第八楽章

 目を覚ますと目の前に大きな何が見えた。しかし、焦点が合っていないのか、視界はやけにぼやけている。


 後頭部には、張りのある柔らかい何かが当たっている。


 起き上がるために頭上にある謎の物体を払い除けようと左の腕でそれを押す。


 それは思ったよりもずっと柔らかく、腕の形に合わせて変形する。そして、ずっしりとした重みがあった。


 何度も払い除けようと腕を動かすが、不思議なことにそれはむちむちと弾むのみで一向に動かすことはできなかった。


 これはなんだ?


 思い切って、両手でそれを持ち上げてみると、それは生き物のように暖かかった。


 ぼやけていた視界が少しずつクリアになっていく。


 そして、そこにはダリアの大きな胸を鷲掴みにする俺の骨張った手があった。


「随分と積極的ね」


 ダリアの声で飛び起き、そのまま地面に平伏する。


「す、すまない! わざとじゃないんだ!」


 額をかたい地面に押し付ける……つもりだったが、額には柔らかく滑らかなシーツの感触があった。どうやらここはベッドの上らしい。


 そして、おそらく後頭部に感じていた柔らかさはダリアの太腿だ。


 意識を失った俺を看病してくれていたのだろう。


 そんな恩人の胸を俺は……!


 とてもじゃないが顔を上げることができなかった。


 頭上からダリアの楽しそうな声が聞こえた。


「別に気にしていないよ。減るもんじゃないし」


 それは天啓であった。


 恐る恐る顔を上げると、目の前に悪魔のように美しく笑う顔があった。


 ダリアはすぐ近くにしゃがんでいた。両膝が大質量の二つの膨らみを押し上げ、開いた胸元から柔らかそうなそれらが溢れそうになっている。


「責任、取ってくれるよね?」そう言う彼女の声はしっとりと色気を含んでいた。


 彼女は赫い舌先を歯の間からちろりとのぞかせ、そのまま左から右へと舌舐めずりをする。舌が唇の上をゆっくりと這うと、ピンク色をした柔らかそうな唇は、彼女の唾液で艶めいた。


 くらくらしながら生唾を飲み込む。


 喉がカラカラに乾いていた。


 それが魔力切れによるものなのか、緊張によるものなのか分からなかった。


「責任……?」

「そう、責任」


 悪魔はゆっくりと顔を近づけると、耳元で囁く。


「アポロに触れられて熱くなっちゃった……。キス……してくれる?」


 そんな気などさらさらないくせに!!


 悪魔だ!!


「わ、悪かったって! これ以上はやめてください! 心臓が止まりそうだ!」


 俺の悲痛な叫びを聞いたダリアは、さっと身を引く。ふわりと彼女の髪が頬を撫でたとき、ベルガモットが香った。


 先ほどまで悪魔のような強烈な色気を発していたひとみは、いつもの優しい色に戻っていた。


「よろしい! 許してあげる」

「本当にごめん。今までで一番よ……」


 ダリアは「本当に? やった!」とベッドの上で座ったまま弾むと小さくガッツポーズをする。弾んだ瞬間に、彼女の胸が大きく揺れた。


 これは多分、わざとじゃないな……。


 こういった、無自覚で不意打ちの色気の方が……。


「さあ、そろそろ約束の時間だぞ!」


 ダリアはベッドから勢いよく立ち上がるとそう言った。


「何が?」

「何がだって!? あの店だよ! 昼間に予約したじゃないか! 私はもう待ちきれないぞ!」


 昼間にあの人の良い禿頭の親父の音楽酒場を予約していたことを思い出す。


 そういえば、マールがどうとか言っていたな……。親父に詰め寄るダリアの要すから察するに、相当な好物なのだろう。


「そうだったな。行こう」


 ダリアはベッドの上で少女の様に飛び跳ねる。


 こうしていれば天使みたいなのにな……。


 ダリアはベッドから飛び降りて、リビングに出るとそのまま手ぶらで外へと飛び出そうとする。


「ちょっと、待った」

「なに?」


 不機嫌さを隠そうとせず、眉を顰める。


「お金は? それに楽器も」


 ダリアは本気で意味が分からないという様子で首を傾げる。


「お金……? ないよ?」


 いやいやいやいや、そんなわけない。きっと、聞き間違いだ。ダリアは俺の故郷の酒場「エデン」で結構稼いだはずだ。慎ましく生活すれば大人二人が二ヶ月は生活できる額だった。


