕事だしね。それに不便さを楽しんでいるのさ」

「不便さを楽しむ…」

まだわかんねぇだろ、と黒木が呟くのが袈裟丸には聞こえた。

「俺はまだ都会が良いけどなぁ。ここも素敵な場所だけれど、やっぱり便利な方が良いでしょ」

三上の言葉に袈裟丸は少し背筋が寒くなった。

神野がいるところで簡単にそんなことを言えてしまうことに怖くなったのである。

居石を含めたプロジェクトメンバが歓談していると、神野が咳払いをした。

「じゃあ、そろそろ本題だな。現状を整理すると…まあ簡単だわな。俺たちは島に閉じ込められたことなる」

「さっき民宿でも言ったけれど、橋が壊れた結果、島に被害があるかって言えば、無い。それよりも台風の被害の方がこれから強くなりそうだな」

浜田が発言する。丁寧なことに会議室に入ってきてから脱帽してテーブルの上に置いていた。志は警察官としての素質は十分にある。

「現状として月神橋がどうなっているのか、可能な限り情報を集めたい。お前らはちょうど良いことに土木工学専門の学生だ。何か意見をくれ」

神野は前のめりになった。

自然と袈裟丸と居石は椅子に座り直した。

「なるほど…よし、耕平、いったれ」

「うわ…まじかよ…」

「逃げられたな」

悪戯な笑みを浮かべて三上が言う。

全員の注目を浴びることになり、袈裟丸は学会発表よりも緊張した。

「えー、あの…断っておきたいのですけれど…僕ら土木を専門にしていまして…防災とかも分野には入っていますけれど…専門領域が違いまして…こっちのチャランポランな方が地盤や土とかそういったことを専門にしています。僕は…測量というか、GPSやセンサを使った地球規模での測量方法に関して研究しています。その…主にプログラミングとか、そんなところです。だから…ちょっと橋とかは専門ではないんです」

「耕平、技術者だったら端的に、だぞ」

じゃあお前がやれ、とツッコミを入れる余裕はなかった。

「なるほど…。じゃあ…」

白田はそう言うと、ノートPCを開いて操作する。

慣れた様に川角が立ち上がり、神野の後方の壁に向かうと、そこに備え付けられていたスイッチを操作する。

神野の後方の壁からスクリーンが降りてきた。

「観測兼監視用のカメラ映像に橋が爆発した瞬間が映っていたから、それを見て何か意見を貰えないかな」

居石は、おおスゲェ、と言って前のめりになった。

袈裟丸の返事を聞かずに白田がPCを操作すると監視カメラの映像が映し出された。

「爆発の五分前から流すよ」

神野が椅子を移動して白田の後方辺りに陣取る。

映像が再生されると、橋を斜め下に見下ろす形で映像が始まった。

「このカメラは山の方の風力発電機の所にあるカメラだ。周辺環境を記録するっていうのが存在理由。丁度上手く橋が映し出されている。倍速にするね」

時刻は午後一時を回ったところだった。

倍速で進むカウンタが画面右下に映し出されていた。

途中までは何も映し出されていなかったが、町の方から一台の車が島の方に向かってくるのが見えた。

「あれが俺とお前らが乗っていた車だ」

やってきた車が橋の中央を過ぎてしばらく進むと停車する。

神野が橋の上で台車を押して歩いていた将太に声をかけた場面である。

だとすると。

映像の中の橋が爆破した。

実際に体験して、音も臭いも体で感じた袈裟丸からすれば、映像になってしまうだけで、まるで情報がそぎ落とされたような感覚になっていた。

「あ、すんません、巻き戻して」

居石が右手を挙げて人差し指で円を描いた。

白田が笑顔で応対する。

「爆破の所で良い?」

「はい。お願いしまっす」

白田は居石のリクエスト通りに、爆破の瞬間まで戻した。

「あ、一時停止で」

居石の発言に白田はすぐに映像を停止する。

「あいつ…白田をリモコンの様に扱ってやがる」

黒木が目つき鋭く居石を見ているが、当の本人はじっとスクリーンを見ている。

そのスクリーンには橋の中央で粉塵が上がっている映像が映し出されている。

「ひでぇな。こんなことして何になるんだか…。神野さんの知り合いなんすよね?」

三上の質問に神野は俯いて頷くだけで回答した。

将太が運んでいた段ボールの中に爆発物があったという認識が共有されているのだ。

状況から見て、袈裟丸もその通りだと考えている。

「うーん…」

居石は腕を組んで首を傾けて考え込んでいる。

「えっと…居石君、何か気になることでも?」

痺れを切らしたように白田が問いかける。

白田だけではなく、全員が居石に注目していた。

「うーん、いや、なんか爆発、変じゃないっすか?」

居石の一言に全員がスクリーンを見つめる。それは袈裟丸も同じだった。

画面の中央に左下から右上に向かって斜めに伸びている橋梁、機能性のみを重視して、外灯もないシンプルなデザイン。

その橋梁も画面の中ではこれから粉塵にまみれようとしている。

誰も居石が言う変なところと言うのがわからないのか、黙ったままでいる。

「申し訳ないが、ちょっと良く分からない。教えてもらないか」

黒木が誠実な声で居石に請う。

それを合図に再び居石に注目が集まる。

「あの…この映像、加工してないんなら…」

「誰も加工なんかしねぇよ」

三上が口を出す。

「じゃあ、この橋の下の粉塵はなんすか?」

一瞬、場の雰囲気が変わる。

「下の…粉塵?」

袈裟丸はそういうと居石の指摘する箇所を注目する。

橋梁の下、海に向かって爆風と粉塵が飛んでいるのが、一時停止画像に映し出されている。

「確かに…海の方に粉塵が出ているが…それがどうしたんだ?」

黒木はまだ分かっていない。

「いや、だから、爆破は…その将太さんでしたっけ?その人が運んでいた段ボールだっていうことなんすよね?」

「一応の結論だけど…間違いないだろうな」

浜田が答える。

「この映像だと、橋の上の爆破の粉塵と橋の下の粉塵は同じタイミングで発生しているんすよね」

白田がPCを操作して、一旦映像を爆破前に戻す。それからコマ送りで爆破後まで映像を送る。

確かに居石のいう通りに橋の上と下で粉塵の発生するタイミングが同じだった。

「うーん…まあ…同じだね。それが気になることなの?」

川角が、気の抜けた様な声で言った。

「え?上の爆破は将太さんの段ボールっすよね?じゃあ、下の爆破はなんすか?」

ああ、と声を上げたのは白田と袈裟丸だった。

「すまん、わからん」

黒木の発言を受けて、それは、と袈裟丸は居石に向かって補足する。

「あの映像みたいになるためには、橋桁の上と下、両方で爆破が無ければ、あんな風にはならないってことだな?」

「だと思うんだよなぁ。違うかな」

二人のやり取りでようやく周りも理解し始めた。

「なるほどねぇ。やっとわかった」

三上が居石に笑顔を向ける。

「でも、それが?」

「段ボールの爆破は将太が、何か知らんが関わってんだろ。だが、橋の下はどうだって話だよ」

神野が低音で言う。

「将太さんと同じように、橋の下を誰か歩いてたんかなぁ」

居石の視線は会議室の天井に向けられていた。

「難しくないか?」

「不可能じゃねぇだろ?橋だったら点検通路とかあるだろうし」

「じゃあそいつも爆破に巻き込まれたってことだな」

「そうとは限らないだろ。海に飛び込んじまえばなんとかなるって」

「この台風の中をか?」

居石とディスカッションしていると、神野が口を開く。

「橋の点検通路歩くのはしんどいぞ。背を屈めて歩くからな」

「台風ならば尚更だ…ってことは…事前に設置されていた?あらかじめ、通路に入っていて待ってたとか?」

居石は発言してみたものの、納得していないようだった。

「そこら辺は、将太の家を調べてみて、また考えるってことでどうっすか?」

浜田が提案する。神野は頷いた。

「ということは…爆発物は橋の上と下、二つあったっていうことが分かったわけか…」

白田がまとめる。

袈裟丸がさらに付け加えるならば、下の爆発物はあらかじめ設置されていた可能性があるということである。

場が落ち着いたところで、浜田が将太の家を調べに行くと言って息巻いて出て行った。

なかなか積極的だが、警察でもないのにそんなことしても良いのだろうかと袈裟丸は考える。

「何かわかれば良いけれどね」

川角は浜田が出て行った扉を見て言った。

「彼の家を調べれば、爆発物の痕跡とか、少なからずあるだろう」

そんな川角に諭すように白田は言った。

言い終わると、白田は対面に座っている他の職員たち眺めていた。

気が付くと、居石が自分の顔をじっと見ていることに気が付いた。

過去を振り返ってみても、そんなことをされた覚えはない。

つまり、かなり稀な状況だと言える。

「なんか、腑に落ちねぇって顔しているな」

そんな居石が言うくらいだから、酷い顔をしていたのだろうと推測する。

自分の内面に集中すると外面が疎かになる。

「いや…なんで橋を爆破したのかなって」

スクリーンが天井の方に戻っていく中、袈裟丸の発言が会議室を静寂に包んだ。


月神町 コミット店内


「いいですか、犯人は…」

「いやいやいや、待て待て待て」

公家は手を挙げて古見澤を制する。

「何ですか?これ以上拘束されるんですか?」

「いや、そういうことじゃない」

発言した公家以上に、両隣の刑事が動揺していた。

「え?じゃあ何?」

「こう…なんか…あるだろう?礼儀というか儀式というか、様式美みたいなものが…」

「全く思い当たることがありません」

古見澤は切って捨てるように言った。

「じゃあ、理由を教えてもらえんか?ちょっと見当がつかん」

時間が無いとこすまんな、と片手を挙げる老刑事の目は笑ってはいなかった。

古見澤は焦げ茶色の刑事を見る。

その表情から、彼が大まかなことを理解していることに気が付いた。

やはり良くできる部下が集まっているのだと確信する。

古見澤は名も知らない部下の刑事二人のために説明しようと思った。

「わかりました。では手短に。殺害動機の面を考えることはしていません。容疑が掛かっている人たち全員が殺害の動機を持っているってことになりますからね。それにそんなことはあまり意味がありません」

