第二十九楽章
ダリアとともに悪の巣窟の前に立つ。本当に来てしまった。まだ昼過ぎだというのにアランのカジノは繁盛しているようで、先ほどからひっきりなしに人の出入りがある。
夜に見た時とはまた印象が変わっている。白く輝く外壁は夏の日差しを受けて純白に輝き、この街の美しい景観の一部として溶け込んでいる。もう、恐ろしくはなかった。今度はダリアが隣にいたからそう感じたのかもしれない。
しかし、決して平常というわけでもなかった。今俺は、恐怖とは別の感情に支配されていた。それは不安である。別にダリアの身を案じているのではない。ダリアの言葉には説得力があった。おそらくギャンブルで一度も負けたことがないというのも決して嘘ではないし、『追い風が吹いている』という彼女の言葉も真実なのだと思う。そう信じさせる何かがダリアにはあった。
ただ、ダリアが何かとんでもないことをやらかすのではないかと不安なのである。今のダリアは何か悪魔的なオーラをまとっている。隣に立ち、不敵な笑みをたたえるこの女は、全部を巻き込んで辺り一面を焦土と化す爆弾なのだと俺の本能が警告している。
「な、なあ。本当にやるのか?」
「もちろん! 久々に腕がなるなあ」
「でもアランがいるかどうかもわからないぞ」
ダリアは「それもそうだ」とうなずく。
「じゃ、じゃあ……」
ダリアは手に持ったバンドネオンを掲げて、恐ろしく笑う。
「その時は、引きずり出してやるわ」
酒に酔っているわけではないのに、ダリアの目は据わっていた。何を言っても無駄だと直感する。
「さあ、行こうか。日が暮れてしまうよ」
ダリアは軽やかな足取りでカジノのドアをくぐる。俺も腹をくくる時だ。もし、万が一にもダリアに危険が及ぶようなことがあるのならば、身を挺して護ろう、そう心に誓う。
しかし、カジノに入って十秒も経たないうちにさっきした誓いへの忠誠心を問われることになる。爆弾が爆発するのはいつでも突然なのだ。ダリアはぐるりと店内を見渡したかと思うと次の瞬間、声を張り上げる。
「カジノにお集まりの紳士・淑女の皆さん! お初にお目にかかります。私は第一級演奏家のダリア=リースリングと申します。本日は、皆様と、このカジノのオーナーであるアラン様に心ばかりの贈り物がございます。どうぞ、お楽しみください!」
客たちも店の者もこの闖入者にあっけにとられ、手を止める。カジノが一瞬で静まり返る。
「おい、あんたなんのつもりだ」
一瞬の沈黙の後、一人の店員が声を荒げ、ダリアに詰め寄ってくる。慌ててその男とダリアの間に割って入ろうと腹に力を入れた瞬間、ダリアに右手で制される。
男は「痛い目見たくなかったら……」と凄むが、その男の威勢は一瞬で鎮火することになる。
ダリアは近づくその男へと右手をさっと上げ、喉元に何かを突き付ける。それは、護身用の骨笛だった。近くにいた婦人が「ひっ」と小さく息をのむ。
「動かない方がいい。私が第一級演奏家というのは嘘ではないよ」
彼女の言葉にはやはり何らかの魔力が宿っているかのようで、この場にいる全員がその言葉を一瞬にして信じたようだ。そして、そこから一歩も動けなくなる。
男は明らかに恐怖していた。生唾を飲み込んだのか、彼の喉が大きく上下する。
「なあに、簡単なことさ。あそこに小さな舞台があるね」
ダリアは喉元に骨笛を突き付けたまま男の左側へと回り込んで背後に立つと、肩に手を乗せ耳元でささやく。
「あれを使わせてはくれないだろうか?」
男は口を閉じたまま絞り出すように声を出す。
「……それを決める立場にない」
ダリアは骨笛で男の顎を撫でつけながら言う。
「立場にない? 君はそんなことも決められないのかい? そうか。では、要求を変えよう。君は黙って頷くんだ。いいね?」
男は、恐怖で固まっている。
