第十楽章
親父が木製のカップを二つ持って戻ってくる。
ひとつはボウルのような形状で、もうひとつは背の高いコップ型をだった。
ダリアは差し出されたボウル型のカップをまるで聖杯でも受け取るかの如く、両手で丁重に受け取る。そのままカップに鼻先を近づけて深く深呼吸をすると「ああ……」と感嘆を漏らした。
「こりゃ、相当な酒好きだ」とその様子を見ていた親父が笑う。
「さ、お兄さんもどうぞ」
俺は恐る恐る差し出されたカップを受け取る。
親父は不安な俺を残してさっさと店の裏へとひっこんでしまった。
「さあ、乾杯しよう!」
ダリアの鶴の一声で酒宴が幕を開ける。
皆持ったカップを掲げ、軽く合わせる。
コツンと軽い音が鳴った。
ダリアは、ボウルを一気に煽ると中の酒を一気に流し込んだ。
その様子を見ていたカルロとブルーノは今度こそ開いた口が塞がらないといった様子だった。ブルーノにいたってはメガネがずれている。
「お、おいダリアさん。そりゃマールじゃないのかい?」
ブルーノはずれたメガネを指で直しながらそう問う。
「え? そうですよ?」
この二人の反応から察するに、どうせ一気飲みする類の酒じゃないのだろう。
「なあ、ダリア。それ一体何度なんだ?」
「これ? そうね……四十五度くらい?」
やっぱり……。
この毒薬が四十度。それよりもさらに高い度数。一気飲みするような酒ではないのは確かだ。
「飲み過ぎるなよ?」
そう言う俺の鼻先に人差し指を突きつけ「契約違反だぞ」と笑う。
確か、ダリアの酒の飲み方には口出さない、だったな。
「分かってるよ」
「アポロは飲まないの?」
「今、心の準備してる」
それを聞いたカルロは豪快に笑う。
「兄ちゃんそんなびびんなくたって大丈夫さ」
「この子、今日のお昼リモンチェッロを一気飲みして、トラウマになってるんです」
「なんだって? そりゃあ兄ちゃん災難だったな! 嬢ちゃんの飲み方でも真似たか?」
そのとおりである。こくりと頷いて肯定の意を示す。
「そいつは、水割りだ。つまり薄めてあるから、恐ろしいことにはならねえさ」
本当か?
恐る恐る匂いを嗅いでみる。
お昼に感じた刺激的な香はほとんどなかった。薄まっているというのは本当らしい。
一口だけ、舐めるように口に含む。
次の瞬間、口の中に爽やかな風が吹いた。
レモンの清涼感のある澄んだ酸味とほろ苦さが口いっぱいに広がってく。そして後から優しい甘さが追いかけてきた。
「うわ……なんだこれ。昼間飲んだのと全然違う」
ダリアは「そうだろう!」と満足げに頷いた。
「お酒は奥が深いの。音楽のようにね」
ダリアが好きなものを自分も美味しいと思えることがなんだか嬉しくて体がふわふわした。
ダリアはその後も、マールをおかわりし続け、みるみる酔っていく。
終いには、カルロとブルーノの間に入って肩を組み、ステージの演奏に合わせてゆらゆらとやっていた。
俺は、この店のお勧めだという、茹でたじゃがいもの上にチーズを乗せ釜で焼いた料理をつまみに、ちびちびとやっていた。
このチーズがまさに曲者で、強い芳香を放つのだが味わいは濃厚そのもので、じゃがいもの土の香りとよく合う。そして、チーズの上に振りかけられた何かの種子の独特な香りとマッチして、癖になるハーモニーだった。
そして、これがまた、リモンチェッロに合うのである!
