第十二楽章
ダリアが出ていってからすでに半日が経過していた。日は完全に落ち、部屋の中には涼しい夜風が吹いている。
体調はすっかり良くなっていた。
それと同時に食欲まで戻ってきて、今は空腹で気持ちが悪いほどだった。
(そりゃ、食べたものほぼ出したわけだしな。腹は減るはずだ)
今日はもう体調は回復しないだろうと思い、水以外何も口にするつもりはなかったが、体調が回復したとなれば話は変わってくる。
ダリアと共に旅立つことを決めた時、いくつかの家財道具を売って路銀に変えていた。しかし、一切の旅の費用はダリアが出すという契約になっていたため、今日まで使うことはなかった。
実は、ダリアから旅の費用とは別に給料も支払うという申し出もあったのだが、さすがに気が引けたため断り、バンドネオンの調律をするのにかかった部品費と幾許かの工賃を都度請求するということで落ち着いたのだった。
(金は多少あるし、何か食べに行くか……)
今まで一人で外食などしたことなどなかったため、少しわくわくしていた。そして、多分緊張も。
とりあえず、ベッドから起きて着替えを済ます。
どこに食べに行こうかと思案するが、特にこれと言って思い付かない。
それもそのはずで、今まで食事の内容を選択したことなどなかった。ダリアと出会う前はその日手に入る一番安い食材で料理をしていたし、ダリアと旅をするようになってからは基本的に彼女が決めていた。
この街で知っている店といえば、お昼を食べた
とりあえず、適当に街を散策してみることにした。
中心街はここから歩いて一時間ほどである。湾岸沿いにメインストリートが通っており、その通り沿いには何軒か店があったはずだ。もし目ぼしい店がなくても中心街に行けばきっと何かしらの飲食店は見つかるはずだ。
そんなことを考えながらホテルから出ようとしたところで何者かに呼び止められる。
「アレグリア様、アレグリア様!」
声の方を振り返ると、カウンターの中の従業員が俺を呼んでいる。
まさか、宿泊費が払えないことがバレたのか!?
心臓が縮み上がる。
ロビーにいた数人の身なりのいい客たちが俺の方を見つめていた。
逃げるわけにはいかない。
生唾を飲み込み、カウンターへと近づく。全身に嫌な汗が噴き出す。
「な、なんですか?」
声が震えていた。
「お出かけのところ、呼び止めてしまい大変申し訳ありません。お部屋の鍵をお預かりします」
そういえば、昨晩例の黒い森亭に出かけるときに、ダリアが部屋の鍵を預けていたことを思い出す。
このまま持って出れば、もしダリアが先に帰ってきてしまった場合に鍵がなくて部屋に入れなくなるところだ。
「ああ、ごめんなさい。えっと……」
鍵を入れていたズボンの右ポケットに手を突っ込む。鍵を取り出す際、鍵に付いている動物の毛皮で作られた玉飾りがポケットの入り口に引っかかり、恐ろしくもたついてしまった。
「すみません。どうぞ」
従業員は満面の営業スマイルでそれを受け取ると「お食事ですか?」と聞いてきた。
「ええ、まあ」
「当ホテルのレストランはもうご利用になられましたか?」と男が左側を指し示す。
そこには、いかにも高級店といった風格の重厚な黒檀製の扉があった。扉の中央には金色の金属製プレートが嵌め込まれていて、遠くてよく見えないがおそらく店名が書かれていた。扉の脇には、そのレストランのウェイターと思われるエプロン姿の男が控えていた。
あそこで食事をすれば確実に破産する。
「い、いや……今日は街で食事を取ろうかと」
「そうでしたか。これは失礼いたしました。よろしければ、おすすめのお店などをご紹介いたしましょうか?」
このホテルがすすめてくる店は大方高級店に違いない。入れるわけがない。
しかし、ここで紹介すら断れば無一文で宿泊していることを勘付かれるのではないか? 聞くだけならタダだ。別に行かなければ良い。いや、まて……予約しましょうか? なんて言われたらどうする? それどころか、おすすめの店とやらはこのホテルの系列の店で、俺が結局行かなかったことも筒抜けになるのではないか?