喋り始めた古見澤は肩にバッグを掛けたまま、立って話を始めた。

さっさと終わらせて直ちにここを出て行くため、ということと、目前に立っている刑事達へのアピールである。

「関係ないってことはないだろう?」

若い刑事が指摘する。

「関係ないですよ。捕まえたところで、動機を尋ねても、果たして殺害の瞬間に何考えてたかなんて…」

古見澤は喋りすぎてしまうと考えて話を戻る。

「脱線しました。まず、確認しておきたいのは、殺害された栗田陽菜さんが倒れていた方向です」

「方向?」

焦げ茶色の刑事が聞き返す。

「彼女はどちら向きに倒れていましたか?」

「…バックヤードの方に向かって倒れていた」

若手の刑事が発言する。

「そうです。これはどういうことを示しているか。栗田さんが刺されたのは背中です。つまり、栗田さんがバックヤード側に体が向いている時に刺されたということです。店の方に出て行く栗田さんの目撃証言がありますから、店から出ようとしていた、と考えられます。賞品が並んでいる棚を抜けて、店から出ようとした時に、目前にナイフを持った人物が現れた。そうした時に、普通なら、どうしますか?」

古見澤の視線は若手の刑事に向けられている。意見を求めていた。

「逃げる…だろうな」

「それが普通だと思います。だから殺害した人間は栗田さんの後方から追いかけて、刺したということになります」

公家は唸る様にして腕を組む。

「横領を指摘された犯人が部屋を出て行った栗田陽菜を追いかけて行って殺害したのではなかったのか…」

「だったら、店の入り口側を向いて倒れているはずですよ」

公家は何度も頷いた。

「栗田陽菜さんはここに犯人を呼び出して横領について問いただした後、先に犯人を退出させたんです」

古見澤は説明だけを淡々と進める。

「犯人が最初から殺害しようとしていたのかどうかは判断できませんが、ナイフは市販のものだったということですよね?」

若手の刑事は頷く。

「この店にも売ってなかったってことも考えれば、最初から殺す気でいたかもしれないですね」

若手の刑事と焦げ茶色の刑事は顔を見合わせる。

「しかし…これだけでは誰がやったかはわからないだろう?」

公家の語尾が強くなっていた。

「いえ、まず、精肉担当二瓶さんと鮮魚担当松田さんは外れます」

「なんでそうなる?」

「宮園さんと木下さん、加藤さんが誰も見ていないからです」

アニメであれば、公家の頭に上にクエスチョンマークが浮かんでいるシーンである。

「二瓶さんと松田さんが栗田さんを殺すには、二通りあります。この部屋から出て行った後、すぐに店の方に出て行って棚の陰に隠れて待ち伏せするか、栗田さんが店の方に出て行ったことを確認して、自分たちのコーナから出て行って棚の間を駆け抜けて前に立つかしかないです」

