交響詩 第二番 Ave Maria
第一楽章
母を亡くし、悲嘆に暮れていた私を救ってくれた、名もなき二人の
私は今日も、あなた達を想い、この曲を弾くのです。
男は、深く息を吸うと弓を引く。
後に世界三大Ave Mariaに数えられることになる大名曲。
その旋律は、追悼と未来への祈りに満ちていた。
*
海鳥の声、波の音、潮の匂い、輝く太陽!
島育ちだったから、海は生活のすぐそばに在った。
それなのに、この状況に心が震え躍っていた。
だって、ここはずっと憧れていたあの場所なのだから。
船を降りてこの地を、この足で踏んだとき、俺は小さく拳を握り、喜びを噛み締め他のだった。
ここは、ナポレアーノ。
故郷のカップリーニ島の目と鼻の先にある美しい港街。我が国、タリアータ王国有数の観光都市である。
じんわりと広がる喜びに打ち震えていると、後ろで声が聞こえた。その声は、しっとりと水気を含み、まるでチェロの音色だった。
「やっと着いた。やはり人間は海上で生活するように出来ていない。地に足がついているということに安心するよ」
稀代のバンドネオン奏者であり、そして俺が専属契約した第一級演奏家、ダリア=リースリングである。
ダリアは、輝く金色の髪の毛を潮風に揺らしこの地に顕現した天使のような出立で、その白いスカートをはためかせていた。
演奏時の妖艶な雰囲気はなりを潜め、溌剌とした幼さすら感じるほどで、楽しげで明るい印象のこの街によく似合っていた。
彼女のスカートがはためくたび、自分の足もふわふわと浮き立つ。まるでまだ船の上にいるかのようだった。
「なんだか足が変だ。ふわふわするよ」
ダリアは「そうだろう?」と笑う。
「人間が陸上生物であるということをこれほど実感することはないね。それは海上生活に嫌気が差していた足が、陸地を踏み締めた喜びで浮き足立っているの。その現象の名前は、波足っていうんだよ」
なるほど、確かに波に揺れているような感覚がする。
人間の体というものは不思議だ。慣れない海上生活により、自覚はないが大きな負荷がかかっていたという事なのだろう。
彼女の博識に素直に感心していると、ダリアが堪えきれないといった感じで、体をくの字に折り曲げて少女のように笑い出す。
「な、なんだよ」
「アポロ。君は本当に純粋ね」
どうやら揶揄われていたようである。
「ひょっとして、嘘なのか?」
笑いながらダリアは頷く。
「ひどいじゃないか! でも、本当に足がふらつくんだけど?」
「ああ、それは軽い下船症だと思う。波の揺れに身体が慣れてしまって、揺れのない陸地でもそれを感じてしまうの。まあ、しばらくすれば治るよ。我々は母なる
母なる
聖教の神話に歌われる聖女マリアは月の子の産みの親である。彼女の神性は癒しであり、我々全ての人間を優しく、時に厳しく抱きとめるこの大地そのものであると言われている。
敬虔な聖教徒であったじーちゃんに育てられながらも、俺自身は生まれてこの方、神の存在を感じたことはなかった。
しかし、ダリアに出会ったあの日、俺は確かに神の存在を信じた。というより信じたくなったのだ。
ただ、それが聖教が言うところの、「月神」であるのか、それは分からなかったが。
しかし、彼女が聖教徒だとは知らなかった。彼女が夜毎祈りを捧げているところも見たこともなければ、聖教徒の女性の証である髪留めもしていなかったから。
「髪留めはしなくていいのか?」
「髪留め? ああ。違うよ」とダリアは手をひらりと振る。
「私は別に聖教徒というわけじゃないの。確かにこの国の人間は聖教徒が多いようだけれど、君も違うだろう?」
ダリアは俺の胸元を指差す。
男の聖教徒は主神の象徴たる満月のペンダントを首から下げるのが慣わしである。それが、無いということを言いたいのだろう。
「ああ、無神論者だ。いや、だったというべきかな」
ダリアは「だった」という俺の発言が意外だったのか、「なるほど」と呟いた。
「どちらにせよ、この世界ではもう何度目か分からない芸術復興がなされているし、その度に宗教の力は衰え、我々のような芸術家の力が増している。それを是と捉えるべきなのか、それは分からないけれど、悪魔狩りなどという大量虐殺が横行していた数百年前に比べれば、遥かに自由で、生を謳歌できる今の時代の方が私はずっと好きだよ」
ダリアは俺と契約する際、その条件として『旅を楽しめ』と言った。自由にこの世界を旅して回る彼女の生き方が、彼女の信条が何であるか雄弁に物語っている。
「俺もだ。あの島にいた頃は、こんなに潮風が気持ちいいものだって知らなかった。変わるきっかけをくれた神様に感謝してるんだ」
自分の殻に閉じこもり、いじけていただけだった俺は、きっと中世の人たちと同じだったのだ。己を縛る鎖が神か自分かの違いだ。
決定的に違うのは、俺の鎖は解くことができた。そして、それを成せたのは、ダリアのおかげなのだ。
「ただ、何の神を信じるべきなのか分からないけれど」そう言って肩をすくめた。
ダリアは「何だそんなことか」と呟き、俺の左手のヴァイオリンケースを指差す。
「教えてあげよう。私たちを引き合わせた神様はそれさ。音楽の神様だよ!」
彼女の言葉が脳天から突き刺さる。
この出会いをもたらしたのは、紛れもなく音楽だ。そして、それを成せるとしたらそれは音楽の神様だけだ。
「そっか。そうだよな」
なぜだか泣きそうになる。
心にわだかまっていたモヤのようなものが晴れていく。
そして、今更ながら理解する。
俺は分からなかったんだ。こんなにも素晴らしい出会いをもたらしてくれたのが何だったのか。そして、それに対してどう感謝して良いのかも。
でも、今はっきりした。
この出会いは音楽の神の思し召なのだ。
ならば--
俺は音楽でもってこの奇跡を喜び、感謝し、そして伝えれば良いのだ。
「ダリア。ありがとう」
その声は少し震えていた。
ダリアは少し驚いたように、その大きな濃紺の双眸を何度か瞬かせるのだった。
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