ダリアはそっと手に持つ骨笛へと唇を寄せる。次の瞬間その骨笛から地獄の底に吹く風のような恐ろしい音が鳴り響く。そして、店の天井から吊り下げられている大きな照明が一斉にガチャガチャと音を立て始めた。
「わ、わかった! 好きにしてくれ!」
男は両手を挙げて叫んだ。
「ありがとう。助かるよ」
ダリアはやはり悪魔のように笑うと彼の肩を軽く叩き、店に設けられた舞台へと歩き出す。固唾をのんで固まっていた客たちが一斉に道を開ける。
ダリアは舞台に登るとケースからバンドネオンを取り出すと、舞台に置かれた椅子の一脚に腰を下ろす。そして、大きく息を吐いた。
客たちはダリアが何をしようとしているのかようやく理解する。誰かがどこかで叫び声をあげた瞬間、店内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。ダリアの魔法から逃げ出すために、客たちは押し合いへし合いしながら、我先にと出口へと駆け出す。
しかし、その大混乱はまたしても一瞬にして鎮まる。
ダリアが演奏を始めたのだ。
出だしから猛烈な超絶技巧。音の粒が確かな質量をもって店中を跳ね回る。
店中の人間は放心状態でダリアの音楽に耳を傾けている。
今日のダリアもやっぱりキレていた。クライマックスに向けてどんどん熱量が上がっていく。彼女は眉を寄せて苦しそうに、必死で何かを探すように弾いていた。これ程まで苦しそうに演奏するダリアを見るのは初めてだった。彼女でさえ極限まで集中しなければ弾きこなせないほどの難曲。その難易度は終盤になればなるほど、際限なく上昇していく。
観客たちはそんなダリアと音楽に熱狂し始める。先ほど、近くで小さく悲鳴を上げていたご婦人など、まるで恋する少女のようにうるんだ瞳でダリアを見つめていた。
ダリアが最後の一音に魂を込めて弾き切ると同時に、その金髪を振り乱して天を仰ぐ。そのあまりの美しさに息をするのも忘れそうになる。次の瞬間、ばたりと左横で何かが倒れる音がした。咄嗟にそちらの方を見ると、なんと、興奮しすぎたのか先ほどの夫人が失神していた。
今度は別の意味で上へ下への大騒ぎである。店内には割れんばかりの拍手と歓声が雷のように鳴り響いた。そんな中、太く、やわらかく、しかしどこか不快な声が響く。
「いや、すばらしい!」
ダリアはピクリと眉を動かすと俺の背後へと目線を送る。俺もつられてそちらの方を見る。そして、見なければよかったと後悔する。
そこには、寒気のする笑顔をたたえて手を叩くアランが居た。
「ありがとう。貴方がアランさんかしら?」
「いかにも。いや、素晴らしい贈り物でした。確かリースリングさんでしたね。ぜひお礼がしたい。あちらの特別室にご招待させてはいただけませんか」
アランは、あの恐ろしい杏葉の間へと通じる扉の方を示す。そして、アランはダリアから目線を外すと今度は俺を見て「ああ、もちろん。アポロ君もご一緒にどうぞ」と言った。
その目にちらちらと蛇の舌のように
ダリアはそんなアランの様子に気が付いているのかいないのか、軽やかな口調でアランに問いかける。
「リモンチェッロはあるかしら?」
「ええ、もちろん。とっておきのをよく冷やしております」
「なるほど。そちらのお二人もリモンチェッロはお好き?」
ダリアはアラン脇を固める体格の良い二人に気軽に話しかける。その二人には見覚えがあった。あの、イカサマゲームに参加していた二人だった。
二人は黙して頷くだけだった。ダリアはそれは嬉しそうに「そうでしょうね」と手を叩く。
「アランさん。せっかくのお誘いですから喜んでお受けいたしますわ」
ダリアは恭しくお辞儀をする。
「ただね、覚えておいてくれるかしら? 私、冷えたリモンチェッロは嫌いなの」
アランの額に青筋が一瞬浮かんだように見えた。
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