公家は頭の中で想像している。

「そのいずれも、店で作業していた三人の目をすり抜けることはできないです」

「ん?なら、その三人の中にいるってことか」

「え?まだ分かんないですか?加藤さんにしか殺害できないでしょう?」

公家は、あ、と言って黙った。

「なんか横領とか土器とか、怪しい学生がとか言っているから単純なことが見えないんじゃないでしょうか?」

公家は、口を震わせていた。

「刑事さん、これで説明になりますか?」

「良く分かりましたよ。簡単な事だったんですねぇ。どうもご足労掛けました」

満面の笑みで焦げ茶色の老刑事はお礼を言った。

「それでは。公家刑事、送ってください」

複雑な表情をして公家は部屋のドアを開いた。

古見澤もそれに続く。

まだ鑑識や制服警官がいる店内を抜けて、入り口から外に出る。

雨風は店に入った時よりも強くなっていた。

「車を取ってくる。雨に濡れないところで待っていてくれ」

公家は雨にも風にも負けずに、傘をさして走って行った。

古見澤は、待ち時間を利用してスマートフォンを取り出す。

見ると、居石から返信が送られてきた。

島に渡っていること、橋が落ちていること、二人共元気で萎えているという、意味の解らない状況がつづられていた。

意味の分からなさで言えば、さっきまでの古見澤もそうだった。

古見澤は居石のメッセージに返信する。

身体は無事だが、精神的に嫌な気持ちになっていたこと、殺人犯にされそうになったこと、神野さんにお礼を言っておいてほしいことを書き留めて送った。

空を見上げると、コミットに来た時よりも、空がどんよりとしていて暗かった。

時計を見ると、午後五時半を回っていた。

予定外に時間を無駄にしてしまったと反省する。

目的のものも買うことはできなかった。

公家の運転する車が古見澤の前に停車する。

助手席を開けてくれた公家にお礼を言って乗り込む。

パトカーかと思っていたら、普通車だった。

「雨風が強いな。これからもっと強くなってくるとのことだ」

「まだ暴風域に入ったかっていうくらいでしょうね」

車はワイパーが動いていたが、どれだけ早く動かしていても、視界がクリアになることはなかった。

「もう、夕方だな。どうだ。夕飯でも?」

お腹は確かに空いていた。駅の立食い蕎麦以外に、何も口にしていなかった。

「刑事さんと夕飯は勘弁したいですね。それについさっきまで、あらぬ疑いをかけられていたんですよ」

「それはすまなかった」

「よくそんな人間に飯食いに行こうって言えますね」

「…もう勘弁してもらえないだろうか…」

「でも、お腹空いているので、行きますよ。ご馳走様です」

公家のため息と共に車は発進した。

「勝手に持ち場を離れて、ご飯行っていいんですか?責任者ですよね?」

「追及が止まらないね…。優秀な部下がいるからね。少しくらいは大丈夫だよ」

優秀な部下がいるという自覚があったことは素晴らしいと古見澤は思う。

「月神橋の方はどうなっているんですか?」

「やはり台風でどうにもならない。復旧は台風が通り過ぎてからになるだろう。島の方も早急に助けが必要な状態ではないそうだ」

「台風待ちってことですね」

「過ぎ去ったら、すぐに我々も向かうつもりだ」

「安心しましたよ」

車はコミットの前の道を進む。数時間前に古見澤が歩いていた大通りである。

鈍色の海の中に島が浮かんでいる。僅かに見える灯りが人が住み、生活していることを想起させる。ただ、それだけで生きているかどうかまでは言い切れない。

無人の島で灯りだけがある、そんなホラー映画のような光景を想像していた。

「ん、そう言えば」

信号で停車したと同時に、公家が口を開く。

「あの土器の件は、なんだったんだろうな」

「栗田さんの傍に落ちていたものですよね?」

ああ、というと青信号と同時に発信する。

古見澤は横目で公家の表情を盗み見る。

「偶々持っていた、としか考えられませんね。他に破片が見つかってないですから、襲われたときに割れたり落としたりしたものでもなさそうですね」

「襲われたときに土器を持っていた、というのはなかなか滑稽だな」

「そうですか?」

「そう思わないのか?」

「襲われたことが無いのでわかりませんけど、何を持っているかなんてタイミングに寄りますよね」

まあそうだが、と公家は言って、ステアリングを切った。

車は大通りから横道に逸れる。月神島は古見澤の視界から消えた。

「君は変なことを考えるな」

「同じこと考える人間がいることの方が怖いですよね」

公家は含み笑いをして、そうかもな、と言った。

車が曲がった先は、大通りに交差している、広い道だった。

大通りと比べてガラリと店の様子が変わり、所謂、夜の店や飲食街が多くなっている。

「飲み屋とか多いんですね」

「さすがにメインの通りには無いがね」

「この通りにあるんですか?」

大通りの交通量に比べれば少なくはなるが、車は多い。

大学の近くでも見かけるファストフード店やファミリーレストランなどを通り過ぎる。

「良く行っている店なんだけれどね。それにしても…」

一旦公家は言葉を切る。

「君の友達の事も心配だな…。連絡は取れているのか?」

「何とか電波は通じているようで、メッセージはやり取りできています」

「電話とかしないんだな」

「メールとか文字の方が情報の欠落が少ないですからね」

今どきだな、と公家は言うが、果たしてそうだろうかと古見澤は思う。正しく考えが伝わった方が良いと考えているだけである。それこそ人による。

「全く…橋が爆破されるとはな…あの橋は二年前に作られたんだよ」

「最近なんですね」

車がゆっくりと進んで行く。

公家は、ここだ、と言ってステアリングを左に切る。商業ビルの地下に降りていくと駐車場になっていた。

いくつかの飲食店が入っているビルの駐車場になっているようだった。

雨風の事を考えて、傘を差さなくても済むような場所にしてくれたのだろうかと古見澤は考える。

気を遣ってもらったようで素直に嬉しかった。

「それまでは島と町の行き来はどうしていたんですか?」

「船だね。連絡船。乗船時間は僅かだが、それでも不便に変わりはなかった」

「確かにそれしかなさそうですよね」

二人は車を降りるとエレベータホールに向かった。

ボタンを押すと、三階から降りてくるところだった。

「月神島が電力発電の実証実験の場に選ばれてから、あの橋が造られたんだ」

「実験…ですか。どんな実験です?僕も実験系の研究しているので、気になりますね」

公家は、目を細くしてじっとエレベータの回数表示を見ていた。

それ以上、公家は口を開くことはなかった。


月神島 公民会二階会議室


「将太の家の調査結果を待つが…とりあえずはこんなとこか?」

神野が投げやりに言った。

「それでも、月神橋の爆破に関して分かったことがあったのは収穫ですね」

白田が神野の言葉を受け継ぐ。

「台風以外でこんなことあるんですね」

椅子を左右に回転させながら、三上が言った。

「頻繁にあってたまるかよ。誰だか知らんが、もうこれっきりにしてほしいね」

黒木の顔には疲労が浮かぶ。

「さっき…皆さん、実験とか、研究とか、そんなこと言ってたと思うんすけど、この島で何しているんすか?」

居石が飄々と尋ねる。

開発機構の面々はそれぞれ顔を見合わせると、じゃあ、と言って白田が切り出す。

「君が言う研究や実験とはちょっと違うんだ。僕らは自社で開発した新しい風力発電機の実証実験に臨んでいる。つまり、これが会社の利益に直結するってことね」

居石は頭を掻きながら聞いている。

「ここでは、風力発電と洋上発電がメインだね。洋上発電は波力発電とも呼ばれているね。これは知っているかもしれない」

袈裟丸も居石と共に頷く。

「それと来月から、バイオマス発電の実証実験も追加する予定だ」

「風力発電って、あの山の上のやつっすか?」

白田は頷く。

「羽が無いっすね」

「あれはマグヌス式垂直軸発電装置だ。普段見るのは水平軸でプロペラ式だね。居石君、マグヌス効果って覚えている?」

「マグヌスって…聞いたことあるな…耕平、何だっけ?」

「俺よりも古見澤が詳しい分野だな。なんだっけ…えっと…」

袈裟丸は少し考える。白田は笑みを浮かべて待ってくれていた。

「正直俺もうろ覚えだけど…回転している球や円柱が風や水の流れの中に置かれたときに、流れの方向に対して垂直な方向に力が働くことをマグヌス効果って言ってたと思う。だから野球のカーブボールとかの仕組みだよね」

「ああ、聞いたことあるなぁ。マグヌス効果」

居石は思い出したというような顔をした。

「正解だよ。あの風力発電装置はそれを応用している。従来のプロペラが取り付けてあるところに垂直に円柱が三つ取り付けられている。中心軸に対して取り囲むように三角形に円柱を配置しているんだ。円柱が取り付けてある部分の下に発電用のモータがある形だね」

袈裟丸は頭の中で発電装置の形状を思い出す。

「ポイントは三つの円柱を内蔵のモータで回転させることで、風を受けた時に円柱翼が回転することにある」

「ん?発電したいのに電気使ってんの?」

「居石君は以外と細かいところに気が付くね」

「あー本当っすか。細かいことに気が付くのは、どっちかって言ったら、こっちの方なんすけどね」

大げさに袈裟丸を指差す。

「それはごもっともな疑問だな。なあ、黒木?」

話を振られた黒木は白田を睨むように見るが、律儀に話を受け継ぐ。

「あのマグヌス式が発電する正味の電気量は発電量から円柱を回転させるための電力を差し引いたものだ。だから発電効率としては一般的なプロペラ式の物よりも劣ることは間違いない。しかし、マグヌス式は、弱い風速からそれこそ今の外のような台風並みの風速時まで稼働できる。だから稼働時間が長くなる。結果、発電総量でプロペラ式のものを上回る」

黒木は白田を見る。

「と言うわけだよ。分かったかな」

「わかりやすかったっす。あざっす」

「あざっすはないだろ。部活かよ」

三上が笑いを堪えていた。

「というわけで、説明の途中だったから続きね。円柱翼が回転することで発電する仕組みなのはプロペラ式と同じだけれど、さっきも言った通り、円柱自体の回転数を吹いている風の強さに応じて変えることで効率的な発電ができる」

そんな発電装置だよ、と締めくくった。

「良く分かりました」

袈裟丸はお礼を言う。

「ここでは高さを変えたものを三つ設置している。ほとんど影響は受けないとは思うけれど、こうしたことも検証しておかないとね」

居石も何度も頷いた。

白田の視線は窓の外に向けられていたが、雨が叩きつけられているため、会議室内からは発電装置は見えない。

「講義は一通り終わったか?なら、帰るぞ」

神野が立ち上がったのと、会議室の扉が開いたのは同時だった。

「おやおや、皆さんお揃いで。丁度よいですね」

厭らしい声が会議室に響いた。

袈裟丸と居石が振り向くと、底に立っていたのは眼鏡をかけて髪を七三に分けた、一昔前の市役所勤務の男性をイメージして、と言われれば誰もが思い描くであろう格好の男性が立っていた。

にこやかに笑顔を見せながら会議室に入ってくると、神野や開発機構の職員たちの表情が変わっていく。

そして、その男性の後ろから、この場に似つかわしくない人物も続いて入ってきた。

肩までの長髪、スーツに前を開けたトレンチコートが靡く。

顔の半分を覆い隠すマスクに、そして、刀。

マスクが半分だけだったので、見えている部分の顔つきから袈裟丸は女性だと判断したが、実際はまだわからない。

男性の後ろに離れないようにして一定の距離を取って歩いている。

男性は神野の横に立つが、表情は崩さない。

「石田、勝手に会議室に入ってくるのはルール違反じゃねぇのか?」

「失礼、使用中の札が掛けられていなかったもので。しかし、ここは住民が自由に使える公民館です。入るのも出るのも自由ではないですか?」

石田と呼ばれた男の笑顔が今は嫌らしく思えた。

「ああ、日本電力開発機構の皆様もご一緒だったんですねぇ。また住民に黙って勝手に何か始めようという話し合いですか?」

「石田さん、人聞きの悪いことは言わないでください」

白田の顔から余裕が消えていた。

袈裟丸は石田と視線がぶつかる。

「今日は別のお客様がいるようですね。しかも…初めてお見かけする顔ですねぇ」

「島の外から来た、うちのアルバイトの学生だ」

「おやおや、月神島にようこそ。天気が残念ですが、しばらくしたら台風も過ぎ去っていきますから。楽しんでいってくださいね。まあ…楽しむところがあれば、ですけれどねぇ」

