第七楽章

 ダリアはバルコニーに置かれたウッドチェアに腰掛け、バンドネオンを構える。


 眉根を寄せた彼女の表情はこの世の全ての嘆き、いや寂しさと言った方がいいのだろう、それらを引き連れているかのようだった。


 ダリアと彼女のバンドネオンに反応して音も出していないのに空気中に満ちた魔素が弓矢を引き絞るかのように徐々に張り詰めていく。


 張り詰めた空気に思わず、ヴァイオリンを持つ手が震えた。


 ダリアは第一級演奏家なのだと改めて実感する。


 あの夜。俺の家で二人で演奏して以来のダリアの本気の音楽。

 

 俺に合わせられるのか? という一抹の不安がぎる。すると、手の震えはどんどん大きくなっていった。


「私たちなら大丈夫」


 目を閉じたままのダリアが静かに呟く。


「さあ。私の……私だけの調律師。私の音楽を完成させて……」


 たった一音。そのたった一音で世界が一変する。


 その響きは嘆きと哀悼に満ち、そのメロディはこの大地Mariaのように慈愛にあふれ、優しく、そして強く心を抱き締める。


 たった数小節聞いただけで涙が溢れてきた。


 それは、鎮魂の詩であり、そして未来への祈りだった。


 震える心で弓を引くと、ヴァイオリンも静かに泣いていた。


 その涙はじーちゃんが死んだ日の朝に流したものと同じだった。


 大好きだったという想いが溢れ出す。


 ダリアがバンドネオンを小刻みに揺らしビブラートをかけると、大気に満ちた魔力が静かに震え出し発光する。


 生まれては瞬き、そして消えていく蛍火のように切ない色をしたそれらは、この地を踏む事なく、薔薇の都の美しさを知らぬまま死んでいったものたちの魂なのか……。


 俺のヴァイオリンの音はそれらの魂と一緒にダリアの音を包み込んでいく。


 音と音とが混じり合う境界で魔力が増幅し、そこから美しいピアノの音が聞こえ始める。それは、頭上にさらさらと瞬く星々のように澄んだ音色だった。


 こんなにも美しいピアノは聞いたことがない。きっと、これはダリアの魔法によって引き出された彼女自身の記憶の中の音なのだろう。


 バンドネオンと、ヴァイオリンと、そしてピアノと。たったそれだけなのに、どうしてこんなにも厚みのある美しい音楽になるのだろう。

 

 じーちゃん聴こえてる?


 俺は音楽の神様に愛されて、今こんなにも美しい音楽を奏でているよ。


 それも、じーちゃんが教えてくれた調律とヴァイオリンのおかげだよ。本当にありがとう……。


 どうか、あなたの死後の旅路が安らかでありますように。


 こんなにも美しい音楽をじーちゃんに聞かせてあげたかったという淡い悔しさだけを残して、最後の一音が夏の涼やかな夜の帷の向こうへと消えていった。


 しばらく、二人は沈黙していた。


 夏虫と波の音と、誰かの啜り泣く声が微かに聞こえる。


 たぶん、ホテルの宿泊客だろう。


 大きな歓声でも拍手でもなく、沈黙と涙だけがこの曲への最大の賛辞であった。


「なあ、この曲は一体誰が?」


 知らない曲だった。


「さあ?」

「誰が作曲したのか分かってないのか……」


 ダリアは夢を見ているようなぼうっとした表情のまま首を横に振る。


「そうじゃないの。私も知らないってこと。ただ、さっき見た景色とか、この街に流れる空気とかを感じるままに音にしたの。そして、アポロがそれに応えてくれただけ」


 それって……


「じゃ、じゃあ即興だったってことか!?」


 ダリアは頷く。


「すごいな……さすがは第一級演奏家だ。作曲まで出来るのか」

「変なことを言うね?」

「え?」

「だって、アポロだって一緒に弾いてたじゃない」


 言われてみればそうである。でも、俺はダリアが提示した主題をただなぞっただけだ。


「それは、ダリアが主題を提示してくれたからで……」

「違うよ。最初はそうかもしれないけれど、この曲をまとめ上げたのは紛れもなくアポロだった。自覚はないのかもしれないけれど」


 全然記憶にない。


 ただ、溢れる想いを音にしていただけだった。


「言ったでしょう? アポロの魔法は音楽を完成させるって。もし、その力が世間にばれたらアポロは世界中の作曲家や貴族から狙われるでしょうね」


 俺が? 笑えない冗談だ。


「まさか!」


 そう笑い飛ばす俺をダリアは真剣な目で見つめ「嘘じゃないよ」と言う。


「音楽は美しいけれど、だからこそお金が動くの。そして、人間はお金のためならどんなに汚いこともやってのける。もし、今後も静かに生きていたいなら、その力はあまり人前で披露しないほうが良い」


 そんなこと言われても、俺自身に魔法を使っている自覚がないのだから制御のしようもない。それに、多分この力はダリアとでなければ使えない気がする。


 例えそうじゃなかったとしても、俺は--


「俺はダリアの専属調律師だ。それに君以外と音楽をやるつもりはない」


 ダリアは目を丸くしていた。


「君は、無欲だな。その力があれば歴史になを残す大作曲家になれるかもしれないと言うのに。もしかしたらあの、音楽神マスターすら超えるかもしれないよ?」

「だとしてもだ。俺は調律の業もこの力も、全てダリアに捧げるよ」

「……アポロは本当に純粋だな。いつかその純粋さで身を滅ぼすことにならないか、私は心配だよ。でも、ありがとう。その言葉は素直に嬉しいよ。それに、私もそう簡単に君を手放すつもりはないよ。やっと出会えた人生の友だから」


 なぜだか、“友”という言葉で胸がちくりと痛んだ。


 口を開こうとした時だった、自分の腹が空腹を高らかに歌い上げる。


 それを聞いたダリアが盛大に吹き出す。


 俺は恥ずかしさで死にそうになった。


「アポロは腹の虫までいい音を奏でるなあ!」

「し、仕方ないだろう! 腹が減ったんだから!」


 しかし、貧困生活で飢えには慣れていたはずだが、今までに感じたことのない不思議な空腹感があった。それは、空腹というよりも喉の渇きに似ている。


 思わず喉の辺りを指の腹で触る。


 それを見たダリアが「あ」と小さく声を上げた。


「なに?」

「もしかして、喉が乾くような感じしてる?」

「え……まあ。そうだな」

「それ、魔力切れだよ」

「へえ、今まで魔法使ったことが無かったから知らなかったな。これがそうなのか……それで、魔力が切れるとどうなるんだ?」

「気絶する」


 なんだって? という言葉は音になっていなかった。


 次の瞬間ぐにゃりと視界が歪み、世界がひっくり返る。どっちが上でどっちが下か全くわからない。強い耳鳴り聞こえ始めるが、すぐにその音は聞こえなくなった。世界が暗転し、俺はそのまま意識を失った。

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