いか飯、落ちた。

加賀宮カヲ

いか飯、落ちた。

 公立旭ヶ丘中学校二年一組。四時間目の体育が終わって、今日は週に一度の給食日だった。冷温蔵配膳車が各クラスの入り口まで運ばれてくる。着替えを済ませ、お腹を空かせた生徒達が続々と着席していった。エプロンをした当番も、自分達が早く食べたいので黙々と配膳作業を行っていた。


 今年で50歳になる担任の井ノ原いのはらは、黒板横の教員席へ着席をした。

 給食日のみ、生徒と一緒に食事をする。改まった様子で号令をかけた。


「それでは、みなさん。いただきます。」


「いただきまーす!」


 生徒たちの元気な声が、廊下へ漏れてくる。それは数分もしないウチに、困惑のざわめきへと変化していった。


「――……なにこれ?」

「え?」

「ちょっと……えっ」


 学級委員の本多ほんだ少年は、最前列の席に着席しながら、他生徒の声に耳を傾けていた。

 皿の上には、イカ……を煮たような物体のみ。汁物やデザートもなく、後はよく冷えた牛乳がぽつんと置かれているだけだった。


「イカだよね?」

「――……どうやって食べるの?」


「せっせんせい!」


 本多ほんだは挙手をして立ち上がると、担任の井ノ原いのはらに質問をした。


「これは……なんですか?」


 井ノ原いのはらは、剃り残した髭を引っ張りながら、なんだそんな事も知らないのか。という目で答えた。

 

「これは、いか飯だ。」


「……いか飯……どうやって食べたら良いんですか?」


 いか飯には、切れ目が全く入っていなかった。パンパンに太ったそのままの形で、皿の上に鎮座している。他の生徒も狼狽した様子で、指で摘んだりしている。井ノ原いのはらは少々驚いた様子で、生徒たちを見渡した。


「どうするも何も、フォークとナイフがついているじゃないか。」


「先生、フォークとナイフ。紙だから切れない……」


 窓際付近で先程からいか飯と格闘していた、やや肥満体型の男子生徒が困った様子で訴える。そう、配膳されたカラトリーは先月からプラスチック製が全廃になり、全て紙製品に置き換えられたばかりだった。


 既に着席していた本多ほんだも、いか飯と格闘している真っ最中だった。フォークで押さえようとすれば、硬くて先端がヘニャッとなってしまうし、ナイフも殆ど同じだった。諦めて牛乳に口をつける生徒が続出する中、ヌルヌルと動き回るいか飯との格闘を諦めない、学級委員本多ほんだ


 そのいか飯が、ツルンと滑って皿から跳ねた。


本多ほんだ君のいか飯が飛んだ!」

 

「委員長のいか飯が落ちた!」


「いか飯が、落ちた!」


 本多ほんだのいか飯は、空中で三回転するとスポッっとうまい具合に、机の中に入って行ってしまった。


「ああ、なんてことだ!教科書がタレだらけだよ……うわあ、イカくせえ!」


 紙製のナイフとフォークを放り出した本多ほんだは、机の中を弄り始めた。手にヌルっとした物がぶつかるものの、上手く取り出せない。目が悪くて眼鏡の彼は、中の様子がよく見えず、当てずっぽうに手を動かした。


「キャア!本多ほんだ君のいか飯!」


 女子の悲鳴が聞こえてくる。はたして、いか飯は机の中から滑り落ちて、教室後方座席までくるくると移動している最中だった。


「ごめんね!僕のせいだ。」


 慌てた本多ほんだが立ち上がった瞬間、そのタレに足を滑らせてしまった。他生徒の机へ倒れ込むようにして転倒してしまう。


「俺のいか飯も落ちたじゃねえか!」

「やだ!私のも!」


教室はパニックに陥り始めていた。本多ほんだのいか飯は、未だ止まることを知らず動き回っている。


「うるせえなあ、何の騒ぎだよ。教室の外まで聞こえてんぞ。」


 着替えに間に合わなかった、不良風の集団が入ってくる。体育用具の片付けをしていた、杉村すぎむら少年達だっだ。杉村すぎむらは発育が良く、整った顔立ちをしていた。スポーツが得意で、当然のように学年中の女子生徒から人気があった。


本多ほんだ君のいか飯が!」


 自分のいか飯でタレまみれになった女子が、大声をあげる。


本多ほんだのいか飯?」

 

