第二十八楽章

 背後でどこかの扉の開く音。続いてコツコツと木製の階段を硬いブーツが踏み鳴らす音が聞こえてきた。その足音は気を使っているのか小鳥の心音のように微かだった。しばらく、するとトランクを閉める音と錠が下りる音とともに微かに聞こえていた自鳴琴オルゴールの音がやんだ。浅く腰かけたソファの背後でかすかな衣擦れ音がする。次の瞬間、暗闇の中から「ひっ」という小さな悲鳴が聞こえた。


 足音がソファを回り近づいてくる。ぼんやりと顔を上げると暗闇の中、ダリアが護身用の骨笛を構えて立っていた。


「アポロ……?」


 ダリアの声は怯えているのか少し震えていた。それもそのはずである。あの悪夢のような出来事から帰還した俺は、今の今まで電気も付けず、ソファに腰かけ呆然とただ息をしていただけなのである。暗闇の中で人の気配がしたとなればそれは恐怖の対象でしかない。


「アポロなの?」


 暗闇の中のダリアがもう一度訪ねる。発声するだけの体力も気力もなかったが、これ以上無視をすることはできない。体中のわずかな酸素をかき集めて何とか声帯を震わせる。


「……ああ」


 自分でも驚くほど生気のない声で蚊の羽音のほうがまだ音量があるように思えた。


「どうしたの、明かりも付けずに」


 ダリアはどこからか燐寸を取り出すと火を灯す。小さな光の中にぼうっと彼女の顔が浮かび上がる。燐寸の火種に照らされた彼女の整った鼻の稜線が頬に深い影を作り、火の揺らめきに合わせてゆらゆらと揺らめく。彼女が目の前のローテーブルに置いてあるランプに火をつけるとあたりは柔らかで温かいオレンジ色の光で満たされた。その途端に涙がまたあふれてきた。なんて情けない男なのだろう。しかし、もはや虚勢を張り、涙をぬぐう力さえ残されていなかった。「明かりくらいつけなさい」と言いながら顔を上げたダリアは俺の顔を見た途端に沈黙する。当たり前だ。大の男がめそめそとみっともなく泣いているのだから。きっと呆れてものも言えないに違いない。


「どうしたの! それ!」


 それ……とは何のことだろうかと、ほとんど機能していない頭でぼんやりと考える。頭の中ではずっと耳鳴りがしていた。この耳鳴りのせいでまともな思考などできなかった。ただ、恥ずかしいという感情はまだ機能していた。ダリアの顔をまともに見られず、下をうつむく。


 ダリアは足元にしゃがみこむと両手を俺の頬に当てると顔を覗き込んできた。あまりに惨めで思わず彼女の視線から逃れようと必死に顔をそらす。どこで痛めたのか、首に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめる。


「怪我してるじゃない」


 彼女の指先が左頬骨の傷に触れた瞬間、鋭い痛みが走った。


「ここも……」


 彼女は俺の前髪をかき上げると額の傷の様子をうかがう。しばらく顔の傷を確認していたダリアだったが、何かに気が付いたのか血相を変える。だらりと脱力し放り出していた両手を彼女の大きな手がつかむ。ダリアは自分がランプの光を遮らないように半歩左にずれると、俺の両手をランプの光にかざして必死に観察を始める。


「指は? 怪我してない?」


 指……? もうどうだっていい。


 そんな俺の気持ちなど知る由もなく、今度は俺の両腕を二の腕あたりから前腕にかけて何かを確かめるかのように何度も握る。


「腕は? 折れてない? 痛いところはない?」


 ダリアは心底心配そうな顔をしていた。なんの意味もないのに。俺は演奏家の魂ともいうべき楽器を失ったのだ。しかもその理由は考えうる最悪の理由……ギャンブルである。彼女が心配するような価値は俺にはないのだ。それが無性に腹が立った。


