第十三楽章

「起きろ!」


 声を張り上げ、窓の鎧戸を開け放つ。


 部屋の中に夏の日差しが容赦なく突き刺さる。


 それと同時に、声になっていない悲鳴が背中で聞こえる。


 窓の向こうに見える青く美しい湾は陽光をうけ、水面はダイヤモンドのように激しくきらめいている。


 海鳥だろうか、白く大きな鳥が群れを成して、頭上を飛び去っていく。


 胸いっぱいに朝の、いや昼過ぎの空気を吸い込むと、潮風と共に小麦の焼けるいい匂いがした。宿屋の一階にあるカフェレストランからだろう。


 昨晩食べた、ピスケの少し焦げ目のついた厚ぼったい生地のもっちりとした食感と、海老とチーズの織りなす美しいハーモニーを思い出していると、背後で「うう……」とうめき声が聞こえた。


 ため息をしつつ振り返り、声の主に語りかける。


「一体、いつまで寝ているつもりだ」


 ベッドの上には丸まったシーツ。


 稀代のバンドネオン奏者であり、我が主人のダリアは、もう昼過ぎだというのに惰眠を貪っていた。


 シーツがもぞもぞと動き出し、口を開く。


「……朝は無理やり起こさない……という契約だ……」

「もう、昼過ぎだ。だから、契約違反でもなんでもない。さあ、起きて顔を洗うんだ!」

「大きな声を出さないでおくれよ……私は今、大変な病魔と戦っているんだ」


 病魔……馬鹿馬鹿しい、昨晩派手に酒を飲んでいただけだ。つまるところ、ただの二日酔いだ。されど二日酔いであるが……。


 昨日ホテルに戻った時にはまだダリアは帰ってきていなかった。一応、護身用の楽器も持っていたし、その時はあまり心配ではなかった。しかし、ダリアは日付を過ぎても戻ってこなかった。何かトラブルに巻き込まれたのではないかと心配でたまらなかった。


 結局、ダリアは二時過ぎに帰ってきた。しかも、泥酔した状態で。


 聞けば、黒い森亭に行き散々飲んできたらしい。


「いいから、起きろ!」


 シーツの端をつかんで力任せに剥がしにかかるが、なかなかどうしてシーツの化物も力が強く、なかなか正体を表さない。


 女に力負けするほど、痩せて非力な自分に腹が立つ。


 なんとかダリアを起こそうと、躍起になる。


 ダリアには珍しく焦ったように「ちょ、ちょっと待ってくれ」と懇願する。


 そうはいかない。


 今日は、絶対にやってもらわなければならないことがあった。


「ダメだ! 話があるんだ!」

「本当に待って! 後悔するのはアポロ、君の方だぞ!」

「そんなこと言っても、ダメなものはダメだ!」


 その瞬間、何かに足をとられてシーツを掴んだまま後ろにひっくり返る。


 腰の鈍い痛みに耐えながら、一体何を踏んだんだと、諸悪の根源をむんずとつかんで見てみると、それは、光沢のある白い布だった。


 ひんやりとした滑らかな感触のそれを両手で広げてみると、それは、女性用の下着だった。

  

 一瞬で思考が凍結する。


 その白い下着の向こうには、焦点があっていないためぼやけてはいるが、ダリアが胸を押さえてベッドに座っている様子だった。


「ご、ごめん!」


 咄嗟に、座ったまま後ろを向く。


「だから、言ったろう。君が後悔するって」


 ダリアがベッドから立ち上がり、近づいてくる気配がする。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。ふ、服を……」

「その服を、君が今握りしめているんだが?」


 咄嗟に握りしめた下着を放り投げる。


「何も、放り投げなくてもいいだろう。昨日取り替えたばかりだよ」という恨みがましい声が聞こえると同時に、ダリアがすぐ近くで屈んだ気配がした。


 衣擦れ音を聞くまいと、耳を塞ぐ。


「も、もう着たか?」

「ええ」


 ほっとし胸をなでおろし、立ち上がってダリアに向き直る。


 下着姿だった。


 首筋から小さくつるりとした肩への柔らかな曲線。少し緩んだ襟元からは、形の良い健康的な二つの膨らみが覗く。その膨らみの上を滑るように包む、真っ白に輝く下着の布が、膨らみの頂点から瀑布の様に悠々と垂れ下がっている。その先には引き締まった腹部が見え、そこには細く縦にのびた小さな窪みがまるで彫刻のように刻まれていた。


「下着のままじゃないか!」


 ダリアは、金色に輝く髪をかき上げると一言「でも、裸じゃない」と高らかに宣言する。


 もう一度、後ろを振り向き「服を着てくれ」と懇願する。


 すると、背中に柔らかい何かが当たるのを感じた。


 これは……まさか!?