終始厭らしい笑顔で言う。

その笑顔で喋るのは難しいだろう、と袈裟丸は思っていた。

神野はまだ言いたいことがあるらしく、石田に詰め寄る。

静観するしかなかった袈裟丸に、居石が身体だけ近づけさせて小声で囁く。居石にしては珍しい行動だった。

「なあ…耕平…あの変な仮面被った奴、俺にしか見えてないわけじゃないよな?」

「そうだったらよほど良かったよ。残念ながら俺にも見えてるよ」

「そうか…じゃあ、なんでおっちゃんたちは無反応なんだ?あんな奴入ってきたら、何かしら反応するだろう?笑っちまったり、引いたり…これ、デフォルト?」

若干音量が大きくなった声に、当の本人がピクリと動いた気がした。

「まあ、一回以上は見ているってことだな」

こそこそ話しているのが気になったのか、石田がこちらを向いた。

「学生さん、全く災難な時にこんな島に来ることになって…同情しますよ。それもこんな島民の事を全く考えない薄情物の所にねぇ」

ゆっくりと石田がこちらに歩いて来る。

二人の間に立つと、それぞれの肩に手を置く。

「何か、嫌なことをされたり、気分を害したら、是非、私の所に。私には最強の交渉人がいますからね」

石田がぴったりとくっついてきていた半仮面の方を向く。

「こっちはね、交渉人をしている諌です。見ての通り、人を寄せ付けない雰囲気がしているでしょう?」

諌と呼ばれた人物はピクリとも動かず、また、どこを見ているのかわからない表情に、袈裟丸の背筋が寒くなる。

「すげー、最強とか言って…それって自分で言ってるんすか?」

へらへら笑いながら居石が言い終わった直後、諌の刀が居石の首に当てられた。

うぐ、と声にならない声を居石が出した。

一瞬だったので袈裟丸は全く動けなかったが、行動よりも頭の方が先に動き、状況を把握できた。

諌が当てた刀は鞘に収まったままだった。

「その口を切り落とすか、喉を切り裂くか、どちらが良い?」

ただ空気が振動して耳に届いただけ、という声だった。しかし、その声だけ聴けば簡単に壊れてしまいそうな儚い女性の声だった。

「へい…すんま…せん」

居石が言うと無音で刀を下げる。

「手は早いですが、余程の事が無ければ刀を抜かない、ということで有名な交渉人です。案外気は短いですから…」

お気をつけて、と二人の耳元で囁く。

本日二回目だったが、背中に虫唾が走る。

生理的に厳しい相手だ、とこの時に袈裟丸は認識した。

「では、皆さま、せいぜい夜まで生きていてくださいねぇ」

最低な気分になる捨て台詞で石田と諌は会議室を後にする。

数秒、会議室が静寂に包まれる。

「いや、久しぶりに走ったよ…」

何が、と力なく尋ねる袈裟丸に居石は続ける。

「虫唾が」

何で倒置法なのか、というツッコミはできなかった。

あの短時間で、袈裟丸はげっそりとしていた。

「ちょっと…おっちゃん、あれ何?」

こういう時に居石の豪胆ぶりは助かる。

袈裟丸が聞きたかったことだった。

神野は厳しい表情をしていたが、ふと力が抜けたようになる。

白田も同じような表情になっていた。

雨の音だけが、会議室に響いていた。


月神町 月神総合ビル


そのビルの二階に古見澤と公家はいた。

一階がコンビニエンスストア、三階にはキャバクラが数件入っている。

地下一階から乗ったエレベータの横に各階に入っているテナントの名前が書いてあったのを確認していた。

そして、二階には三軒の店が入っていた。

その内、二軒の店はお酒を提供する店である。

公家はその店は避けて最後の一軒、定食屋を選択した。

「お酒、飲みたかったかも…」

メニューに隠れるようにして、呟くように言っただけだが、公家は聞いていたようだった。

「本格的な飲み屋が良かったか?申し訳ないな」

「ああ、気にしないでください。人の金で食べられるんで文句言うのは悪いです」

「君はオブラートに包むってことをしないのだな」

「直接言った方が、伝わらないってことが無いじゃないですか?これは嫌だ、これは良い。そこをはっきりと伝えた方が円滑に進むと思うんですよね」

「円滑…円滑に進むのだろうか…。その…困らないか?人付き合いとか…」

「困らないですね。困るんですか?」

「嫌な気持ちになる人もいるんじゃないか?」

「そんな人は離れていきますよ」

「だろうな」

「それが困るんですか?」

「いや…そんな物言いでいたら、友人ができないのではないのか?」

「人に合わせることができれば友達なのですか?」

公家は黙った。

「それって、その意見を言った人がもう一人いれば良いことになりますよね?」

店内は満席ではなかったが、客が全くいないわけではなかった。

僕は、と古見澤は続ける。

「誰かが自分に合わせるようなことがあると気持ち悪いと感じます。だから、僕もそうならないように気を付けているんです」

メニューを広げたままだったが、視線は公家に向けられていた。

「そうか…」

「それにそれでも付き合ってくれる友達っていう存在はいるんですよ」

「そう言えば、その友達とアルバイトに来ていたんだったな」

「今は絶海の孤島に閉じ込められていますけれどね。まるでミステリ小説ですね」

その時、店員が近づいてきて、注文を取りに来た。

古見澤が注文すると、公家はメニューを見なかった。

「私はいつもので」

公家は店員にそう言うと、店員は少し考えてから、分かりました、と言って笑顔で去って行く。

「行きつけってやつですか?」

「まあ、そうだな。いくつかある中の一つだ。こうした仕事だと自炊もしないからな」

「バリエーションを持たせようとしているのは素晴らしいですね」

二人の前に注文したものが運ばれてきた。公家はチキン南蛮定食、古見澤は豚汁定食だった。

「質素な物にしたんだね」

「豚汁が質素ですか?まあ…その人によるか…。一人暮らししていると、こういうものが欲しくなるんですよね」

公家は黙って頷く。

雑談を交えた賑やかな夕食と言うわけではなかったが、和やかな夕食だった。

二人共食事を終えて、お茶を飲んでいると、横を通り過ぎた老人が立ち止まって引き返してきた。

「やっぱり、古見澤君、君か」

いきなり声をかけられた古見澤は硬直したが、声の主の顔を観察すると、その緊張も解けた。

「安田先生、どうしてこんなところに?」

古見澤は立ち上がって言った。

にこやかな笑顔で話しかける安田は、ジーンズにシャツと言うラフな格好だった。

五十台後半だと古見澤は記憶していたが、こんなところで会うとは思わなかった。

「駅を挟んだ山側の方に別荘があってね。夏期休暇で月神町によく来るんだよ。いやぁ、来月の学会で会うと思っていたのだがね。フライングしてしまったよ」

笑顔で言う安田は傘を杖の様にしていた。

「いえ…三月の学会ではお世話になりました。ありがとうございました」

「まだ学部生なのに、堂々とした発表だった。内容も楽しかったよ」

古見澤は、いえ、とだけ言う。

安田が公家の方を見ていたので、古見澤は説明する。

「こちらは警察の方で…」

「S県警の公家と言います」

簡単に紹介する公家を安田は疑わしそうに見る。

「古見澤君にはあらぬ疑いをかけてしまって…」

公家はまだ説明をしたそうだったが、安田はそれを遮る様に古見澤に向き直る。

「古見澤君、泊まりかい?ホテルとか泊まるところはあるのかい?」

「実は…月神島で住み込みのバイトをする予定だったのですが…」

月神島、の単語がでたと同時に安田の表情が曇った。

「橋がな…」

「ええ。それは仕方がないです。それで公家さんがホテルを準備してくれると…」

「なるほど、そういうことか…なら、私の別荘に来なさい」

古見澤が言い終わる前に決めつける。

「え?でも…それは悪いです。ご家族もいらっしゃいますよね?」

「構わんよ。家族もそれぞれ好き勝手なことしている」

確かに、家族がいれば、こんなところで一人で食事をしてはいないだろうと想像する。

「古見澤君、こっちのことは気にしないで構わないよ」

公家が淡々と言う。

「そうですか…では…お邪魔しても良いですか?」

「もちろんだ」

安田はにこやかに返答すると、公家に大よその場所を伝える。月神町の内陸側、駅を挟んで小規模な別荘地があるということで、公家も場所がすぐに分かった。

「じゃあ、一足先に帰ってるぞ。また」

そう言って手を挙げて店を出て行った。

「ここで知り合いに会うとは思いませんでした」

「君は…年上から好かれるほどできる人間なのか?」

「いえ、そういったことではないです。学会で良くしてもらった、というだけですよ」

「それでもできる人間じゃなければ、そうはならないだろう?」

「必ずしもそうではないですよ。僕は偶々、です」

古見澤は多くを語らなかった。公家に言ってもどうしようもないことである。

「よし、じゃあ行こうか」

「なんか申し訳ないです。ご馳走になるのは元から決まっていましたけれど、先生の家まで送ってもらうのは予定ではなかったのに…。それにホテルの予約まで無駄になってしまいました」