「どうでもいい……」


 口をついて出た言葉は驚くほど冷たい響きがした。


 ダリアが目を丸くし、動揺で瞳が揺れる。俺の言葉の真意を探っているのか、揺れる瞳でじっと見つめてきた。再びその視線から逃れるために下を向く。


「どうでもいいよ、……」

「そんなこと?」


 叱られた子供のように下を向いたまま俺は黙ることしかできない。


「何があったか話して」


 有無を言わさぬ強い響き。彼女の燃えるような視線が頭頂部に突き刺さるのを感じる。顔を上げなくても今、彼女がどんな顔をしているかがはっきりと分かる。彼女は投げやりな態度の自分に腹を立てているに違いない。


「ねえ、こっちを向いて」


 彼女は俺の両の頬をつかむとぐいと顔を上げさせた。俺は、この瞬間、彼女の怒った顔を初めて見ることになるな、と思った。そして、同時に恐怖した。彼女が怖いのではない。彼女を怒らせてしまったという事実にどうしようもなく恐怖していたのだ。しかし――


 目の前に現れた彼女の顔には怒りの感情など微塵もなかった。ただ、純粋に俺を心配し、動揺し、あまつさえ何かに怯えているような顔だった。


 ずっと静止していた心臓が再び動き出す。俺は何をやっているんだ! 大切な人にこんな顔をさせてしまった俺が心底情けなかった。先ほどの腹立たしさを凌駕する自分に対する激しい怒りの感情が沸き上がる。その感情の昂ぶりに呼応するように、霧の中で停止していた思考が復活し、それと同時に身体感覚も戻ってくる。蹴とばされ、殴られたところが脈に合わせて鈍く痛み出す。するとその痛みがさらなる怒りの感情を呼び起こしていく。体中に血液が充満する感覚。俺は、両手の拳を握りしめる。


「ごめん。本当にごめん……」

「いいの。アポロが無事ならば。本当に大丈夫なの?」

「ああ、しこたま殴られたけど、それだけだ。ちゃんと指も動く」

「本当に良かった……それで、何があったの?」

「マリオがギャングに攫われたんだ」

「本当に⁉」


 ダリアは両手を口に当てて驚愕する。


「ああ。あいつらは本物の悪魔だ!」


 消化しきれない自分への怒りが今度はギャングたちへの怒りへと変化する。なぜ俺が絶望し、打ちひしがれなければならないのか!


「でも、どうしてあの子が?」

「マリオの父親が奴らに作った借金のせいだ。マリオの父親はギャンブルで作った借金を母親に押し付けて逃げたんだ! でも、マリオの母さんやガルリアさんが借金を返したはずだったんだ! それをあいつら!」


 もう、いろいろな感情がないまぜになって、それ以上言葉が出なくなってしまった。そんな俺の肩に両手を乗せるとダリアは深くうなずく。


「難癖をつけてまた取り立てに来たんだね?」

「どうしてそれを?」

「それがギャングの常套手段だから」

「そう、なのか。でも、ダリアの言うとおりだ。ガルリアさんは、後見人としてマリオの父親の借金を肩代わりしている。でも、だからこそなんでマリオが狙われるかがわからないんだ」


