第四楽章

 テーブルにはナポレアーノ名物の魚のオイル煮と豆と米をミルクで炊いたリゾルテが並べられ、旨そうな湯気を立てていた。


「ああ、いい香りだね」とダリアは口元をほころばせる。


 その手には葡萄酒のグラスが握られている。


 驚くべきことに、ダリアは料理が運ばれてくるまでの短い間にリモンチェッロをほぼ飲み干し、追加で葡萄酒を注文していた。


 ダリアの白く滑らかな頬は、葡萄酒と同じくらい赤く上気していて、大きな瞳は少し潤んでいる。


 しかし、泥酔しているという訳ではない。相当に酒に強いのだろう。


 料理をダリアと自分の皿へと取り分ける。


 瑞々しく青いオイルの香りと、チーズのこっくりとした厚みのある香りがふわりと鼻腔をくすぐる。


「アポロは取り分けるのが上手いね。この魚、随分柔らかいはずなのに少しも崩れていない」


 ダリアは、自分の皿を見つめながら感心していた。


「まあ、エデンでは給仕の仕事もしていたからな。さあ、食べよう」


 ダリアは頷くと手を握り祈りの姿勢をとる。その所作が何とも様になっており、美しかった。


 思わず見惚れていると、ダリアが祈りの声を上げる。


「酒の神よ。今日も素晴らしい享楽を提供してくださり感謝いたします」

「なんだって!?」


 聞き間違えでなければ彼女は今、主神ではなく酒神に祈りを捧げていた。


「なに?」

「なにって……その祈り」

「ああ? これ? これは……」と言うと小さく笑った。


「いつだったかな、とある小国に行ったのだけれど、その国はとても敬虔かつ熱心な宗教国家でね。食事時なんかに祈りを捧げていないと『信じる神はいないのか』と憐れまれるし、勧誘をしつこく受けるんだ。だからね、さっきの出鱈目な祈りで誤魔化していたの。それ以来お店で食事をする際のくせになってしまったんだ」


 世の中には色々な国があるものだ。


 このタリアータ王国は国教として聖教を推奨しているものの、国民の半数は別の宗教を信じていたし、無神論者も少なくない。


 王家の祖先は神人であるというのが常識だったのは今は昔。今では聖教徒のそれも一部の古典派のみがその御伽噺を信じてる。大半の国民は、王家に混じった神の血ではなくその圧倒的な経済力に平伏しているのである。


「うわあ。これ、美味しいよ!」


 いつの間にか、魚のオイル煮を頬張っていたダリアが声を上げる。


 魚をフォークで突くと、はらりとその身が崩れる。この様子だと、骨まで柔らかく煮込まれているだろう。


 この街のように真っ白に輝く白身を口に入れると、オイルの香りとともに、香草類の複雑な香りが鼻を抜けていく。まさにそれは、エデンで働いていた時には嗅いだことしかない“良い香り”で、思わず頬が緩む。


 口の中の魚は、咀嚼することなくほろほろと口の中で解けていった。


 世の中にはこんなに美味しいものがあるのか! と目を閉じ喜びに打ち震えていると「美味しい?」とダリアの声が聞こえた。


 目を開けるとそこには慈愛に満ちた目をしたダリアがいた。それはまさに聖教徒たちが言い伝える聖母そのものだった。


「ああ。美味しいよ」


 そう応えるとダリアは「よかった」とにっこり笑うのだった。


 リゾルテの方も抜群においしかった。


 多めのミルクで炊くリゾルテは、普通の米料理よりもかさが増す。だから、少しでも腹を満たそうと俺も数えきれないほど作ってきた。しかし、この店のリゾルテはそれとは比べられないほど美味しかった。


 チーズをふんだんに使ったそれは、口に入れた途端に濃厚な香りが口いっぱいに広がる。そして、後から、納屋の中の埃臭さに似た独特な香りがした。しかし、決して嫌な匂いではなくむしろその微かな香りがミルクの香りと絶妙なハーモニーを奏でて食欲をそそるのだ。


「このリゾルテ、何だか不思議な香りがする」

「それは岩茸ポルティッニの香りだよ」


 岩茸は断崖絶壁にしか生えておらず、収穫には非常な危険が伴うとともに、そもそも数が少ないため幻のキノコと言われているらしい。当然、高級品でエデンでは取り扱っていなかった。


