第十一楽章
飲み屋での鮮烈なデビュー(二重の意味で)を果たした翌日、俺は酒というものの真の恐ろしさを知ることになる。
朝起きると頭が割れそうなくらい痛かった。そして、止まらぬ吐き気。極め付けは身体中から立ち上る酒気……。
この嗅いでるだけで吐きそうになる酒気を消すためにも、湯浴みをしたいがしかし、とてもじゃないがベッドから立ち上がることはできない。
立ち上がれないのだから、トイレにも行けない。それはつまり、定期的に腹と胸の中で暴れ狂う吐き気という怪物の猛攻をベッドの上でただじっと生唾を飲み込みながら耐えるしか出来ないということである。
もう、何度目なのか分からない怪物との激戦を乗り越え、目に涙を浮かべながら浅く息をしていると、ダリアが部屋へと入ってくる気配がした。
「アポロ……大丈夫?」
当然、口を聞くことなど出来ない。
シーツが捲られ、その途端に陽光が瞼を容赦なく焼き、目の前が真っ赤になる。それと同時に頭の痛みがさらに激しくなる。
声にならない悲鳴を上げ、身を捩っていると、額に冷たい感触があった。
ダリアが濡れタオルで額を拭ってくれているようだ。
「お水飲んだ?」
水だって!?
この状態では何も口にいれられない。何か入れようものならば絶対にまた吐いてしまう。
首を横に振ろうにも力が入らずうまく意思表示できなかった。
ダリアに首を抱えられる形で体勢を起こされる。
途端に、胃の中から強烈な酒気と共に吐き気が昇ってくる。必死で口を手で覆って、吐き気を飲み込もうと喘いだ。
「吐いた方が楽になるよ」
ダリアの優しい声が頭上から聞こえる。
しかし、彼女の前で醜態を晒すわけにはいかない。
必死になって首を横振った。
しかし、それがいけなかった。
今までで一番大きな吐き気が襲ってきて、決壊寸前まで追い込まれる。もう、意識ではどうにもならなず、胃が勝手にひっくり返る。それも何度も。
「ちょっと待ってて」
ダリアはそう告げると、寝室から出ていった。
少し心細かったが、醜態を晒すよりはマシだ。
とにかく今は、この怪物と戦わなければ……。
でも、もうこれ以上耐えられそうにない。いっそのこと、楽になってしまおうか。しかし、ベッドを汚してしまえば、きっと弁償しなければならないな……と極限状態の脳は変に冷静だった。
その時、ダリアが戻ってきた。
「ほら、ここに吐いて」
胸に何か冷たいものを押し付けられる。
正体を確かめようと薄目をあけると、それは洗面器だった。陶器製で、腿にずっしりとした重量を感じる。
ダリアは良くもまあこんなに重たいものを持ってこれたなと、また変に冷静な思考を巡らしていた次の瞬間、胃がぐぐぐと持ち上がり、喉の奥が開く感覚がした。
ついに俺は洗面器の中へと首を突っ込み盛大に吐いた……つもりだった。
何度も、何度もえずくが胃の中のものは一向にででこないし、それでいて一度発射体勢に入った体はがむしゃらにトリガーを引く。最早拷問である。息も絶え絶えになり、目には熱いものが込み上げてきた。
ああ、もういっそのこと殺してくれ……!
その時、ダリアの声が聞こえた。
「ちょっとごめんね」
何を謝っているのだと一瞬疑問に思うが次の瞬間には何か棒のようなものが口の中に侵入してくる感覚があった。それは、おそらくダリアの長く逞しい指であった。
口の中に侵入してきたダリアの指は、一直線に喉の奥まで侵攻すると、舌根を優しく押下する。
そして、俺は汚辱にまみれた。
*
「大丈夫?」
ダリアはそれからしばらく背中をさすってくれた。
自分が情けなく、死にたくなる。
「ごめん。本当に……」
「いいのよ。少しは楽になったんじゃない?」
言われてみれば、あれほど猛威を振るっていた吐き気はほぼ無くなっていた。
「あ、ああ。大分楽になったよ」
「良かった。ほらお水を飲んで?」
ダリアは水差しからグラスに水を注いで差し出した。
「いや……でも、何かに当たったのかもしれないし……生水は……」
心当たりと言えば、昨日の水割りだ。今は初夏といえどもここ数日はかなり気温も高いし水が腐っていたのかもしれない。
ダリアは目を丸くして、そして笑い出した。
「アポロ、それは二日酔いだよ!」
「二日酔いってなんだ?」
「お酒ってね、飲み過ぎると次の日も頭痛や吐き気が残るの。今のアポロみたいにね。それを二日酔いっていうの」
人は酔うと吐いたり頭が痛くなるのは知っていた。エデンの客たちがその身を犠牲にして教えてくれたし、昨晩自らも経験したから。しかし、次の日まで影響があるなんて全く知らなかった。
やっぱり酒はろくな飲み物じゃない!
