第二楽章

「ところでアポロ。お腹は空いている?」


 ダリアにそう問われて、昨晩船上で食べたカチカチのパンが最後の食事であったことを思い出す。


「正直、空腹で倒れそうだ」

「じゃあ、ご飯食べに行こう! 良いお店があるの」


 そう言うダリアは、待ちきれないといった雰囲気だ。


 しかし、この街はダリアも初めてのはずだ。


 カップリーニ島へは、このナポレアーノからも船が出ているが、ダリアはタリアータ王国の南端に位置するマルターニャからはるばる海を渡って来たらしい。


「ダリアもナポレアーノは初めてじゃなかったか?」


 手に持っていた自分の荷物を入れた粗末な麻袋を肩にかけてから彼女の工房トランクを持ち上げる。


「そうだよ。だけど、マルターニャからカップリーニに向かう船中で出会った航海士にね、色々と聞いておいたの。この街には絶対に立ち寄ろうと決めていたからね」

「つまり、その航海士のおすすめの店ってことか」

「そういうこと! さあアポロ! 何をぼさっとしているんだ! 行くよ」


 ダリアは俺の腕を掴むと駆け出した。


 大きく力強い掌を介して彼女の体温が伝わり、にわかに心拍数が上昇するのだった。


 以前から、ナポレアーノの街並みは美しい聞いていた。前の職場は、ナポレアーノからの観光客がよく訪れていたのだが、そんな客達は口を揃えてこの街を『絶対に迷わない美しき迷宮』と絶賛していた。


 実際のナポレアーノは俺の想像は遥かに超えていた。


 大きく湾曲した湾の西側には巨大なカルデラ湖を抱く雄大なアッレーニャ山があり、その休火山からはナポレアーノを取り囲むように峰が伸びる。そしてその峰は東側に聳えるナポレア火山にぶつかっていた。つまり、ナポレアーノは海と山脈に囲まれているのである。


 この連なる山々の裾野を借りる形で形成されるナポレアーノは、海側から見ると街全体が段々畑のようになっている。


 急峻な山肌を垂直に登るのは少々骨が折れるため、この街の道はほとんど葛折になっている。複雑な山の起伏に合わせて道がうねうねと曲がりくねっている様は、確かに迷宮のようであるがしかし、この道にはほぼ分岐がなく、故に絶対に迷わないのである。


 歩きながら頭上に聳える、街を見上げているとダリアが声をかけてきた。


「いや、圧巻だね。しかし、薔薇の都と呼ばれているのはどうしてなのかな? 建物はみんな白いのにね」


 ダリアの言うとおり、この街の建造物のそのほとんどは白い石でできており、初夏の強い陽光の元、目が痛くなるほど輝いていた。


 しかし、この街が薔薇の都といわれる所以は、まさにこの白い建物にある。


「まあ、それはもうしばらくすれば分かるよ」


 ダリアは「ほう」と目を細める。


「じゃあアポロはなぜこの街の建物がみんな白いか知っている?」


 どうやらダリアの競争心をくすぐってしまったようだ。


「いや、知らない」


 ダリアは「そうかそうか。では、お姉さんが教えてあげよう!」勝ち誇ったように胸を張る。


 その姿が、可愛らしく何だか胸の奥がじんわりとする。


 なるほど、これが母性か。


「どうぞ、お教えください。Mio maestro《ご主人様》」


 ダリアは満足げに頷くと、ナポレア山を指差した。


「あれのせいだよ」

「あれって、ナポレア山?」

「そう。君も知ってのとおり、今でこそなりを潜めているがあれは火山だ」


 確かに、有史以来あのナポレオ山は大噴火を繰り返していたらしい。そして、かつてあの山麓にあった街が一晩にして消滅したという話を聞いた事があった。


「この土地の地下には、どろどろに溶けた岩石が冷えて固まった鉱物が大量に埋まっているんだって。そして、その岩には水晶と同じ成分が多く含まれていて白いの」

「じゃあ、それを建材に使っているのか」

「そういうこと。水晶のように輝くからね、化粧石として重宝されているんだ。今ではこの街の産業の一つらしいよ」


 ひと昔前であれば大きな岩などを輸送できる技術はなかったのだろう。しかし、この数十年で海運、造船の技術は飛躍的に向上した。これにより、陸路では運べなかった、大量かつ大質量の物資を輸送することができるようになったと、以前「エデン」に来た海運会社を営者しているという男が鼻高々に語っていたことを思い出す。


 そして、幸運な事にこの街は港街である。


「しかし、話に聞くマグマは火よりももっとあかく地獄の炎そのものらしいけれど、固まるとこんなにも美しい白に成るというのは、何とも不思議ね」


 確かにそのとおりである。


 演奏時の狂気的なほどの色気を放つダリアからは、少女のようにはしゃいだりこの街の美しさに心を動かされている今の彼女を想像できないのと同じだ。


「ところで、そのおすすめのお店っていうのはまだなのか?」


 あの運命的な出会いから十日あまり、船の上とはいえ毎日三食、食事を取れていた。以前の暮らしに比べれば栄養状態は飛躍的に向上したのだが、だからと言って、長年の貧困生活によりやつれた身体はそう易々と健康にならない。


 港からまだ三十分も歩いていなかったにもかかわらず、息が上がっていた。


「まったく。だらしないなアポロは」とダリアは、俺の手から彼女のトランクを取り上げる。


 元々細身な上、ろくな食事に長いことありつけていなかったためか、俺の身体は不健康そのものだった。


 ダリア曰く、『肌は浅黒く痩せており眼光の鋭さも相まってまるで死神のようだ』だそうである。


「すまない」

「良いよ。私が欲しているのは、荷物持ちとしての能力じゃないもの」


 そう笑うダリアの口元から覗く白い歯が、この街の建物よりも一層輝く。


 それから歩くこと数十分、ようやく(と言っても一時間も歩いていないのだが)目当ての店へと到着した。

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