第三楽章
店の名は「
その店は、港から続く葛折の道を少し登ったところ、海に臨む方にあった。
店の白壁には青々とした蔦がからんでいる。大きめな入り口の扉は開け放たれていおり、店内は外の目が眩むほどの明るさとのコントラストを成して暗く涼しそうだった。
入り口から伸びる
店の者が出てき来て笑顔を見せる。
「いらっしゃい。お兄さん一人かい?」
辺りを見渡すとダリアは店から少し離れた場所でから店の外観をしげしげと眺めていた。
「ダリア」と声をかけると、彼女は小走りで近づいてきた。
「ごめんごめん。いやあ、話に聞いていたよりもずっと素敵な店だ」
嬉しそうに微笑むダリアは、この街に降り注ぐ陽光のように、たっぷり、そして鮮烈にその可憐さを振り撒いた。
店員はダリアに目を奪われたのか口をが半開きになっている。
店員が何も言わないので、「あの、二人です」と声をかける。
店員は、ひどく緩慢な動きで首を動かし俺を見ると「あ、ああ。いらっしゃい。二名ですね」とこれまた緩慢な応答をした。
「ねえ、テラスは空いているかな?」
ダリアに声をかけられた店員はピクリと肩を震わせるとダリアに向き直って直立すると「も、もちろんです。お
店員に導かれるまま店内を抜け、海側の扉を通りテラスへと出る。
そこには素晴らしい景色が広がっていた。
ナポレアーノ湾が一望出来る。どこまでも続く空と海。空と海とが交わる境界は海が反射した陽光でキラキラと縁取られている。まるで自分が鳥になって空中に浮かんでいるような、そんな錯覚すら覚えた。
店が、というより街全体が山の斜面に沿って立っているため、海側は視界を遮る建物が見えないのだ。特にこの店はちょっとした断崖の上に建っているらしく、身を乗り出さないと眼下の建物の屋根も見えなかった。
この店の名が「断崖」なのはこういうことかと
引かれた椅子に腰を下ろしながら「噂のとおり素晴らしい眺め」とダリアも感嘆の声を漏らした。
「ただいま、メニューをお持ちします。シニョーラ」ともはやダリアしか眼中にないのか店員は俺には一切目もくれず彼女にお辞儀をしてから踵を返す。
ダリアはそんな彼を呼び止めた。
「リモンチェッロを頼みたいの」
「もちろん喜んで。いくつか銘柄がありますが、私のおすすめはこの地元で作られたものです。爽やかな甘さで食前でも問題ございません」
「じゃあ、それをお願い。アポロも飲む?」
確かリモンチェッロは蒸留酒にレモンを漬け込んだ酒だ。このタリアータでは定番の酒である。
しかし、食うにも困っていた俺が酒に回す金などあるはずもなく、前職で得た簡単な知識はあっても酒というものを飲んだことはなかった。
「俺は酒を飲んだことがない」
彼女は大きく目を見開くと、額に手を当て天を仰いだ。
「なんてことなの! 音楽に次ぐ極上の芸術をその身に味わった事がないなんて! いいわ。私がお酒の何たるかを教えてあげる。今日あなたは生まれ変わるの!」
確かに「エデン」の客は皆旨そうに酒を飲んでいた。ダリアほどの芸術家がここまで言うのだ。きっと音楽と同じく素晴らしいものなのだろう。
「分かった。飲むよ」
「では、お二つご用意いたしますね」そう言う店員にダリアは再び待ったをかける。
「そんなに飲めないわ。それに他のお酒も飲みたいもの。一本で十分!」
それを聞いた店員は何故か驚愕の表情を浮かべる。
「し、失礼ですがシニョーラ、一本ですか?」
「ええ。そうよ」
「わ、分かりました。すぐにお持ちします」
俺には、店員が動揺している理由が分からなかった。
しばらくすると、店員がメニューと酒を持ってきた。
ダリアと俺の前にグラスを一つずつ置く。グラスは小さくワイングラスのような足がついていた。クリスタル製だと思われるそれは切小細工が施されており、ナポレアーノの太陽の光を浴びて宝石のように輝く。