「そんなこと気にしないでくれ。君がしたいようにしてくれていれば良い」

公家はそう言うと伝票を持ってレジへと向かった。

店の外に出てエレベータの下降ボタンを押す。

三階に停まっていたエレベータが降りてくる。

チン、という嘘みたいな音がしてドアが開くと、そこには青白くなったウェイタ姿の男性が立っていた。

「あ、公家さん」

「杉田、お前何してんだ」

公家は驚いた様子で杉田の全身を見る。

閉まりかけたエレベータの扉をこじ開けるように杉田が出てくる。

「く、公家さん、ちょっと来てください。急いで。お願いします」

杉田の迫力に押されるように公家はエレベータに乗り込む。古見澤もつられて乗り込んだ。

杉田は三階のボタンを押して、閉ボタンを連打する。

「何があった」

緊張感のある声で公家が尋ねるが、杉田は何も言わずに取り乱している。一度一階に到着すると追加の乗降者を乗せることなくエレベータの扉が閉まる。

何があった、と尋ねる公家に杉田はただ焦るばかりで口を開かなくなった。

三階の扉が開くと、転がる様に杉田が駆け出す。

公家も後を追い、それに古見澤が続く。

三階も二階と同じ造りだった。

エレベータを出ると、左右に廊下が伸びている。

廊下は左手が建物の入り口、道路側に該当する。

非常口もそちら側にあった。

三階は地下で古見澤が見た通り、キャバクラの店が並んでいた。

とは言っても三軒だけで、廊下の左手に二軒、右手に一軒の配置になっていた。

右手に走って行った杉田は扉の前で立ちすくんでいる。

杉田の格好とこの階に来たことから、古見澤はキャバクラの店の店員なのだろうと推測していた。

杉田を追って走って行った公家は杉田から少し離れたところで立ち止まっていた。

その理由は明らかなものだった。

杉田の視線の先、開いた店の扉の下方から、長い茶髪の頭が転がっていた。

古見澤は目を見開いた。

悲しげな様子で公家の方を見る杉田に公家も視線を合わせる。

「店…開けようと思って…そしたら…うちの子が…首を絞められて死んでいるんです。公家さん、どうしたら良いかな?」

古見澤はゆっくりと公家に近づく。

扉からはみ出た頭と共に、赤いドレスがはっきりと見える。

首に巻かれたラメ付きの群青色のストールが、まるで天女が寝転んでいるかのように思えた。しかし、センスの良いストールとは思えなかった。

この状況から見れば、この店で働いている女性が横たわっていると考える方が自然だろうと古見澤は思う。

「お前がやったのか?」

公家は落ち着いた様子で尋ねる。

「違う…違うよ、公家さん。俺はただ、店を開けただけだよ。何もしていない」

杉田は今にも泣きそうな顔をした。

「少し待て」

公家はスマートフォンを取り出して連絡をする。

三分ほど話をしてからこちらに戻ってくる。

「触ったものは他にあるか?」

「ない。鍵を…開けてからドアノブを握ったら、勢いよく開いて…それで…」

勢いよく女性が倒れてきたのだろうと古見澤は思った。

「わかった。お前はとりあえず、そこにいるんだ。捜査員がやってくるから」

公家の表情は苦々しかった。

そこでやっと古見澤に気が付いたようだった。

「古見澤君、申し訳ないな。送るのが遅くなるかもしれない」

困惑しながらも穏やかな表情に戻った公家が謝罪する。

いえ、と古見澤は無表情で短く言う。

「人が頻繁に死ぬ町なんですか?」

あまりにも淡々と古見澤が言ったので、公家は暫く何も言わなかった。

そろそろ外は暴風域に入っているだろう。安田の家まで送り届けてもらえるのだろうかと不安になってきた。

「そんな町では…」

「冗談です。分かり辛かったですね」

「…このタイミングで言う冗談ではないね」

ではどのタイミングで言えば良いか、聞こうとしたが、冗談が過ぎるのと高度過ぎるのでやめた。

「でもなかなかないですよね?きっと」

「世界中のどこかで毎日人は死んでいる。珍しいことではないさ」

公家がどこか投げやりになっていたので、古見澤は黙ることにした。

その方が早く帰れそうな気がしたからである。

「杉田、この女性は誰か知っているのか?」

古見澤は覗き込むようにして店の中を見る。やはり女性のようである。

一歩、店に近づく。店の中ははっきりとは見えないが、内装の色合いが落ち着いているように思えた。

後方で杉田と公家が話しているので、横に逸れようと少し動くと、何か落ちていることに気が付く。

表情は変わらないが、古見澤は少し驚いた。

公家と杉田を意識しながら、しゃがんで、靴紐を結び直すような仕草をしながら、それを拾い上げた。

それは土器のかけらの様に古見澤には見えた。古見澤は後ろの二人に見つからないように拾いあげると、手の中に握って隠し持った。


月神島 月神荘食堂


「島のためを思ってのことだった」

ビールの入ったグラスは一瞬で半分はどの量になった。

公民館から帰ってきた三人は月神荘の食堂にいた。

開発機構の四人は、公民館近くの会社が建てた宿舎に滞在しているということだった。

浜田から連絡は来ておらず、何もすることが無くなった三人は月神荘まで戻ってきた。

時刻は午後六時を回ろうとしている。

帰ってきた途端に、飯にしよう、と神野は言い出して厨房に入って行った。

袈裟丸は聞きたことがあったが、神野のタイミングで話してくれるだろうと考えて、居石と部屋に戻って待機していた。

その時に古見澤からメールが来ていることに居石が気付いた。とりあえず、容疑は晴れたようで、簡単に何が起こったか書いてあった。

二人でそれらに返信していると、ゆのが夕飯を伝えに来た。

並べられた夕飯を食べながら、美味いか、と聞いてくる神野にその食べっぷりで居石が答えた。

神野は話を始める前に、しおりにビールを持ってくるように頼んでいた。

神野の話が始まると、居石の食べる速度が遅くなる。

「気にしないで食え。こっちが勝手に愚痴るだけだ」

しおりが居石の隣で茶碗を受け取ると、キッチンへと向かう。

しおりとゆのも三人とは別のテーブルで食べていた。

広い食堂には、五人しかいなかった。やはり、宿泊客は来ていないのだろう。

「ここに移り住んだ時から考えていた」

神野は残りのビールを飲み干す。

「これからの島が発展していくためには、何か売りがないといかん。俺が考えたのは観光地としての側面だった」

「観光地になんのか?ここ」

卵焼きを三ついっぺんに口に穂織り込んだ居石が尋ねる。

「そう、俺の認識が甘かった。全くどうにもならなかった。確かに小規模だがビーチもあるし、晴れた日の絶景も格別、少し山に入ればキャンプも出来るし、渓流もあるからそれなりに売りはある」