そんな考えが頭の中でぐるぐると回る。
沈黙はまずいと思ったが、なんと答えるのが正解なのか分からなかった。
「すでにお決まりでしたか?」
渡に船である。
「ええ、まあ。知り合いの店にちょっと……」
「そうでしたか。差し出がましいことをいたしました。お許しください」
男が丁寧に詫び、頭を下げた。
なんとも居心地が悪く「ええ」だか「はあ」だか言葉にならない返事をして、そそくさとその場を後にした。
結局目ぼしい店はなく、中心街まで来てしまった。
ちょうど夕食時であるためか、旅行客で賑わっていた。
中にはすでに酔っ払っているのか大声で歌っている者もいた。
ここでは、誰も俺のことなど気にも留めず、めいめいが好き勝手に人生を楽しんでいる。孤独ではあるが、決して寂しいという訳でもなく、それがなんとも気楽で楽しかった。
夜の少し馴れ馴れしい街の空気の中を適当にぶらついていると、気づけばそこはカップリーニからの船が停泊した波止場だった。
辺りを見渡すと、すぐ近くの段差を一段上がったところ、メインストリートの海岸沿いに煌々と輝くランプの列が見えた。
光に群がる虫のようにふらふらと近づいていくと、それは飲食店のテラス席だった。海岸沿いに木製のテーブルと椅子が並べられ、そのテーブルの一つ一つに明るいランプが置かれている。ズラリと並ぶそれらは、まるで光のネックレスのようだった。
段差を上がってメインストリートへと出る。どうやら、実際の店舗はメインストリートを挟んだ向いにあるらしい。通り沿いは飲食店が所狭しと並んでおり、店外へと煌々輝く灯りと客たちの笑い声が漏れ、活気に満ちていた。
どの店も店内は狭く、せいぜい数組が入れる程度である。少しでも客席数を稼ぐために、海岸沿いの脇道を有効利用してテラス席を設けているのだろう。よく見れば、店ごとにテーブルやランプのデザインが異なるようだ。
テラス席の近くは立て看板があり、店名と簡単なメニューが書いてある。ありがたいことに値段も書かれていた。観光地のため、割高ではあるものの、手が出ないというレベルではなかった。
どうせなら海側のテラス席がいい。目ぼしい店が無いかとメインストリートを進んでいく。ふと、目線を沖の方へと送ると遠くに故郷のカップリーニ島の灯台の灯が見えた。
(故郷を眺めながらの食事も悪くない)
辺りを見渡すと、ちょうど二人がけのテラス席が空いていた。
その店の名は「蛍火」といった。
メインストリートを一旦渡り、店内を覗き込む。
「あの……」
「いらっしゃい!」
赤毛の女性が店の奥から応えた。
「あそこのテラス席、空いてますか?」
「あそこ? ああ、空いてますよ! 座って待ってて! ああ、これメニューね」
彼女に手渡された紙に手書きされたメニューを持ってテラス席へと座る。
波音と夜の潮風がとても気持ちが良かった。
しばらく、故郷の灯台を眺めながら本当にあの町を出たのだなと、しばらく感慨に浸っていると先ほどの店員がやってきた。
「さ、何にする?」
何も考えてなかった。
急いでメニューを確認するが、こんなに沢山の中からは決められそうに無い。
「あー、おすすめってあります?」
「おすすめ? そうね。ムルソー貝のグラタンとか、あとはやっぱりピスケかな」
「ピスケか」
ピスケはよく練った麦粉の生地で具材を包み、石窯で焼いた料理で、このタリアータではさまざまな地域で食べられる国民食である。その地域ごとに特色があり、例えば皮と肉の街であるフィオレンティーノでは、肉とニンニクとじゃがいものピスケが有名である。
そしてここナポレアーノはピスケ発祥の地であり、「ナポレアーノ・ピスケを食べずしてタリアータを語ることなかれ」とまで言われている。
「それじゃあ、ピスケを」
「かしこまり! 飲み物は?」
「あー、お酒以外は何かある?」
「お酒以外? 水牛のミルクなら」
「じゃあ、それを」
「おっけー! パーフェクト!」
彼女は軽くウインクすると、店へと戻って行った。
ただ、注文をしただけなのだが、なんだか少しだけ大人になった気分だった。自然と顔がほころぶ。
(一人だってちゃんと出来るじゃないか)
今更ながら、知らない土地で一人という状況に不安を覚えていたことを自覚した。
しばらくすると赤毛の彼女が、ミルクとピスケを持ってやってきた。
「お待たせ! 楽しんで!」
彼女は別の客に呼ばれ、小走りに去っていった。
その後ろ姿を目で追う。
今更ながら彼女はまだほんの少女であることに気がつく。俺よりもずっと小さい子供に緊張してい自分に思わず苦笑いをする。
(さてと、食べるか)
皿の上のピスケは伝統的な半月型をしている。このナポレアーノのピスケは“ラウラ”という別名がある。その起源は建国の王の妃、ラウラ=タリアータ女王である。当時大変な人気があったそうで、彼女の名を冠したピスケが誕生した。
火傷しそうなほど熱い、焼きたてのラウラを両手で掴み、一口齧る。中には水牛のフレッシュチーズとバジルソース、そしてたっぷりと海老が挟まれている。これが、ラウラである。
バジルの食欲をそそる豊かな香りと、チーズの柔らかな酸味としっかりとした旨味に加え、海老のぷりぷりとした食感が楽しい。そして、隠し味程度に入ったレモンの果肉が爽やかなアクセントを加えている。生地は少し厚めで、口の中でもっちりと弾む。
ナポレアーノが近かったカップリーニにもラウラを出す店があった。幼いころじーちゃんに何度か食べさせてもらったことがある。しかし、本場で食べるそれは、やはり特別感があった。
腹が減っていたため、夢中でかぶりつく。手でつかんで食べられるという手軽さもピスケの魅力だ。ほとんど一瞬のうちに完食してしまった。
この店のピスケはかなり大きく、一つで十分腹が満たされた。
(そのうちダリアを誘ってまた来よう)
すっかり存在を忘れていた水牛のミルクを飲みながら、ふと通りに目をやる。
大勢の旅行客たちが往来している。そして、皆同様に幸せそうに笑っていた。
タリアータ有数の観光地、ナポレアーノ。この穏やかで美しい情景がこの街のほんの一面に過ぎないことをこの時の俺はまだ知らなかった。
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