第二十三楽章
今日は仕事があるというのに、このやけに広いベッドからなかなか起き上がれなかった。
しかし、仕事に遅刻するわけにはいかない。
腹を括って起き上がる。
リビングにつながるドアのノブに手をかけて自分に言い聞かせる。
(大丈夫。いつものように挨拶すれば良いだけだ)
ノブを強めに握りしめ、寝室を出る。
意外なことにそこにダリアはいなかった。
朝の眠たい雰囲気が充満する部屋を見渡すと、ローテーブルに何かが載っているのを見つけた。近づいてみるとそれは置き手紙だった。
思ったよりもずっと力強い筆跡でこう書かれていた。
“今日は行くところができました。ガルリアには体調不良と謝っておいて。大丈夫。ちゃんと明日までには戻るから。それに、今度は書き置きも残したでしょう?”
(ガルリアさんだろ……)
雇い主を呼び捨てする不遜な態度。いつものダリアで少し安心した。
しかし、一体何処へ? と部屋の中を今一度見渡すと、部屋の隅に
工房に近づきダイヤルをみると二番を指し示していた。二番と三番がつながる先を俺は知らない。かといって、勝手に入るのも悪い。それにダリアは『秘密』と言っていた。彼女が自ら話せる時が来るまで、詮索しないつもりだった。
「まあ、正直少しホッとしたけど……」
どんな顔をして会ったら良いかわからなかったから。
一人だと広すぎるホテルの部屋で呟く俺の声は虚しく響いた。
一人ソファに座り、昨晩のキスを思い出す。顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
しかし、ながながと感傷に浸っている時間はない。
出勤の準備のためにのろのろと立ち上がった。
*
いつものように作業場に行くと、珍しくガルリアさんがいた。
「おはようございます。ガルリアさん」
「ああ、おはよう。あれ? ダリアちゃんは?」
「それが実は、体調を崩しまして……ごめんなさい」
ガルリアさんは大きく手を振ると「いや、謝ることはないよ。その代わり、アポロが二人分働くんだろ?」と笑う。
「ま、まあ。努力します」
「その意気だ」
そう頷くガルリアさんだったが、その瞳に一瞬不安が宿るのが見えた。
「どうかしたんですか?」
「え?」
「いや、いつもよりも少しだけ元気がないようですので……」
ガルリアさんはため息をつくと「顔に出てたか」と呟いた。
「心配かけてすまないねえ。今朝はまだマリオが来てなくてね。あの子、一度も遅刻したことがないから心配で……」
確かに作業場にはマリオの姿はなかった。いつもなら誰よりも早く出勤し、鼻歌を歌いながら作業台を磨いているはずだ。
「それは心配ですね。体調でも崩したんでしょうか?」
「そうかも知れないねえ。ちょっと、後で家まで様子を見にいってくるよ。まあ、アポロはどおり頼むよ」そう言うとガルリアさんは作業場から出ていった。
俺もマリオのことは心配だったが、どうすることも出来ない。
考えても仕方ないので、黙々と手を動かした。
結局、その日一日マリオは姿を現さなかった。
仕事終わり、給料をもらうために事務所兼社長室へと向かう。
「今日もお疲れ様」
給料を受け取った後、俺はマリオの事を尋ねてみることにした。
「ところで、マリオの様子はどうでした?」
「ああ、それがあの子、家にいなかったのさ」と彼女は眉を顰めた。
「いなかった? 体調不良じゃなかったんですか……」
「そうみたい。あたしは心配だよ。あの子良くないところに借金があるから」
「借金ですか?」
ガルリアさんは、あからさまに『しまった』という顔をした。
「ごめんなさい。立ち入ったことを聞きました」
「いいのよ。あたしが口を滑らせたのだから」
これ以上聞かない方がいい。そう直感する。
「……今日はこれで失礼します」と頭を下げる。
「ありがとう。聞かないでくれて」
「いえ。訳ありなのは俺たちも同じですから」
ガルリアさんは、「そうね」と一言呟いた。その声には暗い影が落ちていた。
日が沈みかけた道をぼうっとしながらホテルへの道を歩きながら、あの葡萄畑での会話を思い出していた。
マリオは『自分は幸せ』だと言っていた。自分の境遇によく似た彼だが、昔の俺とは違って前向きに生きる彼の、強く美しい心に感動したのだ。
しかし、ガルリアさんは『マリオには借金がある』と言っていた。ダリアが誰にも言えない寂しさを抱えて居たように、マリオもまた暗い影を抱えていたのか。
普通に考えれば借金苦からの夜逃げだろう。しかし、彼はまだ子供だ。それに、マリオはガルリアさんのことも、職場のみんなも、ダリアや俺のことも好きだったし、信頼していた、と思う。そんな彼が黙って居なくなるとはどうしても思えなかった。
「マリオ、どこ行っちまったんだよ……」
その時、路地から声が聞こえた。
「おい、てめえ、散々手こずらせやがって。次逃げたら沈めるぞ!」
どうやらギャングが誰かを脅しているようだ。
かかわらない方が身のためだ。
足早に立ち去ろうとした時だった。
別の男の声が聞こえる。その声は、落ち着いてはいたが、底冷えのするような悪意をまとっていた。
「止めろ。坊っちゃまがビビってるじゃねえか」
「あ、兄貴……すみません」
先ほどあれほど威勢の良かったギャングの一人が、慌てて謝罪する。
「なあ、マリオ君。おじさん達はさあ、何も取って食おうって訳じゃないんだ。そんなに怯えないでくれよ。お前さんの親父が俺たちにこさえた借金をな、返してほしいだけなんだよ」
今、マリオって言ったか!?
心臓が鷲掴みにされたように縮み上がる。
良くないところに借金があるというガルリアさんの言葉を思い出す。
まさか、この暗い路地の奥で脅されているのはマリオなのか?
「なあ、ちょっと落ち着いたところで話そうじゃないか……おい!」
「へい! おい、こっちこいや!」
会話から察するに、こいつらは脅迫相手をどこかに連れ去ろうとしている!
もし、本当にマリオだったら?
助けなければと思う反面、恐怖で足がすくむ。
なにしろ俺はダリアにすら力負けするくらいの貧弱者なのだ。
勇んで飛び出していっても返り討ちにあうに決まっている。しかし、ここで動かなければ一生後悔する、そう思った。
俺は、しばらくの葛藤のうち、路地へと飛び込んだ。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
慌てて、視線を路地の向こうに向ける。
路地の先、向こう側の通りに二人の男の後ろ姿が見えた。
「おい! 待て!」
恐怖を振り切るように駆け出す。
そして……俺は見てしまった。
馬車へと乗り込む二人の男。
その一人に腕を掴まれ、馬車へと引きずり込まれる小さな子供。
その子供は、くたくたのシャツに汚れたオーバーオールを着ていた。
「マリオ!!」
その声に振り向いた彼の目は恐怖に見開かれていた。
俺の叫びも虚しく、マリオは闇の中へと吸い込まれていく。
そして、馬車は血のように赤く染まった通りを走り去っていった。
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