第五楽章

「アポロ、もうここで良いんじゃない?」


 ダリアはトランクの上に座り、うんざりといった様子だ。


 この宿屋でもう三件目だった。


「海側ではないが二部屋空いているし、お風呂だってついているんだよ。もっとも、私は君と同部屋でも一向に構わないけれど」


 俺が構うんだよ!


 まあ、きっといつものように揶揄っているだけだろうが。


「この近くに空いてそうな宿屋はないですか?」


 俺は、不躾だとは思いつつ目の前の宿屋の主人に尋ねてみる。


「宿屋はたくさんあるがね、海側となると……一週間後には薔薇祭りもあるからなあ、この時期は観光客が特に多いんだよ」


 宿屋は「困ったなあ」と禿げ上がった頭を掻く。


 自分の宿には泊まる意志のない旅人に対して真摯に対応してくれるところに好感が持てる。普通なら、さっさと追い出されても仕方がない状況だ。


 多くの宿屋がしのぎを削る有数の観光地だからこそ、こういった人の良さがなければこの地で宿屋業で生き残ることはできないのかもしれない。


「ご主人。薔薇祭りって?」


 俺の視界の端で、つまらなそうに肩口まで伸びた髪を指で摘みしげしげと眺めていたダリアが割って入ってきた。


「ん? ああ、このナポレアーノ最大の祭りだよ。この街は大昔、漁村だったんだ」

「ああ、らしいですね。なんでも今の領主様がこの街の観光地化を推進して今の街が造られたとか?」

「兄ちゃん、良く知ってるなあ」


 親父は目を丸くする。


「いや、そこのダリアにさっき聞いたんです」

「へえ、嬢ちゃんが。なるほど、そういうことか。それじゃあ、祭りの話は知らなくても当然かもな」


 親父はダリアを見てなんだか納得した様子だった。


「まあ、この街を観光地化するにあたって、やっぱり目玉が必要だったんだろうな。その時にはすでにあった伝統的な大漁祈願の祭りを大胆にアレンジしてできたのが薔薇祭りさ」


「それは、どういう祭りなの?」


 ダリアは目を輝かせている。


「なかなか見応えのある祭り


 なぜだか親父はダリアへの態度が急によそよそしくなる。


「街中が夏薔薇で飾られるんです。そして、街の住人も旅人もみんな期間中は薔薇を服のどこかに付けるのが慣わしなんです。それからね、すごいのは最後ですよ。最終日の夕方になるとこの街の中央港からガレオン級の帆船が何十隻も出港してね、少し沖に出たところで、大量の薔薇を海に放つんですわ。ちょうどその時間帯は、潮の向きが海側から陸側に変わるもんで、潮に流されてきた薔薇の花がその港を一面覆い尽くすんです。こりゃあ、見応えがありますよ」

「それで、この宿も海側の部屋ばかりが埋まってしまうのね?」


 ダリアがそう聞くと、親父は首を振る。


「いやいや、ここは西端で中央港からはかなり遠いですから船も小さくやっと見えるくらいで。直接見に行った方がいいですよ」

「ふーん。じゃあ、この時期が特別って訳じゃなくて、ただ景観が良いからということね」


 それを聞いた親父は不思議そうな顔をする。


「そりゃあ、だって……」


 これ以上はまずいと思って、会話に割って入る。


「ま、まあとにかく、親父さん空いてそうな宿に心当たりはないですか?」

「え? ああ。そうだったな。普通の旅人には紹介しないんだが一つだけある」

「本当ですか! でも、普通は紹介しないって、何か訳ありですか?」


 なんだか雲行きが怪しい。


「いやいや、そうじゃないんだ。かなり値が張るんだよ。この一帯じゃ一番の高級ホテルだから。でも、お嬢さん、貴族の方でしょう?」と主人はダリアに声をかける。


 確かに、身なりは良いのでそう見えなくもない。ただ、態度は悪いが。


 ダリアは一瞬驚いたあと、お腹を抱えながら笑い始めた。トランクの上で身を捩り涙を浮かべながら笑い転げる。良くもまあ、トランクから転げ落ちないものだ。


「私が貴族の令嬢に見えるって言うの? こんなに品がないのに?」

「い、いやあ、だってあんた身なりも良いし。それに学もあるようだったから」


 きっと、この街の成り立ちについて知っていたからだろう。歴史の勉強をするような人間は貴族だけだ。

 

 とはいえ、この国の識字率はそこまで低くない。聖教教会がこの国の教育機関の役割を担い、信徒の子供たちを教育しているからだ。かくいう俺も信徒だったじーちゃんに連れていかれ、教会で読み書きを教わった。


 しかし、生きていく上で必要となる知識を優先しているのだろう、読み書きや簡単な算数の授業はあっても、歴史などを教わることはなかった。“史”と付くものであったのは、神史の授業。神代の歴史のみである。


 まあ、平民の子供たちが、国々の趨勢すうせいについて知り得たところで何も役には立たない。その知識を使う、つまり政治に携わることなどあり得ないのだから。


「あんた、どこぞの貴族のお嬢さんじゃないのかい?」


 親父はまた自分の頭を掻く。


 どうやら彼の癖のようだ。


「違うよ。私は音楽家さ」


 親父は、今度こそ納得したようで、「なるほど」と大きく頷いた。


「そうだったか。いやあ、羨ましいなあ」


 親父の声には皮肉的な響きは一切なかった。


 やはり、この親父は相当人が良いようだ。


「俺は音楽が大好きなんだ。この宿はうちの親父から引き継いだんだが、本当は音楽を聞かせる酒場がやりたかったんだ」

「へえ。そうなの」

「ああ。それで実はな、去年その夢が叶って、この宿の隣に小さいながら念願の音楽酒場を開いたんだ! 俺の故郷のちょいと珍しい酒なんかも置いてるんだぜ」


 親父はとても嬉しそうだ。


 ダリアがやにわにトランクから立ち上がる。


「ご主人の故郷って?」

「え? ルフランだが……」


 ダリアの目に鋭い眼光が宿る。


 なにか、嫌な予感がする。


「じゃあ、煮詰めた葡萄酒マールはある?」


 ダリアは親父に詰め寄る。


「あ、あるが?」

「ブルニュー?」

「あ、ああ……ブルニュー産だ」


 ダリアは目を閉じ、両手を天に向かって突き出すと「ああ! 酒神様! お導きに感謝いたします!!」と叫んだ。


 親父は目を白黒させている。


「ご主人! 今夜その酒場の席を用意してくれないか? この唐変木のせいでこの宿には泊まることはできないが、別の宿屋を紹介してくれたお礼としてぜひ今夜食事をしたい」


 すごい圧である。


 そして、今俺のことを“唐変木”って言わなかったか?


「も、もちろんいいが……」と言いかける親父に「もしよければ演奏もつけようじゃないか! こう見えて私は一級演奏家だよ」とダメ押しをする。


「い、一級演奏家だって!? 本当に?」


 なぜ俺の方を見る?


「まあ、本当です」と答えると、親父は目を輝かせ、ダリアの手をとるとブンブンと振る。


「まさか一級演奏家の方だったとは! こちらこそ是非お願いしたい!! 一番良い席をご用意いたします!!」


 ダリアもまんざらいではないと言った様子で、胸を張り「では、交渉成立だ」と高らかに宣言するのだった。

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