エピローグ

 万感の想いを込めて最後の一音を鳴らす。切なく美しい響きがホールに霧散していく。一瞬の静寂の後、万雷の拍手が鳴り響いた。


 あの日、私の遠い故郷のナポレアーノで聞いた二人の音楽は私を救ってくれた。私も、彼らのように音楽で人を救いたいと必死に生きてきたつもりだ。


 まだこの世の中には絶望や寂しさの中で生きている人がたくさんいるのだろう。それらすべてを救うことはできない。けれども、せめて私の手が、音楽が届く範囲は……そう思って今日までこのヴァイオリンとともに生きてきた。もっと人生という旅を続けたい、たくさんの人を音楽で抱きしめてあげたいと思うが、もう長くはないだろう。


 しかし、死ぬことは悪いことばかりではない。ようやく胸を張って母に会いにいける。そして、少し恥ずかしいが抱きしめてもらうのだ。あの二人がそうしてくれたように。


「私は二人のような演奏家になれましたか?」


 ステージ上で小さく呟いたマリオの言葉は大歓声にかき消され、誰にも届くことはなかった。


 希代のヴァイオリンニスト、今世紀最大の巨匠とまで言われたマリオ=ヴァヴィロフの訃報は世界中の彼のファンを悲しませた。その反響はすさまじく、当時、演奏家としては異例中の異例、彼の国葬が行われたほどだという。


 今日では、彼の代表作でもあるAve Mariaは世界三大Ave Mariaの一角として、世界中で愛されている。しかし、彼は、この曲は幼いころに出会った旅の演奏家の作曲であると生涯にわたって主張し続けていた。しかし、その旅の演奏家の記録がほとんど残っていないこと、彼の死後この曲のオリジナルの楽譜が彼の生家の金庫から発見され、その筆跡もヴァヴィロフのものと一致していたことから、この曲は彼自身が作曲したものとするのが通説である。


 そして彼の終生愛用したヴァイオリン、「イル・カノーネ」は彼の遺言により、元の所有者であるアポロ=アレグリアという名の演奏家以外には、譲渡、貸与、演奏をさせないこととされた。現在、「イル・カノーネ」は彼の故郷のナポレアーノではなく、カップリーニ島の小さな博物館に寄贈され、主人の帰りを待っている。

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