なるほど、これが酒飲みの愉悦かとふわふわと揺れる頭で理解する。
しかし、これ以上酔えば店主と約束した演奏ができなくなりそうだ。
ダリアは……もうダメそうだった。
顔を真っ赤にし、目はとろりと潤み、見るからにふらふらとしている。
これ以上はまずい。
ちょうど、ステージの上では弦楽団が演奏を終えたところだった。
「なあ、ダリア……そろそろ……」
「なに!? わたしはまだかえらないぞー!」
「そうだぞ! ダリアさんはまだいける!!」
ダリアもカルロもブルーノも明らかに呂律が回っていない。
「そうじゃなくてさ、ほら約束したろ?」
「なに?」
「いや、だから演奏をさ……」
「えんそう? ああ、そういえばそんなやくそくあったっけ」
そんな約束ではない。その約束のおかげでこうしてベロベロに酔えているのである。
「ようし……やりますか……」
そういう彼女の目は完全に据わっている。
なんだか危険な香りがぷんぷんするが、止めるわけにもいかない。ダリアに演奏してもらわなければ、無銭飲食で捕まるのだ。
「お! ついにダリアさんやるのかい!!」
ブルーノのメガネは完全にズレていた。
「ようし、俺が声をかけよう」とカルロがよろよろとステージに近づく。
弦楽団の演奏を聴き終えたステージ前の客たちは自席へと戻っていくところだった。
カルロが大声を張り上げる。その声は、彼の胸板のように厚く、この酒場の空気をビリビリと振動させた。
「黒い森亭にお集まりのお客人よ!!」
遠くで誰かが「あんたも客だろうが」と愉快な野次を飛ばした。
「今日は運がいい。一生で一度あるか無いかという幸運だ! ここにおわしますダリア嬢はなんと!」
大袈裟な身振り手振りでダリアを指し示したカルロは、絞り出すような囁き声で告げる。
「第一級の演奏家様だ」
店内に白けた空気が充満していく。
皆、酔っ払いの戯言だと思っているのだろう。
こんな雰囲気の中、ステージに立たなければならないなんて……なんてことをしてくれたんだカルロよ。
しかし、当のダリアはその白けた空気を少しも気にすることなく、ふらふらとステージに上がると右手を高く掲げる。
まあ、空気を読み取れるほどの酔い具合では無いだろうが。
店内にはまばらな拍手が寒々しく響く。
「ごしゅじん! あれを!」
ダリアは叫ぶ。
ややあって、あの親父がバンドネオンとヴァイオリンを持ってやってきた。
明らかに心配そうな顔をしている。きっと、後悔しているに違いない。
ダリアは相当飲んでいた。
もし、演奏が最悪だった場合、大損である。
ダリアはその完全に据わりきった目できょろきょろと店内を見渡す。
そして、恥ずかしさで縮こまっている俺を見つけると叫んだ。
「あぽろ! なにやってるんだ。しごとのじかんだぞ」
もう、どうにでもなれ!
俺は親父からヴァイオリンを受け取ると、ステージに上がる。
客たちの冷ややかな目が痛かった。
ダリアはそのへんに転がっている酒を入れるケースのようなものをむんずと掴むと、それをステージの真ん中にドンと置く。そして、親父からケースを受け取り中からバンドネオンを取り出して、そのケースの上にどっかりと座った。
客の冷ややかな目が好奇の目に変わる。
おそらく、ほとんどの人間がバンドネオンという楽器を見たことがないのだろう。
そして……ダリアの目が一瞬ギラリと光ったかと思うと、何の合図も無しにそれは始まった。
その瞬間、何かに殴られたのかと思うほどの衝撃が走る。
圧倒的な超絶技巧。
ボタンを行き来する指が速すぎて滲んで見えるほどだ。
冗談かと思うほどの音の数が吹き荒れ、その一つ一つが体の芯にぶち当たる。彼女を中心として音の爆発が起こっていた。
正に、
稀代のバンドネオン奏者はやはり、間違いなく第一級演奏家なのである。
ダリアは最後の一音をビブラートを効かせながらたっぷりと伸ばす。そして音が切れるとゆっくりと右手を挙げた。
一分にも満たない僅かな時間の間に吹き荒れた嵐。
客たちは、いや俺ですら呆気に取られて固まっていた。
誰かがカップを取り落としたのか、カツンと小さな音が静まり返った店内に響き渡った。
次の瞬間、観客たちの歓声が爆発した。
店主など、我を忘れて拳を天高く掲げて飛び跳ねていた。
一斉に店中の客がステージ前に押しかける。
そこからはもう、上へ下への大騒ぎだった。
ダリアは完全にキレていた。
一心不乱に異常にテンポの速いジプシーダンスの曲を演る。俺はその演奏についていくのがやっとだった。
あまりに力が入っていたのか、E線がパンと音を立てて切れる。
しかし、ダリアは気がついていないのか、止まる様子がない。
俺は仕方なく残る三本で演奏を続ける。
その様子に気がついたのか、客たちは俺を指差し、そして熱狂した。
今までにないほどの喜びが湧き上がる。
ダリアのテンションは際限なしに上がっていく。そして彼女のテンションが、一段、また一段と上がる度に、弦が切れていく。ついに俺はG線一本だけで弾く事になった。
客たちは髪を振り乱し踊り狂っていた。
ここは、天国の中の地獄だ!
演奏が終わると、店内には叫び声のような歓声が響き渡り、窓をビリビリと振動させたのだった。
ステージを降りた俺たちはあっという間に客たちに囲まれ、そこからは老いも若いも男も女も、みんな肩を組んで笑い合い、酒を喰らった。
そして俺はこの日初めて、いや、改めて知ることになるのである。
“酒は毒薬であると”
俺は、急激な吐き気に襲われ、そして、それからのことはあまり思い出したくない思い出となった。
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