第三十楽章

 アランの導かれるまま杏葉の間へと入る。やはり、甘く苦い嫌な匂いがした。


「ようこそ。ここは特別なお客様を招待する部屋なのです。気に入っていただけましたか?」

「ええ。とても。これは杏の葉の彫刻ですね」


 ダリアはテーブルの椅子の背もたれの彫刻を指でなぞりながら言う。


「アルビコッカ家の紋章と同じですね」

「よくご存じですね。この街の人間はみな、辺境伯を尊敬していますから。杏がモチーフの装飾はこの街ではよく見られるのですよ」

「そう。それで? あなたのおすすめのリモンチェッロというのはまだなのかしら?」

「ああ、これは失礼いたしました。おい」


 アランは近くの手下に声をかける。声をかけられた男は奥の部屋へと下がっていた。


「冷えたリモンチェッロは苦手なんでしたね?」

「ええ。まったくもって」


 ダリアは手を振り、にこやかに笑う。慇懃無礼を絵にかいたような態度である。


 手下が消えていった奥の扉が小さな音を立てて開く。その扉の向こうに立っていたのは子供用の給仕服を着せられたマリオだった。マリオは両手に銀盆を持ち、深々と一礼をする。銀盆の上にはグラスが二つと見覚えのある酒瓶が乗っている。


「マリオ!」


 たまらず声をかける。マリオははっと顔を上げると、俺の顔を見るなり唇を歪め、目に涙をいっぱいにためる。そして、ダリアの存在に気が付いた彼は目を見開きぶるぶると震えだした。そして、一歩、後ずさると「どうして」と小さくこぼした。その拍子に銀盆からグラスが滑り落ち床で砕け散る。


「てめえ! 何やってんだ!」


 マリオの後ろからついてきた手下がマリオ髪の毛を乱暴につかみ引きずり上げる。マリオは苦痛に顔をゆがませると銀盆を放り投げ、両手で男の手を振り払おうと必死でもがく。銀盆に乗っていた酒瓶と残りのグラスが一斉に宙を舞い、大きな音を立てて砕けていく。


 その音がきっかけだった。


「その手を放せ!」


 非力な自分が立ち向かったところで勝ち目はないと分かっていた。分かっていたが体が先に動いていた。右の拳を振り上げ、男に突進する。それに気が付いた男はマリオを離すと、腰を落とす。このまま突進すれば確実にカウンターをもらうことは目に見えていた。しかし、もう足は止まらなかった。まるで自分の足ではないように暴走していた。止められるものがあるとしたらそれは――


「やめなさい!」


 ダリアの声が部屋に反響する。


 俺の足と拳は、男に飛びかかる数歩手前で止まる。


「アポロ、ここには喧嘩しに来たわけではないよ」

「でも、こいつ……!」


 今まで一度だって人間を殴りたいと思ったことなどない。きっとそれは、今までの俺には大切なものなど何一つなかったから。でも、今の俺は違う。この男の顔面を思い切り、何度も殴りつけてやりたい。


 喧嘩などしたことのない俺は、俺は振り上げた拳の下げ方も知らなかった。


「分かってる。でも、今はおとなしくしなさい」


 有無を言わせぬ強い響きだった。


「……分かった」


 俺は拳をしぶしぶと下ろす。しかし、目の前の男は、挑発的に笑うと、いかり肩で俺に近づいてきた。


「やめねえか……お前、俺に恥をかかせるつもりか?」


 アランが静かに、しかし確かな怒気を込めて手下を一喝する。


「……すみません」


 男は親に叱られた子供のように謝る。


「下がれ」

「し、しかし」

「何度も言わせるな。下がれ」


 男は「へい」と小さく返事をすると、床にへたりこんでいるマリオの腕をつかんで引っ張り上げようとした。それをアランが制す。


「いい。マリオは置いていけ。おい、お前。お二人に新しいグラスとリモンチェッロを」

「はい」


 腹心と思われるあの二人のうちの一人は短く返事をすると、うなだれている先ほどの男を連れて裏へと消えていった。


「さて、大変失礼しました」

「いいえ……」


 そうダリアが口を開こうとした瞬間、裏の扉の向こうから何かが崩れるような大きな音。続いて男の怒号が聞こえてきた。そして何かがぶつかるような鈍い音が何度も、何度もしている。その拍の合間に、人間の小さな叫び声やうめき声が聞こえてきた。