「これが、あの……。でも、米と豆しか入ってないように見えるけど」


 フォークで皿の中をかき混ぜてみても、それらしい姿は見つけられなかった。


「岩茸は食感が悪いらしくてね。その香りをオイルに移して身の方は捨ててしまうんだそうよ」


 なんと勿体無い……。


「なんか勿体無いよね?」


 ダリアも同じ気持ちのようだ。


 タリアータの平均年収の数倍は稼いでいるであろうダリアだが、意外と庶民的な感性を持っているようだ。


 その後も青空のもと、ダリアの今までの旅先での話を聞きながら美味しい料理に舌鼓を打つという幸せな時間を過ごした。


 食後のお茶を飲んでいる時、ふと二人の間に心地の良い沈黙が流れた。


 頭上では海鳥がニャアニャアと鳴いている。


 ふと、テーブルの端に置いてあったリモンチェッロの酒瓶が目に止まり手にとってみる。


 細長いその瓶に貼られたラベルを見ると石版画リトグラフで描かれた鮮やかな檸檬の木が美しく、あんな獰猛な液体が入っていたとはとても思えなかった。


 ラベルの下段にはこの街の名と、ガルリア蒸留所という文字があった。蒸留所というのは酒を作る工場のことだろう。


 瓶を裏返してみるとガラスの表面に何やら印章が見てとれた。それは彫り込みではなく、おそらく焼鏝やきごてか何かで押したのだろう、表面はつるりと光っていた。


 みてみると、桃か何かの果物のモチーフだった。


「どうしたの?」

「いや、これ何かなって……」


 ダリアに印章が見える向きで酒瓶を手渡した。


「ああ、これはアルビコッカ家の紋章だね」


 それには聞き覚えがあった。


 このナポレアーノの含む一帯の統治を任されている貴族の名だ。確か、故郷のカップリーニ島もアルビコッカ家の領地だったはずだ。ただ、辺境すぎてその声はほとんど聞こえてこなかった。だから紋章も見たことがなかった。


「なるほど、それは桃じゃなくて杏か」

「そう。杏紋きょうもん

「でも、こんな美しい街の統治を任されるなんて、領主様は運がよかったね」


 ここは有数の観光地だし、豊富な海産資源だけでなく、この街の特産だという御影石という資源もある。


 さぞかし潤っているだろう。


「いやいや、今のナポレアーノがあるのは、その領主のご先祖様のお陰なんだよ」

「そうなのか?」


 ダリアは小さく頷く。


「昔はこの街は小さな漁村だったらしい。近くには大きな火山が二つもあって噴火を繰り返すから森林資源も少なくて、火山灰が積もった土壌は農業には向かなかったんだ。でも、四方を山と海に囲まれた地形は、まさに天然の要塞だったから、多くの国が軍事拠点として目をつけて狙っていたみたい。だから、長い歴史の中で、大陸の勢力図が書き変わるたびにこの街の支配者は変わり続けたの」


 この一見すると美しいこの街も、多くの犠牲者の血が染み込んでいるのだ。


 いつの時代も為政者たちの思惑に振り回され、持たざる平民は血と涙を流すのだ。


「そして、幾たびの戦争を経て、今から約百年前に今のタリアータ王国に併合されることになった。その時この街を征服したのがアルビコッカ家というわけ。当時の領主は、この街の美しい景観と豊富な海産資源に目をつけ、国家事業としてこの都市の観光地化を推進したのよ。この事業は、見てのとおり大いに大成功したわけ」


 なるほど、当時の当主は相当なやり手だったようである。


「さてと……そろそろ今夜の宿を探さなくちゃ」


 ダリアは話を切り上げると、軽く右手を挙げて近くにいた店員に会計の意識を示した。


 店員は軽く首を垂れると、奥へと下がっていった。


 空を見上げると、店に入る前には頭上高く輝いていた太陽が、だいぶ海の方へと傾いている。

 

 少し長居しすぎてしまったかもしれない。日没まで約二時間といったところだ。間に合うかだろうか?


「宿を探さないといけないってことは、お目当ての宿があるわけじゃないんだな?」


 もしかしたら、航海士から宿についても情報を得ているかもしれないと思っていた。


「ええ。その様子だとアポロは心当たりがあるようね?」

「いや、宿は知らない。でも、探したい場所はある」

「ほう」とダリアは目を細める。


 俺はこのテラスから見える大きく湾曲した湾の右手側、つまり街の西端を指し示す。


「あの辺に宿を探さないか?」


 ダリアはその方角に目をやりながら「分かった」と頷いた。


「何かあるんだね?」

「まあね。さ、時間がない。行こう」


 ここから西端までは結構距離がある。一時間くらいはかかりそうだった。


 会計を済まし、急いで店を出た。


 ちなみに、支払いは驚くべき額だった。


 まあ、ダリアが全て払ったのだが……。

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