第二十二楽章

「しかし、すごいフィナーレだったね。久しぶりに交響曲を聞いたよ」


 ダリアはホテルのベランダの手すりに背中を上げて空を見上げる。


 今日は新月で、頭上には無数の星が瞬いていた。ホテルの窓から漏れる微かなランプの灯りに照らされたダリアの曖昧な輪郭の向こう側に、星屑のように煌めくナポレアーノの夜景が見えた。その右側は深い闇をたたえた海が広がっていた。


 俺は、ずっとダリアが贈ってくれた赤い薔薇の意味を考えていた。彼女が俺のことを憎からず思ってくれていることは分かる。ただ、それが情愛の念なのか友愛の念なのかは計り知れなかった。


 俺の心はざわざわと波立ち、みっともなく動揺していた。きっと揶揄われているに違いない。そう思うのに、『もしかしたら』と甘言を囁く自分も確かにいるのだった。


 ひるがえって俺はどうなのだろう? 白薔薇を贈ったのは偶然だ。だって、すぐり色のドレスによく映えると思ったから。でも、初めからこの習慣を知っていたら? 俺は変わらず白薔薇を贈っただろうか。多分恥ずかしくて別の色を選んだろう。では心はどうだろうか? 白薔薇を贈る意味を知った今、俺は彼女に何色の薔薇を贈りたいのだろう?


 分からなかった。


 恋心などこれまで生きてきて抱いたことなどなかったから。時折感じる胸の高鳴りが、彼女への恋慕によるものなのか、性欲によるものなのか、はたまた彼女の音楽への愛故か、俺には見分けがつけられなかった。


 ただ、好きだった。


 彼女の美しい音楽も、チェロのような水気のある声も、努力の跡が刻まれた大きな手も、風に揺れ陽に透ける髪が、情熱的で芸術的な目元も、そして彼女の優しい笑顔も。



「どうしたの?」


 ダリアの声で脳内が甘く痺れる。


「恋ってしたことあるか?」


 自然と口をついて出た言葉。それは、何か縋るような、救いを求めるような響きがした。


 ダリアは何も答えない。


 遠くで海が鳴いていた。


「あるよ」


 ダリアは恋をしたことがある。その事実を脳が理解すると、もう彼女の顔を見ることができなくなる。


「そっか。それって良いものなのか?」

「苦しいよ」


 その声は掠れていた。


「そっか」


 彼女は髪をかきあげると口を開く。もう、これ以上聞きたくないと思った。でも、俺は言葉を遮る手段を持ち合わせていなかった。


「最初に恋をしたのはお祖父様のピアノの音だった」


 なんだ音楽の事かと、多少心が軽くなり、顔を上げてダリアを見る。その瞬間、俺の心は再び一度凍りついた。


 ダリアは泣いていた。


「私は音楽を愛してる。でも、同じくらい憎んでもいるの」


 信じられなかった。音楽の神にこんなにも愛され、才能もある彼女が音楽を憎んでいるなんて。


「お祖父様は私の才能を神様からの贈り物だと言ってくれた。素直に嬉しかった。でも、幼かった私は、力を持つということの意味をまだ知らなかった。私の魔法の力は強すぎたの」


 ダリアの魔法は記憶の操作だ。人間の人格は己の知識と経験によって構成される。そしてそのどちらも記憶の一種である。それはつまり、彼女がその気になれば人格をも支配できるということを意味する。冷静になって考えればこの力はとんでもない価値を持つ。


「多くの人間が私の力を欲した。その欲望の渦に巻き込まれて私は、父も、母も、兄弟もみんな失った。それからはお祖父様がずっと守ってくれたの。でも、お祖父様も亡くなってしまった。そして私は本当に一人になってしまった。だから旅に出たの。自由になるために」


 ダリアは泣きながら首を振る。


「違う……。ただ、逃げたのよ。私は自分の運命から、そして自分から」


 彼女の旅は決して物見遊山ではないのだ。流れ、逃げ、隠れ、そして誰にも自分の正体を明かさないためなのだ。


 輝く笑顔の裏側にこんなにも大きな寂しさを抱えて彼女はずっと一人で旅をしてきたのだ。それを思うと胸が締め付けられた。


「私は自分の人生を滅茶苦茶にした、この恐ろしい力が、音楽が憎い。でも、どうしても嫌いになれない。好きなのよ……音楽も、そして多分人間も。だから生きることを諦められないの」


 これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。彼女の心は真心で溢れている、そう思った。そして、俺もダリアのようになりたいと思った。


「ダリアの魔法は俺を救ってくれた。恐ろしい力なんかじゃない」


 ダリアは何も応えずただ泣いていた。


「ダリアはどうして俺に魔法をかけてくれたんだ?」

「分かんないよ。でも、そうしたいと思ったの。それに……」


 ダリアは俯き言葉を続ける。


「救われたのは私の方だよ。自分の力がずっと怖かった。でも、貴方はそれで救われたと言ってくれる。そして、貴方は私の力ではなく、私の音楽を好きだと言ってくれた。初めてだった……こんな力を持っているからかな、魔法を使わなくたって人の心が少しだけわかるの。あの夜、言ってくれた貴方の言葉が、心からの本心だって分かった。ずっと寂しかった、ううん、それすら忘れていた私の心はアポロに救われたんだよ」


 ダリアの特別になれたような気がして胸が高鳴る。


 この胸の高鳴りが愛なのか、そうじゃないのかなんてもはやどうでも良かった。


 ただ、ダリアが好きというだけで良いじゃないか。


 彼女にもう一度薔薇を贈るとしたらその色は……そんなの決まってる。


「ずっと考えてたんだ」


 ダリアが顔を上げる。その瞳は涙で濡れ、炎のようにゆらゆらと輝いていた。


「ダリアにもう一度薔薇を贈るとしたら、何色の薔薇を贈るかって」


 ダリアは口を両手で抑え、震える声で答えた。


「ごめんなさい。ちょっと揶揄うだけのつもりだったの。後で知ったらきっと動揺するだろうなって。だから、白が映える赤い服を選んだりもして……。もしかして、傷付けてしまった……?」


 まあ、白薔薇の意味を知った時は、『またやられた』くらいは思ったが、今ではむしろ感謝していた。


「違うよ」とゆっくりと首を振る。


 一歩だけ、しかし大きな意味を持つ一歩を踏み出す。そして、彼女の大きな手を取る。


「ダリアに贈る薔薇の色はもう決まってる。今度こそ、ダリアとダリアの音楽への永遠の愛を誓って真っ白な薔薇を贈るよ」

「アポロ……それって……でも……」


 ダリアが大きく動揺し、瞳が揺れる。


 言葉はもういらない。


 ああ、そうか。。最初からこうすればよかったんだ。


 ダリアの顔に自分の顔をゆっくりと近づける。


 ダリアは一瞬、その濃紺の瞳で俺をまっすぐ見つめると、ゆっくりと目を瞑った。


 彼女の唇に俺の唇が軽く触れる。


 ただ、それだけなのに、触れ合う皮膚は火傷しそうなほど熱を持った。


 永遠とも思える一瞬の後、唇をそっと離す。


 ダリアが俺の胸に顎をつけ、縋り付くように仰ぎ見る。その濡れそぼった瞳には揺れる炎が見えた。


「もう一度……」


 その声は美しく震えていた。


 唇を強く押し付け合う。


 唇を合わせたまま強く抱きしめ合うと、ダリアの心がどこにあるのか、はっきりと分かった。

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