第二十五楽章
俺は、悪の巣窟の前に立っていた。
豪奢な石造の館。扉はこれまた豪華な彫刻がなされていた。しかし、実態を知ってしまった今は、地獄の門のように思えた。
勇み足でここまで来てしまったが、ダリアを待ったほうが良かったか? とふと不安がよぎるが頬を右手で打ち、気合を入れる。そして、一人では何の効果も発揮しないヴァイオリンケースの把手を強く握りしめた。
「よし……!いくぞ」
俺は、煌びやかな地獄の門をくぐる。
中はさらに豪華な作りとなっていて、どでかい照明が天井からいくつもぶら下り、昼間のように明るかった。広いホールのあちらこちらにテーブルが置かれ、何やら客たちが楽しそうにしている。ホールの脇には小さな舞台が設置されていた。おそらく楽団が演奏するスペースなのだろう。
俺の侵入に気がついたのか、黒い服をきた従業員らしい男が作り笑いを顔に貼り付けながら近づいてくる。
「いらっしゃいませ。こちらは初めてでしたでしょうか」
「いや……まあ……」と舞台の方を見たまま答える。
男は俺の左手にヴァイオリンケースが握られているのに気がついたのか、態度が急変する。
「飛び込みの営業は受付ねえよ。帰んな」「違う。そうじゃない。俺は、アランさんに会いにきたんだ。マリオを返してもらうためにね」
その瞬間、男に鋭い眼光が宿る。
「お前、何者だ……」
「答える必要はない。とにかく、アランさんを呼んでくれ」
男は、俺を睨め付けると「ここで待ってろ」と命じて店の奥へと消えていった。
しばらくして、先ほどの男が戻ってくる。そして、低い声で一言「ついて来い」と言った。
俺は心臓が飛び出るほど緊張していたが、必死に平静を装い、男についていく。
目の前に天鵞絨の幕が現れる。ランプの火を受けて、波打つ幕の影が地獄の炎のようにゆらめいていた。
先をいく男が幕を左右に引くと、黒檀製の重々しい扉が現れた。扉には
男は、扉を両手で押し開く。ぎいと重々しい音を立てて、扉が開いていく。
中は今通ってきたホールよりもずっと狭くそして暗くかった。それに、甘くほろ苦い嫌な匂いがした。さっと見渡すと明らかに高級そうな調度品が並んでいるのが分かる。メインホールの内装よりもずっと金がかかっているようだ。部屋の中央部にはテーブルが一脚置かれ、テーブルの各辺には、これまた黒檀製の椅子が四脚。その背もたれには、この部屋の扉と同じ大きな杏葉の意匠が見えた。
そして、奥の席に一人の男が座っていた。この男こそ、件のアランであると直感する。想像よりもずっと若く、歳のころは四十手前といったところだ。銀縁の小さな丸めがねをかけ、少し長い黒髪を右から左へと流しつけている。眼鏡の奥にのぞく眼は鷹のように鋭く、この人間がどんな人間であるかを雄弁に語っていた。
「さあ、座りたまえ。お客人」とその男は自分の目の前の椅子を指し示す。
脳の奥がチリチリする酷く不快な響きのする低音だ。
俺を連れてきた黒服は椅子を引くと、俺の肩を掴んで無理やり座らせる。
「あんたがアランさんか?」
男はその問いには答えず「何か飲むか?」と聞いてきた。俺は首を振るが、黒服が何処からか現れ小さなクリスタル製のグラスを俺の前に置いた。
「私はこの街のリモンチェッロが好きでね。ぜひ、君にも味わってもらいたい」
クリスタル製のグラスの中に嗅ぎ慣れた香りの黄色い液体が注がれる。ふと、黒服の手の中にある酒瓶が目に入る。その途端、心臓が止まりそうになった。それは、ガルリアさんの蒸留所で作っているリモンチェッロだった。
男は、お前の素性は分かっているぞと言わんばかりに自分のグラスを掲げてから、酒を一気飲み干す。
黒服が「お前も飲むんだ」と、グラスを無理やりに持たせてきた。鷲掴みにされた肩に徐々に力が入っていく。痛みで小さく悲鳴をあげる。選択の余地はなさそうだ。
震える手でグラスを手に取り一気に煽ると強い酒気で喉が燃え、思わず咳き込んでしまった。喉の痛みに耐えながら瞼をぎゅっと瞑っていると、男の冷たい声がじわりと侵入してきた。
「さて、お客人。私に何か用かな?」
俺は、恐怖でいっぱいだった。しかし、もう後戻りはできない。
「うちの従業員のマリオを返してもらいたい」
「マリオ……ふむ……」
男は大袈裟に考え込む身振りをする。やがて、「ああ」と両手を打つと、近くにいたもう一人の手下に声をかける。手下は小さく頷くと、どこかへ消えていった。
「マリオはね、うちの駒使いだ。何かお客人は勘違いしているようだ。ええっと、確か……アポロ=アレグリアさん」
彼の口角は冷ややかに歪んでいた。
なぜ俺の名前を知っている?
