第十九楽章
「さあ、アポロ起きるんだ!」
ダリアは大声を出しながら寝室へと飛び込んできた。何事かと飛び起きる。
目の前にはまるで絵画から抜け出してきたような美しい姿のダリアが立っていた。
気品高いすぐり色の襟付きのワンピース。ところどころに白いレースがあしらわれており、眩しく輝いていた。そして、頭には同じ色のつばの広い、白い鳥の羽の飾りのついた帽子。それらは、ダリアの白い肌と、日に透けるほど輝く金髪によく似合っていた。
「どう?」
そう言ってダリアはその場で美しく回って見せる。腰より下の部分がふわりと膨らむ。見た目よりずっと薄く、軽やかな素材でできているらしい。
「いや、驚いた。綺麗だ……」
寝ぼけた頭のまま、正直な感想を述べる。
「ふふ。ありがとう」
「しかし、なんでそんな綺麗な格好しているんだ?」
ダリアは目を丸くし、大きなため息を一つつく。
「今日は薔薇祭りに行くんじゃないか」
確かに、そうであった。昨晩、朝から祭りを見て回ると約束していたことを思い出す。
「そうだった。すぐに支度するよ」
ダリアは満面の笑みで頷いた。
数分後、いつもの格好で現れた俺をたっぷり三十秒は見つめると、ダリアは小さな顎に人差し指を当てて考えこむ。
「なんだよ」
「んー……悪くはないんだけれど、他所行きの服はそれだけ?」
他所行きの服なんて持っていない。これは、エデンで客前に出る時に失礼にならないようにと仕立てた一張羅である。もちろん、自費である。これを仕立てた翌月は本当に食うものに困った。
「これ以外はボロしかない」
「そっか。じゃあ、まず服を買いに行こうか」
そんなに見窄らしいのか、俺は……と少し傷つく。しかし、どんな上等な服を着たところでダリアの美しさに比肩できるとは思えない。それに、金がもったいない。
「いや、良いよ。どんなに着飾っても君には釣り合わないさ。貴族の娘とその従者っていう感じで良いんじゃないか?」
「ダメ」
ダリアの声に強い意志のようなものを感じる。
「そんなにみっともないか……?」
「違うよ。そうじゃない」
ダリアは首を振ると「ただ、アポロは女心がわかっていないね」とくすりと笑うのだった。
「どうせ俺には分からないよ。でも、分かったよ。ダリアに任せる」
そう応えるとダリアは満足げに頷くのだった。
ホテルのロビーは二日前から別世界だった。街中の飾り付けはアルビコッカ家の専属演奏家の仕事なのだそうだ。街中の壁からは魔法によって色とりどりの夏薔薇が生えている。それが徐々に成長していき、最終日の今日、まさに狂い咲いていた。
「すごいな、こりゃ」
「本当に綺麗ね」
ロビーの美しさに心を奪われていると「ダリア様、アポロ様」と声をかけられた。
声の方を振り返ると、ラタンで編まれたカゴを両手に抱えたホテルのメイドが近づいて来る。そのカゴには色とりどりの薔薇が入っていた。
「綺麗……」
ダリアが感嘆の声を漏らす。
メイドはニッコリと笑うと「お一つずつどうぞ」と言った。
「ねえ、アポロ。どれが良いと思う?」
「え? 俺?」
「うん。選んで欲しい」
そう言われても、先ほどダリアに服装についてダメ出しをされたばかりであり、実際センスなんてものは持ち合わせていない。
「いや、俺には無理だよ。ダリアの好きな色にしなよ」
「アポロ様。薔薇祭りは薔薇を贈り合うのが習わしなのです。ぜひ、ダリア様に選んであげてください」
メイドは「さあ」とカゴを俺の前に突き出す。
ちらりとダリアの方を見やる。
すぐり色のワンピースだからやっぱり赤か? いや、でも同じような色だと目立たないか? とあれこれ考えていると、胸元の白いレースがひらりと揺れる。この白さが彼女の白磁の肌とよく響き合っていることに気がつく。
「あー……白かな……」
メイドはなぜか「さすがでございます」と大袈裟に頷いた。
ダリアも満足げに笑っていた。
「では、こちらを」
一際大きな白い薔薇を手渡される。
「そちらをダリア様の胸元に付けて差し上げてください」
よく見ると麻紐で小さな針が縛り付けられていた。
「この針を刺せば良いんですか?」
「そのとおりでございます」
「ダリア、良いのか?」
「もちろん。お願い」
そう言ってダリアは自分の少し胸を張る。大きく柔らかな中身が服を張らせて皺が伸びる。確かな存在感を放つそれらが気になって、どこに付るべきか分からなくなる。
「鼻の下を伸ばしてないで早く」
「ち、違うよ! どこに付ければ良いか分からなくって」
「向かって右側、鎖骨のあたりに付けてさしあげて下さい。この辺りです」
メイドに指し示されたあたりの布を慎重に摘み上げ、ダリアの肌を傷つけないように細心の注意を払いながら、のそのそと慣れない手つきで針を刺す。その間、視界の左端には彼女のくっきりと浮き出た美しい鎖骨のラインが見え、緊張してしまった。
「ありがとう」
ダリアは胸元に飾られた大輪の薔薇のように美しく笑った。
「では、ダリア様。アポロ様のコサージュをお選び下さい」
「そうね……黄色、いいえ、赤色にします」
メイドは大きく息を吸い込むと「ああ」とため息を漏らす。
「な、なに……?」