 アランは肩をすくめると「若い奴は血の気が多くて困ります」と嗤った。


 胸の中に得体のしれない重くドロドロしたものが渦巻き、全身に鳥肌が立つ。


「本当に」


 ダリアは少しも動揺していないようだった。


 一方、床にへたりこんでいるアポロは涙を流しながら耳をふさぎ、ぶるぶると震えていた。マリオの肩をそっと抱き、立たせてやる。ひとまずこの扉から離れようとダリアの近くに連れて行った。


 音が鳴りやんでしばらくすると、先ほどの男が銀盆にリモンチェッロを乗せて戻ってきた。


「ああ、やっと乾杯できますね。お待たせいたしました」


 アランは、男からリモンチェッロとグラスを受け取ると、例のゲームテーブルの上に置き、慣れた手つきで酒を注ぐ。そのリモンチェッロはやはりガルリア蒸留所のものだった。


「さあ、お二人ともどうぞ」


 一滴たりとも飲みたくはなかったが、ここは従うしかない。俺は、人生三度目のリモンチェッロの一気飲みをした。相変わらずアルコールの匂いがきつく、咳き込んでしまう。


「いやあ、素晴らしい飲みっぷりですな」

「そうかしら。お褒め頂光栄ですわ」

「しかもお美しい。一度でいいからお相手していただきたいものです」

「いつでもお相手いたしますわ。ただし、こちらで」


 ダリアは空のグラスを持ったまま、テーブル上の白い枠線をとんとんと指さす。


「ほう。では、今日は遊びに?」

「もちろん。だってここはカジノでしょう?」

「これはとんだ勘違いを。私はてっきりそちらのアポロさんが我々に作った借金の返済にいらしたのかと」


 ダリアはちらりと俺の方を見てから、アランに向き直り「違いますわ」と彼の頬を撫でる。


 アランは醜悪な笑みを浮かべる。そんなアランにダリアは畳みかける。


くださるのでしょう?」

「ええ、もちろん。美しいあなたの頼みであれば」


 アランはその汚い手で、ダリアの顎をつかもうと手を伸ばす。


 心がざわつく。こんな醜悪な人間になびくようなダリアではない。これは、アランをゲームのテーブルに誘いだすための演技だ。そう頭で理解していても、目の前で繰り広げられる男女の攻防が無償に悔しかった。


 ダリアはアランの手をさっとかわすと椅子に座ると、自分の左隣の椅子を指し示す。


「さあ、お座りになって」

「……では、失礼して」


 ダリアはアランの方に体を寄せる。


「このテーブルは四季札トリメストラーレですわね?」

「いかにも。しかし、失礼ですがリースリングさん。手持ちはあるのですか?」

「ええ。もちろん。たっぷりと用意いたしましたわ」


 ダリアはそういうと、スカートの中から革袋を取り出し、テーブルの少し高い位置で手を放す。その革袋は、ドスンと大きな音を立ててテーブルの上に落ちる。その拍子に口が開き、中からじゃらりと音をたてて大量の金貨がこぼれだす。もし、あのはちきれんばかりの革袋の中身がすべて金貨だったとしたら、優に二十万は超えているだろう。


 いやそんなことよりも、だ。なぜダリアは金を持っているんだ? あれだけの金があれば宿泊費など余裕で清算できる。


 アランも俺とは別の意味で動揺していた。ガルリアの店で日銭を稼いでいることは彼の耳にも入っているはずだ。そんな生活をしている彼女が大金を持って現れるとなれば、驚くのは当然である。


「これで足りるかしら?」

「……これは、驚きました。いや、失礼いたしました」


 アランは明らかに獲物を見つけた猛禽類のようにぎらりと目を光らせた。


「そこのあなた方も参加なさらない?」


 ダリアはあの腹心たちに声をかける。


 それは、まずい。あいつらはイカサマをしているのだ! そういえば、マリオのことは話したが、どうやってギャンブルで負けたかまでは話していなかった。


「ダリア、ちょっと……」


 その時、腹心の一人が座りながら、俺にだけに見えるようにジャケットの内側をちらりと見せる。その内ポケットには回転式拳銃のグリップが見えた。恐怖で思考が停止する。彼がその気になれば、ダリアも、マリオも、俺も簡単に殺せるのだ。明らかな脅しだった。俺は沈黙するしかなかった。


 そして、地獄のギャンブルゲームが始まった。

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