全てを見透かされてしまいそうな男の眼光に射られ激しく動揺する。しかし、それを気取られないようにと声を張り上げた。
「嘘をつくな!」
「嘘? 嘘ではない。何なら本人に聞くかね?」
そう言って、男は俺の後ろを指し示す。振り返ると、そこにはマリオが立っていた。その顔は恐怖に引き攣り、ガタガタと震えている。
「マリオ……!」
男は立ち上がるとゆっくりとマリオに近づいていく。そして、マリオの後ろに立つと彼の両肩に手を乗せた。マリオは「ひっ」と声にならない悲鳴をあげた。男は身を屈め、マリオの耳元で「マリオ……こちらのアポロさんは勘違いをしているね? そうだろう?」と囁く。マリオは顔を真っ青にしながら、何度も激しく頷いた。その様子に満足げな表情を浮かべた男は「ほらごらん」とでも言うように両手を広げてみせた。
「さて、アポロさん。勘違いだということが判明したわけだがしかし、どうするかね? この状況」
部屋の暗がりから数人の手下がにゅっと現れ、俺を取り囲むようにして立つ。
「マリオの借金はいくらなんだ?」
「なに?」
「その借金を返すからマリオを解放してくれないか?」
男は多少驚いたようだ。
「君が借金を返すと? この小僧の借金がいくらなのか知っているのかね?」
「……知らない」
それを聞いた男は目を丸くし、そして高らかに笑い出した。
「知らないのに返すと言うのか? 少年よ。できない約束はしない方がいい。いいか。この小僧の借金は、二十万リルラだ」
二十万だと!?
百リルラもあれば、6人家族が一ヶ月は余裕で暮らせる。この国の平均月収は大体、五十リルラ程度なのだ。
最初から返済の目処などはなかったが、予想を遥かに上回る額に、目の前が真っ白になった。
男は元の席に着席すると、下卑た笑みをたたえながら口を開いた。
「とても払える額ではないだろう? しかし、単身ここまで乗り込んできたその勇気は買いたい。どうだね。チャンスをやろう」
そう言って、人差し指でテーブルを二回叩く。
テーブルの天板は黒い天鵞絨に覆われている。そして、そこには長方形の枠線が五つ描かれていた。それらは天板の中心部に十字状に配置されている。明らかに何か賭け事をするためのテーブルだ。
つまり、この男はギャンブルで勝負をしろと言っているのだ。
「俺には元手がほとんどない。賭けられるのはこの街で稼いだ三十リルラだけだ。そんなちっぽけな勝負でとても二十万もの大金を稼げるとは思わないね」
男は大きく頷く。
「それはそうだろう。しかし……」と男は傍に置いておいたヴァイオリンケースを指差した。
「私は無類の音楽好きでね。適性がないので楽器を弾くことはできないが、蒐集しているのだよ。君のそのヴァイオリンを担保に一万リルラ貸そう。一万と三十リルラもあれば、あるいは小僧に手が届くかもしれないぞ」
この男の言いたいことはつまり、マリオを助けたいのならば己の魂を賭けろ、ということだ。
上等だ!
「やってやるよ!」
この時の俺は、まだ知らなかった。ギャンブルというものがどういうものなのか。
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