第二十四楽章

「ガルリアさん! 大変なんだ!」


 よそ者の俺に頼れるのは、ダリアの他には彼女だけだった。


 蒸留所にの隣接する彼女の家の扉を必死になって叩く。


 ややあって、彼女が扉を開けて出てきた。


「あ、アポロ……どうした? そんな血相を変えて」

「マリオが、マリオが連れ去られた……!」


 ガルリアさんは一瞬驚いた顔をするが、すぐに「やっぱりか」と呟いた。


「やっぱりだって!? 何か知ってるんですね?」


 俺の口が彼女の手で塞がれる。


「ここではまずい。さあ、入って」と彼女は俺を家に招き入れた。


 家の中は驚くほど質素だった。独り身だとは聞いていたが、それにしたってほとんど物がない。


 彼女は、扉を両手でしっかり閉めると鍵をかけた。そして、「とにかく座って」と部屋に置かれた簡素なダイニングテーブルを指し示した。


「それで、見たんだね?」


 ガルリアさんは椅子に座るなり口を開く。


「ええ。あいつら、誰なんです?」

「おそらく、ギャングのベネディクト家の者だ。糸を弾いているのは、そこのアランって男だろね。この辺でカジノを経営している」

「でも、子供のマリオが何でそんな奴らに借金があるんですか?」


 彼女は目を閉じながら下唇を噛み締める。


「それは……彼の父親の借金さ。マリオの父親はね、どうしようもない男で、ギャンブルで借金作ってね、終いには、あの子と母親を置いて蒸発しちまったのさ。母親のマリアはね、この店の従業員だったんだよ。旦那の作った借金を返済するために、女手一つでマリオを育てながら、必死で働いていたよ。昼も、夜も。多分、夜の方は、人には言えないような仕事だったんだと思う。でもね、あの子はそれでも気丈に笑っていたよ」


 マリオの誇り高い精神は、母親譲りだったのだ。


「それで、一人になったマリオを雇ったんですね……」

「そうさね。マリアが亡くなった時には、借金はほぼ半分になっていた。本当に頑張ったんだよ。私は、残りの借金は私が肩代わりしたんだ」

「だったら、何で……」


 借金は全額返済されているはずだ。


 ガルリアさんは拳を握りしめながら悔しそうに声を絞り出す。


「……奴らは狡猾だった。全額返済していたと思っていた借金は、実はまだ少し残っていたんだ。そして、彼らは最近になってその取り立てを始めた……後見人の私に対してね。そして、再三の返済要求に応じなかったと言う理由で、法外な利子を要求してきたんだよ。利子は私が肩代わりした借金とほぼ同額になっていた」


 怒りで体が震えた。


 なんて卑怯なんだ!


「でも、今のいままで返済要求なんてなかったんですよね? おかしいじゃないですか!」

「それがあったんだよ。督促状がマリオの家に送られていた。でも、マリオはまだ子供だからね……文字が読めても、意味は分からなかった」

「そんな……」

「もちろん、奴らもそんなことはお見通しさ。マリオもね、何となく察してはいただろうけど、私に迷惑をかけまいとしたんだね……相談はできなかったのさ」

「裁判所なんかに異議申し立てはしたんですか?」

「もちろんしたさ。でもね、訴えは却下されたよ。ベネディクト家とアルビコッカ家との黒い繋がりはこの街では公然の秘密だからね、不思議でも何でもなかったけれど」


 吐き気を催すほどの悪。世界は美しいだけではないという事を思い知る。


「この事を、マリオは?」

「知らないよ。奴らも子供に返済能力がない事は分かっているからね。最初から後見人のあたし狙いさ。少しずつ返してはいるがとても間に合わない」


 そう呟く彼女の顔には深い疲労が見てとれた。そして俺は、この部屋が異様なほど簡素である理由に気がついてしまう。


「ガルリアさん……あなたもしかして、家財を……」


 彼女は大きなため息をつく。


「まあ、あたしの所は小さな蒸留所だからね。儲けだってそんなにないんだ。みんなにももっと支払ってやりたいんだけれど、色々と限界でね。去年買った最新式の蒸留機の借金もあってこの蒸留所を手放して金に変えることもできないのさ」


 今更ながら自分達が彼女の重荷になっていたことを思い知る。マリオに初めて出会った時、彼は『人手が足りない』と言っていた気がする。しかし、実際は暇と言うほどではなかったが、人手不足というわけでもなかった。人手不足でもないのに、しかも労働者を増やせばギャングへの上納金が増えるというのに、彼女は俺たちを雇ってくれた。それは、何か打算があったわけではないのだ。ただ、純粋に手を差し伸べてくれたのだ。俺はこの人になんとしても報いなければならない。


「でも、だとしたらなんでマリオは連れ去られたんでしょう?」

「それが私にも分からないんだよ」


 この国では、表向き人身売買が禁じられている。しかし、裏の世界には裏の世界の常識というものがあるのかもしれない。


 何にしても、マリオが危険に晒されていることは確かだ。


「ガルリアさん。そのアランって男の経営するカジノというのはどこにあるんです?」


 下を俯き、唇を噛み締め怒りに震えていたガルリアさんが、はっと顔を上げる。その顔にははっきりと動揺が浮かんでいた。


「あんた……まさか……」


 俺は、ヴァイオリンケースの把手を力強く握りながら頷く。


「ええ。助けに行きます」


 俺には何も出来ないかもしれない。でも、俺はここで動かないわけにはいかなかった。たった一人との出会いが人生を変えることを知ってしまったから。

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