最終楽章 マリオのAve Maria
激動の数時間を過ごした俺たち三人は、発狂しものも言えない状態となってしまったアランをその場に残し、約1800万リルラという途方もない大金を携えて、あの悪の巣窟を後にした。もちろん、マリオも一緒だ。彼は、何が起こったのか全く分からないという様子でただ茫然とダリアに手を引かれていた。
あてもなく俺たちはこの街を駆け回った。
今日で人生が大きく変わった。ダリアは大金を手に入れ、俺はダリアの出生の秘密を知り、そしてマリオは彼の人生に暗い影を落としていた借金から解放されたのだ。
すべて幸福な出来事だと思う。そう思うのに、心には軽い痛みとしこりがあった。
駆け抜けるナポレアーノの街は夕日に照らされ、薔薇のように輝いている。道行く人々、店先で番をする人、楽しく肩を抱く人々、喧嘩をする夫婦……この街で生きている人がやけに目につく。この気持ちはいったい何なのだろう。この言いようのない寂寥感は。
気が付くと俺たちは、ガルリアの蒸留所の裏の小さな葡萄畑まで来ていた。ここは俺とマリオの秘密の練習場だった。山裾を少し登ったところにあるこの畑からは、ナポレアーノの港がよく見渡せた。
潮騒が聞こえる。
海鳥の鳴く声が聞こえる。
眼下に広がる美しい海には夕日が燃えている。
俺たちは三人で手をつないだまま、ただ黙っていた。
俺はついさっきまでダリアに聞きたいことがいろいろあった。例えば、ダリアの出生について。それから、あのギャンブルの結末について。でも、もうそんなことどうでもいい気がした。俺たちは今こうして生きて、この美しい夕景を心に刻んでいるのだから。
小さなマリオの声が沈黙を破る。
「どうして……」
「どうして、勝てたかって? ちょっと魔法を使っただけだよ。向こうだってイカサマしていたのだからおあいこだね」
手下の一人の瞳に宿った復讐の光の意味はそういうことか。あのカジノに入ってダリアが演奏していたのは、彼らの記憶を操作するためだったのだ。大方、手下たちに疑似記憶を埋め込み、ダリアに協力させたのだ。あの演奏を聴いた時点でアランの負けはとうに決まっていたわけだ。こうやって実際に使って見せられると、ダリアの魔法がいかに強力で、そして利用価値があるかがよく理解できた。
しかし、ダリアの魔法が何なのか知らないマリオは不思議そうな顔をしていた。
「そっか。でも、よくわかんないや。ううん。たぶん聞きたいのはそれじゃないんだ。でも何を聞きたいのもわかんないんだ。きっといいことなんだよね? それなのに、なんだかここがきゅっとするんだ」
マリオは自分のシャツの胸元を両手で軽く握る。
「そっか……ねえ、マリオ。君は今、寂しいんじゃない?」
マリオは顔を上げてダリアを見つめる。しばらくそうしていたが、うつむくと「うん」と小さく頷いた。俯く彼の顔は見ることはできなかったが、地面にはぽたぽたと涙が落ちていた。
「……うん。寂しいよ。あんな怖いところから逃げ出すことができたっていうのに。なんでかな? ガルリアさんを困らせていたお父さんの借金もなくなったのに」
やはりマリオもうすうす感付いていたのだ。彼が背負うにはあまりに重い枷に。気づいていながらもどうすることも出来なかったのだろう。彼が誰よりも早く仕事場に来て掃除をしていたのも、本当は友達と遊びたいはずなのにそれをおくびにも出さずに誰よりも真面目に仕事をしていたのも、すべてはこの枷のせいだった。
「借金がなくなったからって、ガルリアさんや、私たちや、そして君のお母さまとの絆が失われるわけじゃないんだ」
ダリアはそんな意外なことを言いだす。
それを聞いたマリオははっと顔を上げると、ダリアを見つめる。その瞳には祈りの色が見えた。
「マリオの人生は今日で大きく変わってしまった。君を縛っていた借金はもうない。それはつまり、君は――君のお母さまも自由ということだ。マリオは今までお母さまのように真面目に働くことしかしてこなかった。それがこの世界のすべてだったのだろう? でも、今君は自由になった。いや、自由になってしまった。この広い世界に放り出されて、どうしようもなく寂しくなってしまったんだろう?」
ダリアの言葉に心臓を鷲掴みされる。自由なことは寂しいこと。魔法の力に怯え、自分の運命から逃げるように旅を始めたダリアだからこそ言える言葉だった。
マリオは目から大粒の涙をこぼし、声を詰まらせながら心を言葉に変える。
「なんだか、ママがいなくなっちゃったみたいで寂しいんだ」
マリオのお母さんはすでに亡くなっているはずだ。枷がなくなったから、自由になってしまったから今そう感じるのだ。
「そう……。今までいろんなことを我慢して頑張ってこられたのは、お母さまのおかげなんだね」
マリオは泣きながら頷く。
もう頑張る必要がないのだ。それはつまり、彼にとって母を失うようなものなのかもしれない。
