第二十楽章

 今日は特別なのだと思うと、なぜだか緊張した。


 ダリアは街中に飾られた薔薇の飾りのように可憐で美しく、街ゆく誰もが振り返る。いつだって美しいが、今日は特別美しく見えたし、しかもあの店主が言うことが本当なのだとしたら、その美しさは俺のためなのだ。そう思うと、なんだか嬉しいような、恐ろしいような気がした。


「ねえ、なんか緊張してる?」


 ダリアに図星をつかれ、ひどく狼狽える。


「え? そ、そんなことはない……です」


 ダリアはふわりと笑うと「です?」と聞き返してきた。


 どう考えても隠しきれていない。


「正直、緊張してる」

「ふーん。あの店主に何か言われた?」


 またしても図星である。


「い、いや、その……」

「まあ、試着室から出てきたアポロはやけに彼に従順になっていたもんね。なんて言われたか当ててみせようか?」

「や、やめてくれ」

「私が着飾る理由でも聞かされた?」


 ダリアは人の心が読めるのかと本気で驚いた。


「なんで……それを……」


 彼女は本当に楽しそうに笑う。


「君は分かりやすいから。でも、それを聞いてアポロも服を買ってくれた。私はとても嬉しいよ」


 彼女は俺の腕を取ると、耳元で「私にとっても君は特別」と囁いた。


 驚いて彼女の方を振り返る。彼女は前を向いたまま、柔らかく笑った。それは、いつもの揶揄うような笑顔ではなかった。


 その美しい横顔からしばらく目が離せなかった。


「あ! ジェラート屋が出ているよ!」

「ジェラートってあの氷菓子のことか?」


 屋台には人だかりができていた。


 氷菓子なんて当然相当な高級品な訳で、こんな街中で食べられるようなしろものではない。俺は実物を見たことすらなかった。


 屋台は小さなワゴンで、その横には手回しのオルガンがついていた。店主の男はどうやら演奏家であるようだ。その店主が時たまオルガンのハンドルを回すと、ゆっくりと薄い木の板がワゴンの中へと吸い込まれていく。その木の板にはいくつも長細い穴が開けられていた。そして、オルガンに取り付けられたラッパ状の共鳴器スピーカーからは楽しげな音楽が鳴り、それと同時に絶えずにシャボンの玉がふわりふわりと立ち昇っていた。その玉虫色に輝くそれは、風に乗ってふわりと舞い上がると手の届かない高いところでパチンと弾ける。


「なるほど、面白いね。あのシャボンの玉の中に熱を捨てているんだね」


 ダリアが感心したような声を出す。


「熱を捨てる?」

「そう。ジェラートはアポロの言うとおり氷菓子で、普通は冬の時期の氷や雪を貯蔵しておいて、それで冷やして作るんだ。でも、あのワゴンには氷や雪は入っていないようだね。魔法で冷やしているんだよ」

「よくわかるな」

「ほら、見ててごらん」


 ダリアはたった今空へと舞い上がったシャボンを指差す。それは頭上高く昇ると弾ける。その瞬間に陽炎のような、モヤのようなものが一瞬見えた。


「あ、なんだあれ……」

「陽炎のようなものが見えたでしょう?」

「ああ。見えた」

「陽炎ってね、温度が大きく違う空気が混ざり合うところで見えるものなの。空気の温度が違いすぎると光が歪むんだって」

「へー……よく知ってるな。じゃあ、あのシャボンの中には冷たい空気が入っているってことか」

「ううん、逆。あの中は熱い空気が入ってるんだよ」

「それで冷えるのか?」


 なんだか逆な気がした。


「例えば、アポロは風邪で熱が出た時とか、水で濡らした布でおでこを冷やしたりしない?」

「ああ、するな。あれ、気持ちいいよな」

「そうね。それで、おでこは冷えるわけだけど、逆に布はぬるくなるじゃない。あれと同じ」

「じゃあ、あのシャボンが濡らした布と同じように、ジェラートを冷やしてるってことか。だから、中の空気は熱くなると……」

「そういうこと」

「なるほどなあ、これなら大量の氷や雪を貯蔵しておく必要もないし、いつでも氷菓子ができるってことか……頭いいな」

「そうね。だからこそあの値段で売れるのだろうし、さぞかし儲かっているでしょうね」


 子供だけでなく、大人たちも興味津々といった感じでワゴンの中のジェラートを覗き込んでいるようだ。


「一つ買うか?」

「そうね。美味しそう!」


 ダリアは喜び勇んで、人混みへと突入していった。慌ててその後を追う。押し合いへし合いしながら、やっとのことで店主の前まで進む。


「いらっしゃい。何にします?」


 ワゴンの天板には五つの丸い穴が開けられている。その中を覗くと、色とりどりのマッシュポテトのような見た目をした何かが入っており、白い蒸気のようなものが立ち昇っていた。ジェラートには、フルーツやナッツが入っているようだ。

 

 ダリアは目を輝かせて、夢中になって中を覗き込んでいた。


「どれにしようかな……この香りは、木苺か……ふんふん。これは、ミルクにナッツだね。ねえ、この茶色と白のマーブルカラーのやつは何?」


 ダリアが一番左端のものを指をさす。


お嬢さんシニョーラはお目が高い! こちらはコーヒーとミルクを合わせた当店オリジナルフレーバーでございまして、甘いのが苦手な男性の方にもご好評いただいております」

「ふーん。美味しそうね。アポロはどう?」

「いいんじゃないか? 美味しそうだ」

「じゃあ、これをひとつちょうだい」


 ダリアは自分の財布から金を取り出し、店主に渡す。


 店主は少し意外そうな顔をした。大方、俺が従者だと思い込んでいたのだろう。


 店主は、金をワゴンの引き出しにしまうと、金属でできた銀色のスコップのようなものを取り出し、穴の中のジェラートをぐるりとかき混ぜる。そして、カップ状の焼き菓子のようなものにこんもりと盛った。


