第六楽章

 気のいい宿屋の親父に紹介された高級ホテルはメインストリートから少し登ったところにあった。


確かに、これは一般人にはとても泊まれなさそうな高級ホテルだった。


 神殿を思わせる太い飾り柱。入り口には巨大なルーフが迫り出し、その下はの馬車が乗り入れらるようになっていた。入り口は、馬車が一台丸々通れるほど大きな両開きの扉で、その扉の隣には紫紺の制服を着込んだドアマンが立っている。首元まで襟がある制服だ。初夏だというのにかわいそうだと思うが、彼は汗一つかいていなかった。外観はであり、細やかな彫刻が随所にみられ貴族の邸宅並の贅沢さである。そして、特筆すべきは、全ての客室にバルコニーがあることだ。この立地であれば、あのバルコニーからナポレアーノの湾が一望できるであろう。


 しかし、本当にここに入っていいのか? と逡巡していると、ダリアに「何してるの? 行くよ」と背中を叩かれた。


 ダリアは少しも気後れしている様子はなく、ずんずんと入り口の方へと歩いていく。


 ダリアの度胸に舌を巻くとともに、その態度が非常に心強かった。


 ひとりじゃ絶対に通れないな。というか、多分ドアマンに止められるだろう……。


 ダリアの接近に気がついたドアマンは実に洗練された動きで扉を開ける。第一関門突破である。


 ホテルのロビーは外観にも増してさらに豪奢だった。俺の家など丸ごと入ってしまうのではないかと思われるほど広く、天井が高い。


 天井にはとてつもなく大きなシャンデリアがいくつも垂れ下がり、ランプの灯りを反射して星屑のように輝いている。あの無数にあるランプひとつひとつに火を灯すだけでも大変な苦労であろう。


 正面にはカウンターがあり、そのカウンターの両脇から大きな階段が伸びている。その二つの階段は緩やかな曲線を描いてちょうど二階部分で交わっている。いわゆる両階段といわれる様式だ。階段は柔らかそうな毛の長い赤い絨毯が敷かれていてこれまた豪華な雰囲気である。


 ロビーには宿泊客がくつろげるような大きなソファとローテーブルがいくつか置いてある。ソファーは真紅の天鵞絨ビロード張りでシャンデリアの煌めきを吸い込み、艶やかに輝いていた。


ホテルの内装の豪華さに圧倒されていると「じゃあ、それでお願い」というダリアの声が聞こえた。


 声がした方に目線をやると、ホテルのカウンターの前にダリアがいて、ドアマンと同じく紫紺の制服を着た従業員と何やら言葉を交わしていた。


 馬鹿みたいに半開きになっていた口を閉じてから、足早にダリアの元へと向かう。


「な、なあ。本当にここにとまるのか?」


 このホールに自分の声が響くのが恥ずかしく、小声で声をかける。


 ダリアは、片方の眉を吊り上げると「アポロが海側の部屋じゃなきゃダメっていうからじゃない。私はさっきの宿でも良かったんだから」と非難する。


「そ、そうだけど……大丈夫なのか?」

「何が?」

「いや、だからお金……」


 ダリアはニヤリと口角を歪ませ悪魔のように美しく笑うと「任せなさい」と言いながら俺の頬を撫でた。


 ダリアの男気に惚れそうになる。


「海側の部屋がひとつ空いているそうよ」

「ちょっと待った。ひとつ?」

「うん」


 そりゃダメだ。さすがに夫婦でもない男女二人で同じ部屋というのは……。もちろん、間違いなどあるわけがないが、絶対にないとは言い切れない……よな?