「冗談言ってないで、ほら財布はどこ?」

「だから、ないって。本当に」


 そう言いながら、ダリアは辺りをキョロキョロと見渡すと、床に落ちていた何かを拾い上げて放って寄越した。


 それは、皮の財布袋だった。


 そもそも、財布をホテルの床に無造作に置いているのにも驚きだが、その軽さに愕然とした。島を出た時ははち切れんばかりに膨れていたそれが、今は乾涸びた蚯蚓ミミズのごとく萎んでいる。


 絶句していると、ダリアが「ね? ないでしょう?」と言う。


「いや、金なけりゃお店には行けないでしょうが!」

「なんで?」

「なんでって、食事代が払えないじゃないか」


 ダリアは「なんだ、そんなことか」と言わんばかりに両手を肩口に上げて深いため息をつく。


 ため息つきたいのはこっちだ!


「アポロ君。大丈夫」

「どう大丈夫なんだ?」

「なんとかなる!!」


 絶対になんとかならない。


「しかし、このホテルの支払い、そんなに高かったのか……」


 さすがこの高級ホテル。あのパンパンに詰まった財布の息の根をあっさりと止めるとは……


「払ってないよ?」


 は……?


 いやいや、今度こそ聞き間違えだ。


「今なんて?」

「だから、払ってないって」

「あの、何を……?」

「だから、このホテルの宿泊費。だって、何泊するかも決めてないし。払いはここを出ていく時に決まっているじゃないか」


 確かに、そのとおりである。


 このナポレアーノに何泊するのかダリアから聞いていなかったし、きっと決めていないのだろう。


「え、え? どうすんの?」

「どうすんのって、なるようにしかならないでしょ」


 ダリアはこともなげにそう言い放つ。


 じーちゃん。俺はとんでもない人と契約してしまったみたい。俺は、この街で犯罪者として一生過ごすことになりました。


「だって……ここ泊まる時、『任せろ』ってそう言ったじゃないか。てっきり当てがあるものかと思ってた」

「ははは! まさか! あるわけないでしょう? こんな高級宿。宿泊費がいくらなのかも想像できないよ」

「大変だ……今すぐチェックアウトしよう!」


 急いで荷物をまとめようと寝室へと駆け出す俺の腕をダリアが「待った」と掴む。


「離してくれ!」

「アポロ。落ち着いて考えてごらん。今からチェックアウトするとして、お金払えるの?」


 それは……無理だ……。


 今から出ていったって一泊分の宿泊費は請求されるだろう。


「ね? 捕まりたくなかったら今チェックアウトするのはよした方がいいよ」


 ダリアは赤子をあやすかの如く、俺を諭す。


「ここを出ていくまでに金を用意出来なければ……?」


 ダリアは満面の笑みをたたえ、胸を張る。


「そりゃあ、捕まるさ! その時は一緒の牢屋に入れてもらおうね」


 悪魔だ……。


 もはや、酸欠の魚のように口をぱくぱくさせることしかできなかった。


「お金がないのは分かったろう? さあ、行こう!」


 一文なしでどこに行こうというのだ……。


「この状況で?」

「もちろん! いいかいアポロ。人は食わねば死ぬのだ! それにね、旅は道連れ、世は情けってね。意外となんとかなるのさ」


 道連れとは、地獄へだろ……? というツッコミは呆れて果て、とてもじゃないができなかった。


 しかし、ダリアのいうとおり、確かに食わねば死ぬ。


 もう、こうなりゃヤケだ。


 演奏料をもらって、なんとか凌ごう。


 幸いあの親父には演奏をすると約束をしている。ただ、別の宿を紹介するのと、その店を予約してもらう手間賃のつもりであったが……。


「分かった。行こう。その代わり、楽器は持っていけよ?」

「なぜ?」

「約束したろう! 演奏するって」


 ダリアはポンと手を叩くと「そうだった、そうだった」と言って、寝室に喜び勇んで楽器を撮りにいくのだった。


 俺はその背中に、黒い蝙蝠のような羽根を幻視するのだった。

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