「寂しいよ……ママ……」
絞り出すようなマリオの声に心が激しくかき乱される。
ダリアはマリオをしっかりと抱きしめる。その腕の中でマリオは静かに泣き続けていた。
俺はここでも無力なのか。ダリアに出会って俺は救われた。同じように、自由な人生は捨てたものではないと教えてあげたい。
いや、今の彼に必要なのは未来への希望ではなく、きっと母の愛だ。間違いなくマリオのお母さんは今でも彼のことを愛している。それを何とか伝えてあげたい。俺にできるのは、演奏家の俺にできるのは――彼に魔法をかけてあげることだけだ。
「なあ、ダリア」
ダリアはその美しい双眸で俺を見つめる。目と目が合う。たったそれだけですべて伝わる。
彼女は小さく頷いた。
俺は奴らから取り返したヴァイオリンのケースを開ける。その音に気が付いたのか、マリオがこちらを振り返る。その濡れた瞳にはナポレアーノの夕日が映っていた。
「俺にはこれしかできない。でも、マリオに伝えたいことがあるんだ。ダリア頼む」
「もちろん。私の
ダリアがケースからバンドネオンを取り出す。正面に飾られた螺鈿細工のダリアの花が、夕日に照らされ薔薇のように輝いている。
「ホテルで演奏したあの曲を、マリオに贈りたい」
ダリアは小さく頷くと、ゆっくりとバンドネオンの蛇腹を引き伸ばす。
この世のすべての哀悼を凝縮したような優しくそして悲しい響き。
美しくも悲しいメロディは大切な誰かへの想いで溢れている。
俺はそっとヴァイオリンの弓を引く。弦が震え、ヴァイオリンが震える。その音は涙で震えていた。
どうか、マリオのお母さん、マリアさんの死後の旅路が安らかでありますように。そして、残されたマリオのこれからの人生が愛にあふれ、希望で満ちますように。
ありったけの祈りを込めて演奏する。
すると、ダリアと俺の音が交わる空間に一つの光の玉がぽっと現れる。そのオレンジ色の光は暖かで、優しく、愛に溢れていた。
「ママ……?」
そのオレンジ色に輝く美しい光の玉は、何かを伝えるかのように左右に揺れる。
「うん。うん……」
マリオが何度も頷く。
音楽が鳴り響くなか、その光の玉はずっとマリオのそばを漂い続けた。
最後の一音が天上に昇っていく。
光の玉は一瞬ためらうかのようにふわりと揺れるが、音とともにふわりと宙に舞い上がると、螺旋を描いて天上に昇っていき、ふっと消えた。
後には優しい海風だけが残った。
「ありがとう」
マリオが涙を袖でぬぐう。
「音楽ってすごいんだね。本当にママに会えたよ。いっぱい、いっぱい話せたんだ。それにお別れも」
ダリアの記憶の魔法で彼の中のマリアさんの記憶が呼び起こされたのか、それとも本当に奇跡が起きたのかそれは分からない。でも、それでもよかった。彼が救われるのなら。
「ねえ、アポロ。僕も二人みたいな演奏家になれるかな」
「ああ。なれるさ」
「そっか。そしたらさ、この曲をいつか演奏してもいい?」
「もちろん。この曲は君にあげるよ」
「本当?」
「ああ。本当だ。それから……」
俺は手に持ったヴァイオリンと弓をマリオに手渡し、膝をついて一礼する。
「このヴァイオリンも。未来の
マリオは目を丸くする。
「もらえないよ! だってこれはアポロの大切な楽器でしょ」
「ああ。小さいころからずっと一緒だった。この音がいつでも俺を支えてくれた」
「だったら……」
俺は首を左右に振る。
「マリオにこそこの音が必要だ。俺には、ダリアがいる」
ダリアは俺の肩にそっと手のひらを乗せる。
「今日で君の人生は大きく変わってしまった。どうしようもないほど。だけど、マリオには、マリオの音楽には人生を切り開くだけの力がある。このヴァイオリンはそのために必要なものだ。だから、君に贈りたい」
マリオはしばらく悩んでいたようだったが、納得したのか「ありがとう」とヴァイオリンを抱きしめた。
「僕、一生大切にするよ。そして、たとえ僕が死んでもこのヴァイオリンは誰にも弾かせないよ」
俺はマリオの頭をおもいっきり撫でる。マリオは「やめてよ! もう!」と身をよじると笑顔を見せてくれた。
「そうだ! 名前は? なんていうの?」
「ん? 何が?」
「曲のだよ! それに、このヴァイオリンも!」
「ああ、そのヴァイオリンはじーちゃんのおさがりなんだけど、じーちゃんは『イル・カノーネ』って呼んでいたな」
「イル・カノーネ……。分かった。それで、さっきの曲は? なんて言うの?」
「あの曲は……」
タイトルなんて考えてなかった。
ただ、彼と彼のお母さんに向けた祈りの曲。
この大地のように優しく、強く抱きしめてあげてほしい。そんな祈りを込めた曲。
「そうだな、その曲の名は――」
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