 ダリアは顎に手を当てて、何かを考え始める。


「ねえ、アポロ。その様子だと君、ギャングのアジトに乗り込んだね?」

「そうだよ。だって、見過ごせるわけないだろう?」

「それはもちろんそうだけれどね、殺されていたかもしれないよ? もう、こんな無茶はしないで。お願い」


 ダリアは俺の両手を取ると、「心配なんだ」と強く握りしめる。それだけでなんだか救われたような気がしてしまった。


「それで、どんな奴らだった?」

「裏で糸を引いているのは、ベネディクト家のアランっていう男だ。この街のカジノを牛耳っている」


 ダリアの顔色が変わる。何か思い当たる節があるのだろうか。「なるほど」と小さく呟いた。


「アランのことを知っているのか?」

「いいえ。ただ、カジノと聞いて一つ思い当たる節があるの」

「それっていったい……」


 カジノという大人の遊び場に子供が必要だとはとても思えなかった。


「イカサマの片棒を担がせるの」

「イカサマだって? どうやって」

「これは、以前マルターニャで出会ったとあるギャンブル好きに聞いた話なのだけれど、子供にプレーヤーの手札を盗み見させるんですって。普通、自分の手札は他人なんかには見せないでしょう? でも、子供だと油断しちゃうらしいのよ。そのギャンブル狂い曰くね、『いいところお坊ちゃん風のやつには気を付けろ。奴らは親を待つ子供を演じて近づき、手札を盗み見やがる』らしいよ」


 まさか、子供がイカサマに加担しているなんて想像もしないだろう。奴らはマリオを借金で脅し、手駒にするつもりなのかもしれない。汚らしい奴ららしい手だ。


 ダリアは何か納得したように両手を胸の前で合わせる。


「ああ、なんとなく読めてきた。アポロ、あの子の借金をかけてギャンブルしたでしょう?」

「驚いた。よくわかったな」

「簡単なことよ。貴方が生きているから」


 こともなげに恐ろしいことを言う。この発言の意味は、ギャングのアジトに乗り込んだ者の末路は基本的には死であるということだ。今生きているだけでも儲けものなのかもしれない。


「生きているということは、あなたには生かす価値があるということ。彼らは価値のない人間は平気で殺すから。それでアポロ、あなたいくら負けたの?」

「……二万だ」


 それを聞いたダリアは手を叩いて笑い始める。


「それはまた随分と派手に負けたね。これに懲りたら、二度とギャンブルには手を出さない方がいいよ」


 言われなくてもそのつもりだ。


「それにしても、二万も負けるなんてどこにそんな大金を隠し持って……あ、そういうことか。それであんなに自暴自棄になっていたのね。もう、馬鹿なんだから……」


 ダリアは呆れたようにため息をつくと俺を小突く。どうやらすべてを見透かされてしまったようだ。呆れるのも当然だ。


「本当にすまない……。でも、俺が賭けられるものはヴァイオリンしかなかったんだ」

「私が呆れているのはそこじゃないよ」


 そこじゃない? だったら何に呆れているというのか? 演奏家として最も大切なものを賭け事で失う以上に呆れることなどないではないか。


「私が呆れているのはね、アポロが落ち込んでいるからだよ」

「そんなことだって? 俺にはそうは思えない。楽器は演奏家の魂のようなものだろ?」

「でも、

 

 ダリアの芯の通った声が体の奥底まで響く。


「音楽家にとって本当に大切なものは心だよ。楽器じゃない。美しいものを愛でる心、おいしいものを食べて感動する心、大切な人のために怒ることのできる心、そして、人を愛するという心だよ。アポロは全部持っている。貴方はまだ何も失ってないよ」


 何も失っていない。自暴自棄にならず、この心さえ捨てなければ。


 凍り付いた心がじんわりと温まり、解けていくのがはっきりと分かる。俺の目からは再び涙がこぼれた。俺はすんでのところでダリアに再び救われたのだ。


「ありがとう……」


 ダリアは何も言わずに抱きしめてくれた。その腕は陽だまりのように温かかった。


「潮時ね」

 

 俺から離れたダリアは立ち上がるとそう宣言した。


「つまり?」

「今まさに追い風が来ているのよ。このまま風を捕まえて、明後日にはこの街を出るよ!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。マリオを放ってはおけない。それに、ここの宿泊費だって……」


 そう言う俺の口にダリアの人差し指が当てられる。


「その全部を一気に解決しましょう」


 ダリアはにやりと笑う。とても嫌な予感がした。


「ま、まさか……」


 彼女は満面の笑みをたたえて高らかに宣言する。


「私、ギャンブルで負けたことないの!」


 その美しい瞳には悪魔の炎が宿っていた。

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