「さあ、どうぞ」

「ありがとう」


 ダリアはそれを両手で受け取った。


「さあ、皆さん! こちらのお嬢さんをお通しして!」


 店主がそう声をかけると、客たちはさっとダリアの通る道を開けた。ダリアはその人垣の間を悠然と歩いていく。彼女が目の前を通ると、誰もが感嘆のため息を漏らしていた。俺はダリアの後ろを小さくなってコソコソと付いて歩いた。


 人混みから少し離れたところにちょうど海の見える広場があった。皆、そこで買ったジェラートを食べているようだ。


 広場は今いるところから少し階段を降りたところにあった。そしてその階段はすり鉢状をしていて、まるで円形劇場のような作りになっていた。


「ここで食べようか」とダリアが階段の中腹あたりに腰をかける。


「汚れやしないか?」

「ああ、いいよ。気にしない」

「気にしないって……ちょっと立ってくれ」


 彼女を立たせて、彼女が座る位置に自分のハンカチを広げた。


 ダリアは目を見張る。


「アポロ、どこでそんな技を覚えてきたの?」

「技って……。じーちゃんに教わったんだよ。昔ばーちゃんを口説くときにつかったんだとさ」

「お祖父様は随分紳士的なのね。ありがとう」


 ダリアはハンカチの上に座った。俺もその隣に腰をかける。


「このカップも食べられるみたいね」

「そうだな。これならゴミも出ないし、やっぱり相当あの店主は頭が良いみたいだな」

「ところで、一つで良かったの?」

「ん? まあ、二つも食べられないだろうし……」

「ふーん、そっか」


 ダリアは、何か含みのある言い方をした。


「なんだよ?」

「ううん。別に? 先食べる?」

「いや、俺は後でいいよ。先に食べな」


 そう言って、差し出されたカップを押し戻す。


「そう? 後悔しない?」

「しないって。確かに甘いものなんてほとんど食べたことはないけれど、そこまでがっつかないさ」


 そう、笑って余裕をみせる。


 ダリアは納得したようで「じゃあ、お先に」と言った。


 ダリアはカップを自分の口元に持っていくと、ちろりと小さく赤い舌を出して、ジェラートを舐めとる。その時、左耳にかけていた彼女の金糸のような金髪が一束はらりと解け、頬にかかった。彼女はその束をそっと左手でかきあげる。そして、目を閉じて舌を唇へと滑らした。


 その所作の一つ一つが艶かしく、時がゆっくりと進んでいるかようにはっきりと見えた。


 心臓がどくんと脈打つ。


「んー! 美味しい!」


 彼女は喜びに打ち震えていた。


「ほら、アポロも食べな! 美味しいよ?」


 ぼうっとしながら、ジェラートを受け取る。カップから感じる確かな冷気を指先で感じ、はたと我に帰る。


 手の中のジェラートを見ると、彼女の舌が這った跡がはっきりと付いていた。その瞬間に全てを理解する。


 後悔しないかというダリアの問いはこのことか!


 たった今、このジェラートには彼女の小さな舌が接触したのである。その上からこれを舐めとるということは……。


 とんでもなく後悔した。


 ジェラートを前に固まっていると、ダリアが吹き出した。


「だから言ったのに!」

「いや、だって……気がつかなかった」

「私は気にしないよ?」


 俺が気にするのである。


 どうしたらいい? ダリアの舐めとった辺りを避けるには、カップの縁が邪魔だ。何かスプーンのようなものがあれば……。その時、あることをひらめく。


 カップの焼き菓子を割り、それで掬えばいいのだ。


 慎重にカップの端っこを割る。


「なるほど。考えたね」


 ダリアが感心したような声を出す。


「俺も、あの店主並みに冴えてるみたいだ」


 ダリアはくすりと笑うと肩をすくめ「どうだか」と戯けた。


 ダリアが舐めとったところを避け、ジェラートを掬い取る。ジェラートは思った以上に粘り気があり、焼き菓子が折れるのではないかと思うほどだった。


 掬い取ったそれを焼き菓子と共に口に放り込む。


 その瞬間、口の中に天国が広がった。


 まずは冷たさ、そして今まで感じたことのない豊かで厚みのある甘みが口いっぱいに広がる。冷たさが引いていくと、次第にミルクの温かみのある優しい風味を感じられる。そして、そのあとを追いかけるように、引き締まった苦味が鼻を駆け抜けていった。そして、焼き菓子のザクザクとした楽しげな食感が全体に満足感を与えていた。


「なんだこれ……美味しい!」

「そうでしょ?」

「ダリアもこの焼き菓子に付けて食べてごらんよ! また違った美味しさが感じられるよ!」


 俺は子供のようにはしゃいでいた。


 それからは二人で夢中になってジェラートを分け合って食べた。もちろん、焼き菓子で掬ってだ。


「ああ! 美味しかった」


 ダリアが満足げに声を上げる。


 少女のように喜ぶその姿が妙に愛おしく、心の奥を優しくつねられたように、鈍い痛みが走るのだった。

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