昨晩だってあんなに気持ち悪くて、宿へと戻る道中にも何度か吐いたのだ。しかし、寝室に戻った時には大分吐き気もマシになっていた。だから、朝起きた時、自分の不調に困惑したし、何かに当たったか病気になったと思ったのだ。
心の奥底から湧き上がる酒への憎しみ。
「二度と酒なんか飲まない……!」そう宣言して、ダリアの差し出した水を一気に飲み干す。
焼けた喉が清められ、気分も多少すっきりとした。
ダリアは実に愉快そうに笑いながら頷いた。
「私もいつもそう思うよ。しかし、人は忘却の生き物でね。気づいたら飲んでるんだ。お酒の魔力は恐ろしいね」
「いや、俺はもう、金輪際、二度と、酒を飲まないぞ!」
「それもいいさ。ただ、君は今日確実に大人の階段を一段登ったよ」
全く嬉しくない。
しかし、なぜダリアはこんなにも元気なんだ? 不公平じゃないか!
「なんでダリアは平気なんだ?」
「平気ではないよ。私だって、今朝はベッドの上でうんうん唸っていたさ。でも、慣れっこだからね、対処法をいろいろ知っている。だから、アポロより早く回復したというだけ」
なるほど。しかし、二日酔いへの対処法をいろいろと知っているのはあまり誉められたことではない気がする。
「さてと、もうお昼もとうに過ぎているけれど、アポロはまだ何かを口にする気分じゃないよね?」
全くもって食欲はなかった。
「ああ、水以外受け付けなさそうだ」
「そっか。分かった」
「どこか出かけるのか?」
「まあ、ホテルこもっていても仕方がないしね。街を見て回ってくるよ。大丈夫。ちゃんと帰ってくるから。初めて会った時も帰ってきたでしょう?」
そう言ってダリアは俺の頭を優しく撫でた。
実際、それもちょっと不安だったので少し安心した。まあ、そんなことは悟られるわけにはいかないが。
「別にそれを心配しているわけじゃない」
「ふうん」
ダリアは目を細める。
この目をする時のダリアはまずい。
「な、なんだよ」
「いや? 帰って来ないことは心配してないってことは、他のことは心配してくれているってことかなって」
ダリアは「よしよし」と俺の頭を撫で続ける。俺はその手を「子供扱いはやめろよ」と払い除けた。
しかし、実際のところ心配はしていた。
ダリアは身なりもいいし、見た目もその……綺麗だ、と思う。だから、暴漢などに襲われる可能性も高いはずだ。そもそも、女一人旅で今まで何もなかったことの方が奇跡といえよう。
「まあ、でも心配してくれてありがとう」
「何が?」
「私の身を案じてくれているんでしょう? 私が女だから」
「ま、まあ。多少は」
多少ではなくかなり心配だった。
「大丈夫。ナポレアーノは観光地でそこそこ治安は良いし、それに私は第一級の演奏家だよ? 危険な目に遭いそうになれば魔法を使うよ。今までもそうしてきたしね」
やっぱり、危険な目に遭ったこともあるのだ。
「でも、バンドネオンなんて咄嗟の時に出せるものなのか?」
ダリアはなぜか誇らしげに胸を張ると「これだよ」とその大きく膨らんだ胸元を指差した。
よく見るとダリアは首から革紐をかけており、その紐は胸の谷間へと続いていた。
「な、なんだよ?」
ダリアは首にかけた革紐を引っ張って胸の谷間から何かを取り出す。その何かが谷間を抜けるとき、胸が小さく弾むのが見えた。
「アポロ? 胸ではなくこっちを見てくれない?」
ダリアの言葉で我にかえり、谷間ではなく胸の前に掲げられたものに慌てて焦点を移す。
それは、白く細長い形状をしている。ちょうど手のひらに隠せる位の大きさのそれには、いくつか小さな穴が空いていた。
「もしかして笛?」
「そう。骨笛。これは大鷹の骨で出来ているの。小さい頃、お祖父様からもらったお守り。こんな小さくてもちゃんと演奏できるし、魔法だって発動するよ。もちろん、バンドネオンほど強力なものは使えないけれど。私が得意なのは、“二日酔いの状態を思い出させる”という魔法。試してみようか?」
「やめてくれ……」
二度とあんな辛い思いはしたくない。
しかし、楽器があるならば大抵の危険は回避できるだろう。
「安心した?」
「まあ、そうだね」
「体調は大丈夫そう?」
「ああ、しばらく横になれば大丈夫そうだ」
ダリアは安心したように頷くと「じゃあちょっと出てくるよ」と言って、部屋を出ていった。
ダリアのいなくなった部屋はやけに静かで少し寂しかった。
「とりあえず、この洗面器を片付けるか」
俺の声は誰もいない寝室に虚しく響いた。
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