「どこでもあるじゃん」

神野はゆっくり頷く。

「そう…どこにでもある。だから売りにはならない」

「でも…他の観光地だって…その中で売りを作っているんじゃないのですか?」

「もちろん、俺だってとりあえず、それをやりながら探していった。だが振るわなかったな」

「大失敗ってやつだな」

「そう。だから、方向性を変えた。いろんな企業にこの島で何かしないかと提案して回った」

「そりゃ大変だったな、おっちゃん」

「しんどかったぞ。本当にしんどかった。でも、その中で日本電力開発機構の白田と会ったんだ」

「おー、あのイケメン爽やか兄さんだな」

「要、それお前が考えたの?」

袈裟丸が味噌汁を一気に飲み干してお替りする居石に尋ねる。

「見たまんまだろ」

「白田さん、かっこいいですよね」

味噌汁を居石に渡しながら、しおりが笑顔で言う。

「しおりちゃん、あんなのが好みなん?」

「ん…、どうでしょうねぇ」

笑って自席に戻るしおりをじっと居石と神野が見送る。

「まあ、白田は俺の話を聞いてくれてな。新しい技術を開発しても、それを実証実験できる場所が無いっていうことを言ってくれた。それは気が付かなかった」

「確かに…大きい装置を簡単に試すわけには…行きませんからね」

「白田はそこに目をつけて、島の有効活用を探していた俺に連絡を取ってきた」

神野はグラスにビールを注ぐ。

「打ち合わせをしながら、話を進めていったんだが、それとは別に島の住人たちにも説明しなきゃならんかった」

「ん?話って、おっちゃん、住民の許可を取らないで話進めてたのかよ」

「そうだが…いかんかったか?」

「最初にそっちじゃねぇのか?おっちゃんの島じゃねぇだろ?」

奥の席でしおりが笑いをかみ殺している姿が袈裟丸の目に入った。

「父ちゃん、怒られたんだよねー」

ゆのが屈託なく笑う。

自分が入れない会話には参加せず、黙って夕食を食べている。とても空気が読める子なのかもしれないと袈裟丸は思った。

「それは…まずいですよね…」

袈裟丸も言った。

「まあ、結果、開発機構がこの島に試験場を作ることに反対だとする派閥が生まれたんだが…。そうか…順番が違ったのか…」

「おっちゃん…それはまずいだろ。弁解の余地なし」

神野は憮然とした表情だったが、律儀に話を進める。

「賛成してくれている住民もいたが、反対する住民もいた。反対派のトップがさっき会議室に来た石田ってやつだ」

「爬虫類見てぇな奴だったな。目が怖かった」

居石はかきこむようにして漬物を口に入れる。一般人の三倍はする咀嚼音が響く。

「今はお前が爬虫類みたいだよ」

ん、と居石は言うが、何を言っているかわからなかったようだった。

「神野さん、でも結局のところ、白田さんたちも来ているし、風力発電も建設されていますよね?他の発電施設も作られているって言ってましたし…」

「ああ…かなり言いにくいんだが…」

「え?」

「おっちゃん、やったな?」

神野は何度も顎を摩る。

「無断でやったんだな?」

居石が漬物を飲み込んで言い放った。

「実際に運用して見れば分かってくれると…思ったんだよ」

目に見えて落ち込んでいた。

「ったくしょうがねぇオヤジだな」

非難するような言葉を言う居石だったが、顔は笑顔だった。

「反対派の人たちは施設の工事中とか、今現在とか、妨害してくるとか、嫌がらせとかはなかったんですか?」

「全くなかったな…いや、工事現場に来ることはあっても、邪魔するとか、そんなことはなかったし、賛成派の連中に嫌がらせがあったとか、そんなこともなかったな…」

「じゃあ、賛成なんじゃん」

豚バラの生姜焼きと白米を交互に口に入れながら、居石は器用に喋る。

「主張としては反対だということなんじゃねぇか、って白田は言っていたかな」

崇高な考え方だが、反対派だと言い張る必要もないように袈裟丸は思った。

「そんで、あのコスプレちゃんは?最強の交渉人」

最後の、最強の交渉人、の所は含み笑いだった。

「ああ…石田が連れてきたんだよ。」

「どこからですか?」

袈裟丸は二人の会話に入る。

「それは知らん。少なくとも本土の方からだろうな」

「最強の交渉人…。かなり。イテぇな」

「誰が言ってんだよ」

居石は、ん、とだけ言った。

「少なくとも、刀持っている奴なんて危ないことには変わりないですよ」

袈裟丸は神野に言う。

「まあ、そうだな…」

「でも…そんな危ない奴を投入するっていう強硬策に打って出たのに、発電装置の建設とかでは邪魔したりしてないんですよね?」

神野は頷く。

「一体、反対派は何がしたいんだろう…」

「これ以上、好き勝手されたくないってのはどうだ?」

やっと満足したのか、しおりが淹れてくれたお茶を一口飲んで、居石は言った。

一体、どれだけ食べたのか、袈裟丸にも把握できていなかった。

「どういうこと?」

「確か、あのイケメン、また新しくなんか作るって言ってただろ?」

確かに、そんなことを白田が言っていた気がした。

「バイオマス発電だっけ。それを造らせたくないのか…」

「んーその施設だからってことじゃねぇと思うんだよな」

袈裟丸は居石を見る。

「これ以上、好き勝手されてたまるかって思いが伝わってくるんだよ。あの爬虫類から」

苦々しい顔で居石は言った。

「つまり、お前は石田がこれから本格的に嫌がらせをしてくるって考えてんのか?」

「本格的っつーか、今まで何もしてないんだろ?それに最強だかなんだか知らんけど、少なくとも肩書に交渉人って入っている人間も連れてきてるんだから、それなりに大人なやり方で攻めてくんじゃねぇか?」

居石の腹が満腹になると、しっかりとした意見ができるというのは発見だった。今後は常に食べ物を持って歩こうと袈裟丸は心に誓った。

ねぇ、と同意を求めるようにゆのへ話しかけるが、わかんない、と言われて居石は笑っていた。

「これからってことか…」

「あいつ、いつからここに来てんの?」

「二週間くらい前だな」

神野はぼさぼさの頭を掻きむしる。

「つい最近か…」

「気が狂って刀振り回し始めたらやべぇな。八つ墓村じゃねぇか」

居石は笑うが、実際に起きたら笑ってはいられないだろう。

「余程の事じゃなきゃ刀は抜かないって言ってたがな」

「おっちゃん、そんなの分かんねぇよ。腹に雑誌仕込んでおいた方がいいんじゃね?」

神野は複雑な顔をしていた。

「そろそろ、お片付けしても良いかな?」

話の谷間を見つけて、しおりがやってきた。

「あ、ご馳走様でした」

袈裟丸は丁寧に手を合わせて言った。

「ご馳走さんでした。何かスゲー食べた気がする」

気ではなく、食べたのである。

「美味かったか?」

二人共頷く。

「ふー。じゃあ、酒でも飲むか。飲まねぇとやってられねぇからな」

「食ったばっかだろ」

「食ったばかりだからなんだってのよ。飲むときゃ飲むんだよ」

そう言えば、こんな奴だった。学部生の頃、講義中に缶ビールを飲もうとして、袈裟丸たちが必死に止めたことがあった。

「俺は後で付き合おう。片付けせにゃならんからな」

ゆっくりと立ちあがる神野は、身体を伸ばしている。

「私、やっておくから、飲んでていいよ」

「ん、そうか、じゃあお言葉に甘えるか…」

神野は笑顔でしおりに言う。

「良い子だなぁ。おっちゃん、良かったなぁ」

「何がだ?」

「出来る娘さんだってことだよ。嫁さんに出したくないよな?」

神野は、ふん、と鼻息を出すと、物憂げに視線を下に向けた。しおりも睨むように神野を見ると、そそくさと食器を片付け始める。

一瞬だったが、その光景に違和感を覚えた。

「要さ、発言内容が親戚のおっさんだぞ」

「気持ちは、もう、そんな感じなんだよ」

「突然の父性…」

いくぞ、と自室に行こうとした時、隣接している民宿の玄関扉が開く。

「神野さん、いる?」

浜田だった。

「どうした?」

「今、将太の部屋、調べてきた」

ぐったりとしながら、浜田が食道に入ってくる。

しおりが素早く、麦茶を手渡す。

「ああ、ありがとう」

浜田は一気飲みすると、深く溜息を吐いた。ところどころ制服が濡れていた。

「どうだった。なんか見つかったか?」

「ちょっと見てもらった方がいいと思って。来てくれません?」

「行かなあかんか?」

神野は億劫そうに言った。

「見てもらった方がいいんじゃないかと思って」

「おっちゃん、行こうよ。その方が早いって」

珍しく居石が言った。

「君らも来るかい?」

「僕らが行ったら邪魔ではないですか?」

これ以上首を突っ込むことではないのかもしれない、と思って袈裟丸は言った。

「そんな広い部屋じゃ無いからまあ少ない方が良いけど、十人連れていくってわけじゃないから」

「耕平、つべこべ言うなって行くぞ」

「なんでやる気になってんだよ」

「一宿一飯の恩義って言葉知ってっか、耕平」

「そりゃ知っているよ」

「俺らはお世話になってんだから、何か恩返しすんだよ」

アルバイトで雇われていていることを、すっかり忘れているのだろうかと袈裟丸は思った。それは自分自身も忘れていたからだった。

そんなことを忘れてしまうくらい衝撃的なことが多かったということだろうか。

「分かったよ。俺も気になってはいたから、行こう」

話がまとまると、浜田は自分が乗ってきた車に三人を乗せて、将太の家へと向かった。

将太の家は、神野の民宿がある一帯の端、公民館から向かった方が近い距離にあった。

さらに強くなった風と雨が容赦なく車や家屋に当たり、最早、傘など意味が無くなっていた。

民宿を出る時に、袈裟丸だけ傘を持って行ったが、神野と居石は手ぶらだった。

将太の家は木造二階建ての一軒家である。

「こんなとこに一人で?」

袈裟丸はかき消されそうな声で言った。

「親の家を継いだそうだ」

浜田も大声で言うと、四人はさっさと家の中に入る。

家の中で特徴的なところはあるか、と言われれば、全くなかった。

つまり、一般的な一軒家だった。

「どれだ?」

神野は短く言うと、家の中に上がる。一人でここに住んでいたということは、今は住人不在の状態だということである。

浜田は玄関を上がってすぐの階段を上ると、廊下の先にある扉を開ける。

「ここが将太の部屋です。これを見てください」

浜田は部屋の中央に置かれたテーブルを指差す。

「うわ、金だ」

居石は声を上げた。

そのテーブルの上には札束が一つ、無造作に置かれていた。紙帯で巻かれていることから、百万円あるのだろうと思う。

「これは?」

神野の問いに答えずに、浜田は奥の茶箪笥の上にある用紙を神野に手渡した。

二人もそれを覗き込む。

そこには、ワープロで印刷された文字で、この手紙が届いた翌日に届く段ボールを中身の確認はせずに指定された時間までに月神橋の中央まで運ぶようにと記載されていた。さらに、この手紙は破棄するようにという記載もあった。