「それはまずいんじゃないのか?」

「なにが?」

「いや、だって……同じ部屋で寝るなんて、その、ダリアは嫌じゃないのか?」


 ダリアは声を抑えて喉で「くくく」と笑う。


「大丈夫だよ。寝室二つある部屋だっていうし。なあに? 一緒に寝たかったの?」

「ち、違うよ。揶揄うなよ……」

「ごめん、ごめん。でも……」


 ダリアは俺の耳元に口を寄せ悪魔のように囁いた。


「私はアポロと一緒に寝てもいいけどね?」


 心臓が飛び跳ね、耳まで真っ赤になるのが分かる。


 いいかげん色仕掛けの揶揄いは勘弁してほしかったが、それを強く主張できなかった。それどころか、ダリアのそういった態度に淡い興奮を感じている自分が確かにいた。


 俺は、性的倒錯者か……。


 この数週間でかなり性癖を捻じ曲げられた気がする。


「あまりの興奮で気絶してしまったかい? あまりベルボーイを待たせるのは感心しないな」


 ダリアに声をかけられ我に返る。


 目の前には笑顔を貼り付けたベルボーイが立っており「お荷物をお預かりします」と手を差し伸べていた。


 俺は自分の麻の旅行鞄を肩から下ろしかけるが、こんなものを持ってもらうこと自体がなんだかとても失礼で恥ずかしいことのような気がした。


「いや、俺は大丈夫です」と断る。


 ベルボーイは「畏まりました」とだけいって、ありがたいことにそれ以上食い下がることはなかった。


 ベルボーイに案内され部屋に向かう。このホテルは三階建てのようで、我々の部屋は三階の東側、つまり湾の中央部に近い角部屋だった。


 ベルボーイが部屋の鍵を開けるとがちゃりと重厚な音がした。


 部屋の中は恐ろしいほど広かった。


 まず、メインの部屋だけで俺の生家の二倍の広さがあった。それだけでも十分と言うのに、その部屋には二つの寝室と洗面スペース、個人用の風呂場まであった。


 内装はロビーほど豪奢ではなかったが、純白と深い赤色ワインレッドで纏められ、落ち着いた気品を纏っている。


 大きな明かり窓の隣には、バルコニーへとつながる扉があった。


 寝室に急いで荷物を置いて、バルコニーへと出る。


 間に合った……!


 目論見通り、いや、それ以上の景色が広がっていた。


「ダリア! ダリア! ちょっと来てくれ!」


 大声でダリアを呼ぶ。


 寝室の扉が開く音がして、ダリアがリビングに現れた。


 窓ごしに手招きをする。


「そんなに興奮して、どうしたの?」


 ダリアは怪訝な顔をしながらバルコニーへと出てきた。


 途端、ダリアはぴたりと動きを止める。


 ここはナポレアーノの西端、小高い丘に立つホテルの東側の角部屋のバルコニー。バルコニーの左端からは、ナポレアーノの中心街が一望できるのだ。


 今ダリアには俺の肩口にナポレアーノの街が見えているはずだ。


「薔薇だ……」


 ダリアがつぶやく。


 赤々と沈む夕日に照らされ、真っ白なこの街の建物が皆、深紅に染め上げられる。それはまさに、山の裾野に美しく咲き乱れる野薔薇だ。


 これが、ナポレアーノが薔薇の都と呼ばれる所以である。


 ダリアはただただ静かに薔薇の都を眺めている。


 その目は何かを必死に摘み取ろうとする、激しく情熱的な芸術家の目をしていた。


 そのあまりに美しい双眸から俺は目を離せなくなる。


「これを、見せたかったのね……。アポロ。ありがとう……」


 そう呟くダリアの瞳からは二筋の涙が溢れていた。


 その目はやはり美しく燃え盛っていたが、どこか寂しそうでもあった。


 俺は激しく動揺する。


 ただ、喜んでもらいたかっただけなのに。何かが彼女の琴線に触れてしまったのだと直感した。


「ダリア……」

「ごめんなさい」


 ダリアは手の甲で頬を拭う。


「いやこちらこそ……その、すまない……」

「違うの! 違うのよ。あまりに美しかったから……」


 ダリアは俺の隣まで来ると、バルコニーの手すりに手を掛ける。


「本当に薔薇のようね」

「ああ……」


 それ以上何も言えなかった。


 深紅の薔薇は、徐々に紺色へと変化していく。


 波と風の音だけの二人の世界に、ダリアのチェロを思わせる美しい声が響く。


「私はね、色々なところを旅してきたの。どこも素晴らしい所だったし、素晴らしい出会いもあった。でもね。旅人は流れるものだから、必ず別れがある。次の街へ向かう道中、ふと後ろを振り返ると今までいた街が見える。するとね、涙が止まらなくなることがあるの」


 ダリアは遠い目をしていた。

 

 きっと、今までの旅を思い返しているのだろう。


「……それはなぜ?」

「きっと寂しいんだと思う」


 ダリアは、バルコニーに載せた俺の手に自分の手を重ねる。 


 ダリアの手は暖かかった。


「世界は本当に広いんだよ。世界を見て周るには人の寿命は短すぎる。だから、もう二度とこの地を踏むことはないのかもしれない……」


 確かにそれはそうかもしれない。


 ダリアは何かを絞り出すように続ける。


 その声は少し震えている。


「そう思うとね、どうしてもその場所の音や、味や、匂いや、風の触り心地や、ありとあらゆる感覚を、めいいっぱい感じたいと思うんだ。でも、どんなに長く逗留しても、その土地の全てを知ることはできない。そうしてね、振り返って後にした街を眺めるとね、ああ、私の知らない素敵なものや人がまだ、たくさんあったのだろうな……そう思うんだ。そして、涙がでるんだよ」


 分かるような気がした。


 世界は美しいもので溢れている。


 しかし、その全てを目にすることは到底できない。この世の全ての書物を一生のうちに読むことが出来ないのと同じように。


 そして、人はまだ見ぬ美しさに焦がれながら死んでいくのだ。ああ、きっと世界にはもっと美しいものがあったのだろうな……と。


 俺はこの時確かに、焦燥にも似た寂しさを感じたのだった。


 世界の広さに圧倒され、どうしようもない寂寥感を抱いたまま死ぬのが定めならば、ならば音楽家である俺たちが出来る事は一つであった。


「なあ、ダリア。聞かせてくれないか。君の心を。君の音で。俺は、俺の音で応えるから」


 頷くダリアの目元は、沈みゆく太陽の緑閃光を受けて一番星のように輝いていた。

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