「まあ、良いじゃないか。見られても減るもんじゃないし」

 

 耳もとで囁かれ、背中に何かぞくぞくと何かが這い回る。


「俺の精神がすり減るんだよ!」

「あら、そう? 残念」


 ダリアはようやく揶揄うのをやめたようで、俺から離れると着替え始めたようだった。


 まだ、振り向くのは危険と判断し、先ほど開け放った窓に近づき外を眺め、しばらく時間を潰す。


「着た?」

「着た」


 恐る恐る振り返ると、ホテルのガウンを着たダリアがベッドにあぐらをかいて座っていた。ガウンの隙間から何かかが覗きそうだったが、もう指摘するのも疲れた。


 本題に入ることにする。


「仕事をしよう!」

「やだ」


 ダリアはノータイムで答える。


「でも……」

「やだ!」


 取り付く島もない……。


 昨晩ホテルに戻ってきた俺は、勇気を出してこの部屋の一泊の料金をフロントに聞いたのだ。彼の口からは、予想の数倍の金額が飛び出した。どうやらこの部屋はこのホテルの中でも最も高価であるらしく、たった一泊でタリアータ国民の平均月収を軽く超えていた。


 腰が抜けそうになるのを必死に堪えながら、明日から働くことを強く誓ったのである。


「このままじゃ、本当に破産するぞ」

「契約の時にも言ったが、私は働きたくなるまで働かないの! それに、大丈夫だよ。何とかなるって」


 ダリアは、屈託のない笑顔でそうのたまう。


 今度はこっちの頭が痛くなってきた。


「ダリアなら、街中で演奏をするだけでも稼げるんじゃないか?」


 実際、路上で演奏を披露して日銭を稼ぐ演奏家も少なくない。しかもダリアは第一級の演奏家である。かなりの集客を見込めるはずだ。そして、噂にでもなればどこかの高級店から演奏以来があるかもしれない。


「それは、無理」


 ダリアはきっぱりと言う。


「なんでさ! 無理じゃないって」

「ねえ、この街は観光地なのに路上で演奏している音楽家はもちろん、露店すら出ていないのに気がついてる?」


 言われてみれば……。


 音楽家はともかく、露店が一軒もないというのは異常だ。ナポレアーノよりも遥に冴えない(しかし一応観光地である)俺の故郷、カップリーニですら多くの露天商が居た。


「確かに……なんでだ?」

「この街の商売のほとんどはギャングが仕切っているから」

「ギャングだって!?」

「そう。だからアポロも路上演奏なんか考えない方がいいよ。もし、そんなことをすればギャングの手下がすっ飛んできて、大金を要求されるから」

「それって、みかじめ料ってことか?」


 ダリアは大きく頷く。


 そして、やけに芝居がかった声で続ける。


「もちろん、断れば……」

「断れば?」


 ダリアは窓の海を指差す。


「次の日にはあそこに沈んでるよ」


 馬鹿な……。


「でも、なんでギャングなんかがのさばってるんだ?」

「この街が観光と漁業の街だからだよ」

「ごめん、意味がわからない」

「漁業も観光も簡単に新規参入できるようなものじゃない。立ち上げには相当な元手がいるでしょう? だから、働き口を求めてこの街に来た移民たちの多くは、思うように稼ぐことができず、貧富の差はどんどん拡大していったの。そして、食うに困った移民たちは、旅行客から詐欺やスリを働いて日銭を稼ぐことになった」


 確かに、観光地にはスリや盗人の類が多いと聞く。カップリーニにもそういう人種は一定数いた。


「そうして街に溢れた荒れくれ者どもは、より大規模かつ効率的に金を稼ぐために、組織化されていった……それら組織はいつしかギャングと呼ばれ、この街の裏の支配者となるまでに成長したのよ」

「でも、この街を統治しているのはアルビコッカ家だろ? なんでそんな奴らを放っておくんだ?」

「ギャングたちが組織化されているからこそ、制御できるの。もし、ギャングたちを弾圧すれば、内乱に発展する可能性もあるし、もし壊滅させることができたとしても、組織に統治されてたはずのゴロツキ共が野に放たれれば、血で血を洗う抗争に発展する可能性もある。それにね……彼らが旅行客から巻き上げたお金の一部は、アルビコッカ家に流れているという噂もあるのよ」


 国内有数の観光都市というのがこの街の表の顔だとすれば、ギャングたちは文字どおり裏の顔なのである。


「じゃ、じゃあどうやって稼げば?」

「さあ? どうしようね?」


 ダリアはにっこりと笑うのだった。

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