「じゃあ、これがその報酬か」

視線を札束に移す。

「そうだと思いますね」

「時刻指定までされていますね」

袈裟丸が該当箇所を指差す。

それは確かにあの爆発が起こった時間帯だった。

「ってことは、将太さんは誰かに頼まれて爆弾の入った段ボールを橋まで運んだってことか」

居石は神妙な顔で言った。

「だとすると…最初っから将太さんを殺そうとしていたってことだな」

続けて居石が言ったことに全員が黙った。

居石が言いたいことが理解できたからだった。

「将太はズボラなとこがあったからな。手紙が残っているとは、これを送った奴も思わなかっただろな」

神野は悲しい表情になる。

「彼は借金もありましたからね。こうして金が手に入るのならば、喜んでやったでしょうね」

浜田の声も小さくなっていた。

「これではっきりしたことは、橋の爆破は将太さんの企てではないってことですね」

「そうだな…これを指図した奴が他にいるってことか…」

「この手紙はどうやって届いたんでしょうか?」

袈裟丸は浜田に尋ねる。

「探して見たんだけれど、封筒とか、そう言った類のものは見つかっていない」

「直接、ポストに放り込んだってことだろ。誰にでもできる」

居石は投げやりに言った。

「公民館で話してた橋の下の爆発っていうのはどうっすか?」

浜田は三人に尋ねる。

「少なくとも、将太さんが爆発物を準備して持ち運んだわけではないってことがわかりましたから、彼が橋の下に爆発物を置いたわけではないと思いますね」

「こいつだろ。それも」

居石は手紙をパンと叩く。

証拠物件なのに叩いてしまったことに袈裟丸は一瞬背筋が凍った。

「そうだろうな。次はこいつが誰かってことか」

神野がぼさぼさの頭を掻き上げた後、手紙をパンと叩く。

どいつもこいつもなぜ証拠物件を蔑ろにするのだろうか、しかもタイプが同じ人間だということにさらに怒りがこみ上げる。

ちょっと、と言いながら神野から手紙を受け取って丁寧に畳んで浜田に返す。

「この島の…人間ですか?」

浜田は慎重に尋ねる。

「耕平、どう思う?」

全員の視線が自分に集中している。

「そう…ですね…」

少し考えをまとめる。

注目されていたが、気にしなかった。

「将太さんを爆弾運搬の大役に抜擢したということは、少なくとも彼のバックグラウンドを知っていないとできないと思います。借金の事とか、性格とか」

そこで一旦言葉を切る。

「確率的には、この島の人間の方がやりやすいと思います」

袈裟丸の言葉に、だろうな、という顔をした神野と、怒りの表情を浮かべた居石の顔が対照的に並んでいた。


月神町 月神総合ビル


「被害者の女性はこのキャバクラ、『クリスタル』で働く、木本あかり、二十三歳だ」

廊下にあるソファベンチに座っている古見澤に公家が説明する。

「はあ、そうですか」

「どうした?そんな惚けた顔をして」

「どうしたんですか?そんなやる気のある顔をして」

公家はむっとした表情をしたが、会話を続ける。

「これは殺人だ」

「そうみたいですね。でも…僕は一般人ですよ?忘れてませんか?」

公家は、気が付いた、と言う表情をした。ころころと表情が変わるので愉快だな、と古見澤は思った。

「すまん、私一人で事件に関わるということが実は初めてなんだ。ちょっと熱が入りすぎてしまったようだ」

「初の事件遭遇に立ちあえて、嬉しい限りです」

公家は先程まで杉田から話を聞いていた。

杉田は、このキャバクラ『クリスタル』の店長をしている人物だった。今はエレベータの脇で地面に座って項垂れている。

その並びにソファベンチがあり、古見澤が座っている状態である。

木本あかりの死体発見から三十分は経過しているが、応援の刑事も、客も来ていない。

「早く応援の刑事さんたち来ないですかね」

少なくとも応援の刑事たちが来れば、夕食の時と同様に、一旦この場は任せて、古見澤を送ってもらい、その後、公家だけ合流すれば良いのである。

「やはり台風だろうな…」

公家は廊下の先の窓を見て言った。

クリスタルではない方の二件の店がある廊下の先である。

「他の二件の店にも…話を聞いた方が良いのではないですか?」

公家が近くにいるのが少し煩わしくなっていた。

事件に半分巻き込まれているということを島の二人に連絡したかったのである。

「そうしたいところなんだが、二軒とも店が開いていない」

「開店時間がまだっていうことですか?」

「いや、一件は臨時休業でもう一軒は改装工事で人がいない」

「杉田さんのお店、繁盛しますね」

そんなラッキーデイの日に、こんな事態に巻き込まれた杉田は、心底運がないのだなと思った。

「あいつもついていないな」

公家も同じことを考えていたようだった。

「まあ、僕も同じようなものですが…。そういえば、お知り合いなんですか?常連?」

「私はこういった店にはプライベートでは来ない」

「じゃあ、仕事で」

「それは当たり前だろう」

当たり前ではないとは思ったが、そうですか、とだけ言った。

「一度、杉田は風営法で指導を受けている。その時に担当したのが私なんだ」

「そうだったんですか…嫌な再会ですね」

そうだな、とだけ言うと、公家は店の中を見ている。まだ木下あかりは横たわったままだった。

「杉田の証言では、開店準備のために店に来て、鍵を開けたら彼女が飛び出してきたということだが…」

「ゾンビみたいですね。飛び出してきたって…」

「まあ、それだったらホラーになるんだろうけれど、残念ながら現実的な話だ。恐らくだが、木下は店のドアにもたれかかっていたんだろうと思う」

公家は真面目に古見澤に応対する。

「ドアにもたれかかって…」

古見澤は確認するように繰り返す。

「店の外に飛び出しているのは、木下の上半身だけだ」

公家は腰のあたりを手で切断するように横に動かす。

「だとすると、店のドアを開けた杉田が、木下が飛び出してきたという証言が正しければ、店のドアに寄りかかる状態で死んでいたってことになる」

「公家さん、凄いですね。コミットで僕を犯人にしようとした人とは思えないですよ」

古見澤は思い切り笑顔で公家に言った。

「いや、それは…本当に申し訳ない」

「いえ、いいんですよ。気にしてください」

公家は一瞬、ん、と声を発した。

「公家さん、お店の鍵は掛かっていたんですよね?」

古見澤は再び確認する。公家はまだ古見澤の発言の何がおかしかったか思い出そうとしていたが、言われたことに反応する。

「ああ、そうだ」

「それって、小説とかで見る密室ってやつじゃないですか?」

「…そうなるのか?」

「え?ドア、鍵がかかっていて、そのドアに死んだ木下さんがもたれかかっていたんですよね?」

「座った状態でな」

「誰が木下さんをドアにもたれかけさせたんですか?」

公家は考えると、そうだな、と言った。

「確かにそうだ。ん、ちょっと待ってくれ、わからなくなってきた」

「そうですか?シンプルじゃないですか?」

そうなのか、と公家はまだ言っていた。

「いや…ちょっと待ってください…。この店の鍵は誰が持っていたんですか?」

「杉田が店を開けたって言っているから、杉田は持っていたんだろうな」

「その他の人は?」

「まだ聞いてないな」

公家は杉田の方を見て聞きに行こうとしていた。

「それはまあ、後でも良いですけれど、この店の鍵は誰が持っていたかっていうのは重要ですね」

「早速助言を貰ってしまっているな」

申し訳なさそうな顔をする公家を古見澤は無視した。

「杉田さんは、大丈夫ですかね?

「まあ、ショックはデカいだろうな」

それくらいは古見澤にも判断できることだった。

「木下さんの…死因は何だったんでしょうか?」

「ちゃんと調べなければ、はっきりとしたことは言えないが、首に絞められた痕跡があった。紐か何かで絞めたんだろうと思う」

「あ、そうだったんですか…。ちょっとストールで良く見えなかったな…」

「ストールが凶器かもしれないな。あれくらい長ければ可能だろう」

古見澤は頷きながら聞いていたが、頭では別の事を考えていた。

公家は短く唸ると勢いよく立ち上がった。

「よし、店に入ろう」

「その言い方だと、僕も連れていかれるんですか?」

公家は何も言わなかった。

スマートフォンを取り出すと、公家は木下の死体の写真を撮り始めた。数分かけて写真を撮った後。古見澤の方を振り向く。

「よし、いいぞ」

いや良くはない、と言いそうになったが、早く帰るためだと自分に言い聞かせて公家に従う。

木下の死体を跨ぐ様にして店の中に入る。

電気は消えていたので、スマートフォンのライトを点けて入る。

「勝手に入って良いんですか?今さらですけれど」

「入り口付近だけだ。何か痕跡が残っているかもしれない」

公家は木下の遺体とドアの傍にしゃがんで何かを探している。

最初は古見澤もライトを当てていたが、公家の持っているスマートフォンだけで十分だろうと考えて、当てるのをやめた。その代わりに、店の中を観察することにした。

店を進んで、壁にライトを当ててみると、鮮やかな赤色だった。

入口から見てすぐ右手にL字のバーカウンタ、さらに左手にボックス席が左の壁から奥の壁に沿っていくつか置かれている。

古見澤はキャバクラに行ったことはないが、珍しい作りなのではないか、と思った。

その時、コン、と音がしたように思えた。

古見澤は体の動きを止めて耳を澄ませる。

次は、ドン、だった。

「公家さん」

振り向くと公家も立ち上がって店の奥の方に視線を向けていた。

二回目の、ドン、の音で発生源を特定した公家は足元を照らしながら移動する。バーカウンタとボックス席に沿ってL字に奥に進む。

さらに奥にはドアが一枚あり、その左手にスタッフオンリーと書かれた扉があった。

奥のドアには洗面所の記載がある。

三回目の、ドン、で場所が特定できた。

「トイレか」

公家は正面にある扉に近づいてハンカチを手に、ドアノブを握る。

「鍵がかかっている。中からだな」

そう言うと、ドアを叩く。

「誰かいますか?」

ドン、の音がした。つまり、中にはいるが、鍵を開けられない状態だということである。

「何か鍵をこじ開けられる道具を…」

「いや…大丈夫じゃないですかね」

ドアノブの部分にライトを当てていた古見澤が言った。

「一円玉持ってます?」

公家は不安げな表情をしたが、ポケットから硬貨を取り出して慎重に古見澤に渡した。

「大体こういう中から施錠できるタイプのドア、トイレとかが多いという印象がありますけれど、そういったドアではドアノブとかに、溝があって、マイナスドライバとかこういったコインとかで開けられるようになってるんですよ」