おそらくこのグラス二つで、俺の前職の月給をゆうに超えるだろう。
店員は美しい手捌きで酒瓶の口を開けるとグラスの中に酒を注ぐ。
檸檬色をした液体でグラスが満たされると、酒を通った
店員は酒瓶をテーブルの端、俺の傍に置くと「お決まりの頃また伺います」と一礼して下がっていった。
「さて、この記念すべき日に」とダリアはグラスを掲げる。
俺も恐る恐るグラスを手に取り掲げる。
ダリアはにこりと微笑むと、中身を一気に流し込む。
「ああ! 最高!」と叫ぶ彼女の顔は完全に緩み切っていた。
喉の渇きを覚えて思わず生唾を飲み込む。
初めての酒に緊張していた。
グラスを鼻に寄せて匂いを嗅ぐ。鼻につんとくる刺激的な香りとともに爽やかで甘いレモンの香りがする。
意を決してダリアの真似をして一気に飲みほそうとグラスを煽る。
「あ……」というダリアが小さく声を上げるのが聞こえた。
その次の瞬間、喉に焼けるような刺激、そして胸の中心から熱い何かがパッと広がっていく。あまりの出来事にパニックになり、思わず息を飲む。これがいけなかった。
ごほごほやっていると、いつの間にかダリアが背中を叩いていた。
「まさか一気に飲み干すなんて。無謀なことを……」
ダリアだって、一気飲みしていたじゃないか! と言い返したいがとてもじゃないが出来なかった。
ようやく落ち着いてきたところで「あれはなんだ……」とダリアに聞く。
「これがお酒だよ。今、君は大人になったのだよ」とダリアは胸を張る。
冗談じゃない。こんなもののどこが芸術なんだ! これは毒薬と同じだ!
「なら俺は一生子供でいい……」
ダリアはそれはそれは愉快そうに笑うと「それを自覚することが大人への第一歩だよ。いつかアポロもこの魅力に取り憑かれるさ」と肩を叩いた。
「本当にこんなものが美味しいのか? 何だか胸がかっと熱くなったぞ」
「リモンチェッロは度数が高いからね」
「度数?」
「そのお酒にどれほどアルコールが含まれているかという指標。アポロが感じた熱さはこのアルコールによるもだよ。そして人はアルコールによって酔う」
「つまり、その度数が高ければ高いほど酔いやすいってことか?」
「そういうこと」
そういえば、「エデン」の客の中には、葡萄酒を飲んでベロベロに酔っ払う輩がいた。それも大勢。だとすると、葡萄酒の度数も相当なものなのではないか?
「ちなみに葡萄酒はどのくらいだ?」
「葡萄酒? そうね……十五度くらいかな。大体六分の一がアルコールという計算ね」
「ちなみに、これは?」
「四十度」
「……は?」
「だから、四十度」
ダリアはこともなげに、いつの間にか注ぎ足したリモンチェッロを煽りながら応える。
冗談じゃない! 葡萄酒の三倍以上もあるじゃないか!
今更ながら先ほどの店員の驚愕した表情の意味を悟る。
葡萄酒はボトルで頼む客も少なくなかったため疑問を抱かなかったが、これは丸々一本飲むような酒では決してないのだ。
「リモンチェッロは食後のデザートみたいなものでね、ちびちびと舐めるように楽しむお酒なの」
やっぱり……。グラス一杯、せいぜい二杯をゆっくり味わうといった種類の酒なのだ。
しかし、どう考えても舐め取っているとは思えないほどの量が矢継ぎ早にダリアの口の中へと消えていく。
「舐める……? その量が? どうみてもがぶ飲みだろ……」
「私は、ほら、特別な訓練を受けているから」
ダリアはちろりと歯の間から舌を覗かせ微笑む。ほんのりと色を帯びていた頬と相まって悪魔のように蠱惑的だった。
これは、バンドネオンを弾く時の表情だ。なるほど、酒も悪くはないかも知れない。
しかしその夜、俺はすぐにその考えを改めることになるのだった。
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