「いいえ、アポロ様、なんでもございません。ただ、私は今とても美しいものを見ているのでございます」
メイドは恭しく頭を下げた。
全く言っている意味が分からなかった。
「そうね……アポロにはこの赤が似合うんじゃないかしら」
ダリアの指差す薔薇は、天鵞絨のように黒々とした影を落とす真紅よりももっと深い赤色であった。
「ええ! アポロ様に良くお似合いでございます」
「そうでしょう?」
ダリアはメイドからその薔薇を受け取ると、慣れた手つきで俺の左側の襟に付けてくれた。
「さあ、行きましょう?」
「ああ、そうだね」
「いってらしゃいませ。アポロ様、ダリア様」
メイドはまた、恭しく頭を下げた。
外に出ると扉の側に立っていたドアボーイがちらりと俺たちの胸元を見ると「
薔薇祭りを祝っているのだろうか? 何に対しての祝辞であるのか俺には分からなかった。
*
「うーん。これも良いんじゃない?」
ダリアは、紳士用の服を両手で俺の肩口に当てがう。
「そうですね。アポロ様の赤い薔薇のコサージュともよくお似合いです」
古着屋の店主はにこやかに応える。
小さな丸眼鏡をかけた白髪まじりの紳士的な店主だった。
こんな朝っぱらから店を開けさせた俺とダリアに嫌な顔ひとつ見せずに、真摯に対応してくれていた。
「やっぱり、こっちにしようかしら」
そう言って、ダリアは両手で持った
「この服、結構高そうだし、俺にはもったいないよ」
「そんなことないよ」
「でも……何も祭りの日だからって着飾る必要はないじゃあないか」
「アポロ様、まずは着てみてはいかがでしょう?」
店主がそう提案してきた。
「そうそう。着るのはタダなんだからさ」
「さ、こちらへ」
店主とダリアに押し切られる形で俺は試着室のカーテンをくぐった。後ろからついてきた店主は振り返るとしっかりとカーテンを閉じる。
「さあ、アポロ様、お召し物を」
俺はされるがままに着ていた上着を脱がされると、後ろを向かされる。
「お袖を」
「は、はあ」
後ろ手に店主の持つジャケットに袖を通す。見た目ほど生地は厚くなく、裏地はシルクなのか、シャツ越しでもひんやりと冷たさを感じられた。これならば暑くないだろう。
店主は服の肩あたりを持って俺の肩に合わせながら声をかけてきた。
「先ほどアポロ様は、お祭りだからといって着飾る必要はないとおっしゃいましたね」
確かに言ったし、それは本心からであった。俺に上等な服はもったいない。馬子にも衣装というが、あれは嘘だ。俺がどんなに着飾ったところで紳士にはなれない。
「まあ、俺が着飾ったところで仕方がないですから」
店主は大きく首を振る。
「いいえ、そんなことはございません。ほらご覧ください」
そう言って店主は目の前の鏡を指し示す。
そこには、多少ましになった俺が映っていた。目は落ち込み眼光は鋭くとてもじゃないが優男には見えないが、このジャケットの少し堅い印象と相まって、目つきが悪いというよりは、なんとなく男らしいように思えた。
猫背気味の背筋が自然と伸びる。
「背筋が伸びますでしょう?」
「ええ。不思議です」
「何も音楽だけが魔法ではないのです。少し良い服を着ると自然と人は前を向けるようになるのです」
確かに、この姿の俺ならば少なくとも見窄らしいとは感じない。卑屈にならずに済む気がした。
「確かに、そうかもしれません。でも、もったいなくはないですか?」
「もったいない?」
「俺がどんなに着飾ったところで、ダリアに釣り合うような男にはなれませんから」
「なるほど……。アポロ様、差し出がましいようですが、ひとつ申し上げてもよろしいでしょうか?」
「ええ……まあ」
「ダリア様はなぜ今日、着飾っているかお分かりになりますか?」
そう、それが分からないのだった。いつだって、どんな服を着ていたってダリアは美しいのだ。だったら、なんだって良いではないか、そう思うのだ。
「分かりません」
店主は小さく頷くと小声で続ける。
「今日という日を、人生の特別な日の一つとしてお選びになったからです」
正直ピンときていなかった。
「特別な日……?」
「そうです。今日という日を特別な日にしたい。だから、自分を特別に着飾る。そしてそれは、誰であろうアポロ様に特別と思って欲しいからですよ」
それはつまり……。
俺は、耳まで赤くなる。
「可愛らしいじゃあないですか。さて、アポロ様はどういたしますか?」
「どうって……」
「あんなにも素敵な女性があなた様を想って着飾っているのです。アポロ様も誠意を見せるのが筋ではないでしょうか。それに……」
店主は俺の両肩にそっと両手を添えると鏡越しに俺の目を見つめて囁く。
「アポロ様もダリア様の特別になりたくはないですか?」
この店主、悪魔的な商才があるようである。
俺は無意識に頷いていた。
そして店を出る頃にはすっかり財布が軽くなっていた。この服は、ガルリア蒸留所の日給の四日分ほどであった。
普段なら、絶対に買わない金額だ。しかし、今日は特別なのだ。そう、自分に言い聞かせるのであった。
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