「よく…そんなこと知っていたな」

「警察の人とか、知ってませんか?」

音がして開錠を知らせる。

古見澤は立ち上がって、一歩後退する。後はプロに任せるという意味だった。

公家が再びハンカチを手に、ドアノブを回して開く。

入ってすぐ正面から光が当てられた、と思ったが、それは大きな鏡だった。

その右手に便器が設置されいるのが、一瞬見えた。

音の発信源はその下、扉を開けてすぐのところだった。

左手で握り拳を作った男性が地面に俯せになる様に倒れていた。

「おい、大丈夫か」

公家がしゃがみ込んで介抱する。

男はうめき声をあげる。見るからに苦しそうな表情だった。

男はグレイのシャツにチノパンという格好で、髪は僅かに濡れているようだった。

公家が古見澤の方を見るより前に、スマートフォンで百十九番へと連絡を取った。

古見澤が場所の説明をする間も公家は男に声をかけ続けていた。

「橋の近くで待機していたようで、すぐ来れるそうです」

要点だけを伝える。

公家は何も言わずに男に声をかけていた。

「照明点けますよ?」

公家の答えを聞かずに古見澤は照明のスイッチを探した。スタッフの部屋の近くか、入り口付近だろうと考えて探したところ、スタッフの控室の近くで発見した。

煌びやかな照明が点くと、倒れている男の頭から血が流れているのが分かった。

続いて古見澤はバーカウンタの方に飛び込んでいく。

ウェイタ側のカウンタ下に製氷機を見つける。さらに、ジッパ付きの袋を見つけて氷と水を入れ、即席の氷嚢を作る。

「公家さん、これ」

公家は受け取ると、男の頭に当てる。

さらに男の顔を見れば、腫れているのか顔の半分が膨れていた。氷嚢は役に立つだろう。

それでも男の容体は良好とは言えない。

胸で息をしているところを見ると、かなり悪そうである。

見えないところを負傷しているかもしれないと古見澤は考えた。

「大丈夫でしょうか」

「わからん。だが、瀕死の状態で居場所を伝えたのだから、まだ大丈夫だろう」

そこで力を使い果たしている可能性もあるが、黙っていた。

古見澤もそれくらいの領分はあった。

公家は焦っているようだった。

男がうめき声をあげる。

入口から杉田が入ってきた。先程よりは落ち着いている。

恐る恐る公家と古見澤に近づく。

「そいつ…」

杉田の発言に公家が反応する。

「知っているのか?」

「あかりの…彼女の元客で、宇喜多勇太っていう奴です。今はあかりのヒモなんです」

つまり、あかりの彼氏のようなものか、と古見澤は思った。

「お客と付き合えるんですね」

場違いな発言だったようで、公家も杉田も何も言わなかった。

「なぜその人がこんなところにいるんでしょうね」

これにも無言という反応だったが、それは答えることが出来なかったからである。

公家が思い出したように杉田に尋ねる。

「杉田、この店の鍵はお前以外で誰が所有しているんだ?」

「えっと、俺と、あとあかりだけです」

公家が杉田以外で、と言ったのに自分も含めてしまったことに、杉田の動揺が現れていると古見澤は思った。

「それだけなのか?店で働く他の女性は?」

「働いているのは、あかりだけです」

「この広さでか?ここキャバクラ店だよな?」

「実は最近、立て続けに辞めていって…。あかりとも相談して、人を補充するまでこの店も閉めようかと話していたんです」

そうなるとこのフロアの店は一定期間全滅と言うわけである。何とも世知辛い話である。

外からサイレンの音が聞こえてきた。流石に早かった。

公家が指示して、宇喜多の身体を三人で店の外まで運んだ。

救急隊員が店に入ってくることで、殺人事件の現場を荒らさないようにするためである。

廊下に寝かせる途中で、宇喜多の意識が戻ってきた。

「おい、大丈夫か。話せるか?」

声をかける公家に、反応するかのようにゆっくりと目を開く。

「う…うわぁ…。なんだよ…やめろ!」

男が叫び、のたうち回っているところにエレベータの扉が開いて、救急隊員が入ってくる。

「大丈夫ですか。落ち着いて下さい」

宇喜多を見るなり、迅速に動けるのはプロだなと古見澤は感心していた。

公家は一人の救急隊員に状況を説明した。

木下の死体の事も含めて説明をする。

宇喜多の話は彼が落ち着いた頃に聞きに行くということを伝えて、救急隊員たちは現場を後にした。その間も宇喜多は何かしら叫んでいた。

その光景を古見澤はじっと見つめていた。

まるで嵐が過ぎ去ったように感じるが、現実の嵐は依然として吹き荒れている。

「そういえば、お前は大丈夫か。一緒に連れていってもらうか?」

「大丈夫です。宇喜多を運んだ時にちょっとぶつけただけですから」

杉田は手首を握っていた。

「さて…問題が解決したわけではないな…」

「あの…杉田さん」

古見澤は杉田に話しかける。杉田は不審な人物を見る目で古見澤を睨む。

この状況では古見澤の方が不審な人物なのは間違いない。

同じような目で杉田は公家を見る。

「彼の質問にも答えてやってくれ」

「というか、確認させてください」

杉田の返答を待たずに古見澤はたたみかける。

考える余地を与えると、面倒くさいことになると考えたからだった。

「辞めていった他の女性たちは店の鍵を持っていましたか?」

「ああ…持っていた」

ぶっきらぼうな言い方で心底腹が立った。

しかし、早く安田の家に向かいたいので、その怒りを抑える。

「そうですか。じゃあ、辞めていった時に、鍵は返却されましたか?」

「そりゃ当たり前だろう?持っていたって意味がねぇよ」

「はあ…そうですか。では、その鍵は今どこに?」

「店の金庫で保管している」

「その金庫を開けられるのは?」

短く溜息を吐いた杉田は、舌打ちを付け加えて答える。

「俺だけだよ」

「ちょっとその金庫見せてもらえるか?」

公家が会話に入ってくる。杉田は、はい、と言って店の奥へと向かう。

二人の後ろから古見澤もついて行く。

宇喜多が発見されたトイレの左手の壁にあるスタッフ控室に向かう。

そこは暗証番号式の鍵が付けられていた。

「客が座る席の後ろにあったら、この暗証番号も分かってしまうな」

「開店中は、この扉は開きっぱなしなんですよ。そこにカーテンを取り付けて中が見えないようにしてんです」

公家の指摘に杉田は笑顔で答える。

つまり、開店中は暗証番号を押す瞬間を見ることはできないということである。

杉田は暗証番号を押して中に入る。

公家がハンカチを巻いた手で照明をつけた。

店内が夢の空間なのだとしたら、この部屋に入ると一気に現実に引き戻される。事務机やPC、電話が並び、他にも雑多な書類や棚などが並んでいる。

杉田の説明では、この先に店の女の子たちの着替え部屋があるのだそうだ。

「金庫はこれです」

奥の壁の下に重厚な金庫が置いてあった。

「水分厳重な金庫だな。手持ちの簡単なものだと思っていた」

公家が杉田の隣でしゃがみ、金庫を観察している。

「元からここに置いてあったものなんです。ここは居抜き物件で…なんかの事務所だったところをキャバクラに改装したんです」

公家は頷きながら聞いている。

「わかった。じゃあ、開けて鍵を確認してくれ」

杉田は頷いて金庫を開ける。ダイヤル式のもので、律儀にダイヤルを右に左に回転させた。

最後にレバーを降ろして金庫の扉を開ける。

中にあったのは書類がメインだったが、一角には札束も置かれていた。

杉田は最下段の引き出しを開けて中身を確認する。

この引き出しには鍵が取り付けていなかった。

中には書類があり、その上に鍵束が三つほど無造作に置かれている。

「ほら。ありますよ」

「待て。束になっているだろ」

数を確認しろ、ということだった。

辞めていった女性の人数と鍵の本数が一致するかどうか、それを確認しろ、と公家は言っていた。

杉田は鍵束の一つを取り出して近くの机の上に置いた。

「ん?あ…足りない」

「本当か?」

「五人辞めていったから…五本鍵があるのに…四本しかない」

「受け取るのを忘れた、っていうことはないですか?」

古見澤の発言には、相変わらず杉田は答えない。

「鍵に女性の名前が書いてあるな」

公家が言うので見てみると、鍵の持ち手の部分に女性の名前が書いてあった。

「店の備品なんですけど…誰に渡した鍵かわかる様にこっちで記入しておいたんですよ」

鍵の持ち手に白いテープが貼られていてそこに文字が書かれていた。

「ここから鍵を持ち出した人間が木下を殺害して店を施錠した…ってことか」

公家は自分でも納得していないようだった。

「あの…木下さんが鍵を持っているかどうか、確認してみませんか?」

古見澤が提案すると、公家も頷いて木下の元へと向かう。杉田はそれにピタリとくっついて移動した。

古見澤が店の方に戻った時には、木下の死体の側で、杉田と公家は鍵を探していた。

「公家さん」

杉田が木下の右手を指し示す。

握り込まれた手を慎重に公家が開く。

見つかったものは鍵だった。

「紫苑って書いてあるが…これは?」

「ああ、あかりの源氏名です」

「つまり…木下あかりは自分の鍵でこの店に入った、っていうことになるな」

二人を見下ろすように立っていた古見澤は腕時計を確認する。

もう夜の九時になろうかとしていた。

「公家さん、そろそろ帰りたいんで、話して良いですか?」

顔を見合わせた公家と杉田は同時に古見澤を見た。

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