「うわあああ、杉村すぎむら君、足元!僕のいか飯!」


 そう叫びながら、杉村すぎむらの足元目がけて、滑ってスライディングしてくる。ニュルンと滑って跳ねたいか飯は、咄嗟に避けた杉村すぎむらのズボンの中に入ってしまった。


本多ほんだ、何やってんだよ!うわ、イカくせえ!」


 杉村すぎむらがズボンの中に顔を突っ込んで、苦虫を噛み潰したような顔をしている。


「ごめん、今取るから!」


 一刻も早く、事態を収拾させなければ。

 それしか頭になかった本多ほんだは、杉村すぎむらのパンツの中に顔を突っ込んだ。


「うわあ、くさいよ!杉村すぎむら君。パンツの中、めちゃくちゃイカくさい!」


「てめえ、本多ほんだ!早く取れよ!」


「でも、パンツの中が暗くてよく見えないんだ。どっちがいか飯か分からないよ!杉村すぎむら君!」


 本多ほんだは顔面に衝撃を感じて、自分が殴り飛ばされた事を理解するのに一分かかった。


杉村すぎむら君のって、いか飯くらいなんだ……」

「……でけえな、杉村すぎむら。」 

杉村すぎむらがイカくさいって話じゃないの?」

「え?どっち?」

 

「どうしよう、もう杉村すぎむら君がいか飯にしか見えない!」


 女子生徒が、殆ど悲鳴のような声を上げた。杉村すぎむらの表情が、恥辱であっという間に紅潮してゆく。こめかみには血管が浮き出ていた。

 

「これは本多ほんだのいか飯だろ!」


 怒鳴り声を上げながら、パンツの中からいか飯を取り出した杉村すぎむらは、それを地面に思い切り叩きつけた。

 

 いか飯が、跳ねる。


 担任の井ノ原いのはらはとっくの前に諦めて、手づかみで食べ終えてしまった所だった。クラスの騒ぎを、他人事のように眺めながら牛乳を飲んでいる。まあ、もうじきクラス替えだし。俺は担任から外れるし。


 突然、ガラガラという音と共にドアが空いて、校長が入ってきた。


「通りかかってみれば、一体何の騒ぎなんだ……おや?」


 禿げ上がった頭皮に、ぺたりと吸い付くような感触を覚えた校長が、頭頂部に手をやる。


「校長の頭の上に、杉村すぎむら君が乗ってる!」

「校長先生の頭が、杉村すぎむら君でちょんまげみたいになってる!」

 

「ふざけんな、俺じゃねえ!本多ほんだのいか飯だ!」


 杉村すぎむらは腹立ちまぎれに、その場で思い切り地団駄を踏んだ。殴り飛ばされて眼鏡が何処かへ行ってしまった本多ほんだは、ツルツルと滑る足元で立ち上がった。足取りはまるで、生まれたての子鹿のようだ。


「校長先生、それは僕のいか飯です。こんな事になって、本当にすみません。」


 深々と頭を下げた本多ほんだに向かって、校長はニコニコと笑いながら諭した。手には、本多ほんだのいか飯が持たれている。


「食べ物を大事にしないのは、いただけないね。」


「はい。今後、気をつけます。」


「なら、よろしい。」


 そう言うと、校長は本多ほんだのいか飯を食べてしまった。唖然とする生徒たちを前に、長いこと口をモグモグとさせていた校長は、更に長い時間をかけて飲み込んでから口を開いた。


「これは……ひっておかないと、ふぁみひれないひゃないひゃ。」


 校長の上顎から歯が消えていた。下の入れ歯だけが残って、カタカタと動いている。

 

「……校長先生、入れ歯だったんだ。」

「校長先生が、いか飯と一緒に入れ歯飲み込んじゃった!」 


「校長、入れ歯!」


 担任の井ノ原いのはらは顔面蒼白になって立ち上がると、保健師を呼びに走っていってしまった。


「ああ……僕のいか飯……」


 本多ほんだは心底残念な面持ちで呟くと、床に落ちていた眼鏡を拾ってかけた。


「うわあ、眼鏡までイカくせえ。」


 公立旭ヶ丘中学校は、この件を教訓とし『いか飯は、一口大に切ったものを箸で食す事』と言う校則が生まれた。

 

 杉村すぎむらは卒業するまで『いか飯の男』と呼ばれ続けた。

 

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