第六楽章
月の匂いで目が覚める。
月光に照らされ、街路樹のコブシの花の影がベッドのシーツに落ちていた。そのふっくらとした影をなんとなく指でなぞる。
指の背の上を月光が音もなく滑っていく。バンドネオンを弾く彼女の指の動きのように滑らかだった。
途端、微睡から目が覚める。
今何時だ! 寝過ぎた!
月があんなに高く登っている。おそらく、午前0時は回っているだろう。
遅刻なんてレベルでなく、店の閉店時間すら超えているかもしれない。
今から行くか? いや、行ってもきっと無駄だろう。明日、謝ろう。謝って済むかは分からないが……。
そうだ。ダリアは?
飛び起きて辺りを見渡すが、当然姿は見えない。
ベッドから出て工房へと向かう。
そこにも居なかった。
諦めきれず、家の中を徘徊し、彼女の痕跡を探す。
しかし、置き手紙ひとつ無かった。
一夜の夢だったのだ、そう自分に言い聞かせ、居間の粗末な椅子に座るが、喪失感は拭えなかった。
「置き手紙くらい……」
『置いていって欲しかった』という言葉は、喉につかえて出なかった。
ダリアの演奏をもう一度だけ聴くことができたら。もう、あんな素晴らしい音楽は一生聴けないかもしれない、そう思うと言いようのない焦燥感に駆られる。
その時、玄関の扉の方で物音がした。
「誰だ?」
恐る恐る音のした方へと向かう。
玄関の扉がゆっくりと開く。
月光の中に煌めく金色の髪。まるで、月下の天使のような風格で、ダリアがそこに立っていた。
「やあ。よく眠れた?」
「どうして……ここに?」
「どうしても何も、私はこの街で泊まれるところをここしか知らない。それに、この子のお礼をまだしていなかったから」と手に持った楽器ケースを掲げる。
「今までどこに行ってたんだ?」
「なんだ、少年。寂しかったのか?」
実際、そのとおりであったし、今ダリアが目の前にいることに心の底から喜んでいた。しかし、それを認めるのは恥ずかしかった。
「そうじゃない。純粋に気になっただけだ。荷物もなかったし、街を出たのかと……。ああ、すまない入って」とダリアを招き入れて椅子に座らせ、自分も向かいあう形で椅子に腰掛けた。
「ありがとう。置き手紙でもすればよかったね。今夜もあのお店で演奏していたの。昨日は本気を出しすぎて迷惑かけてしまったから」
ダリアの帰還で頭から吹っ飛んでいた無断欠勤のことを思い出して憂鬱になる。
「店主、怒っていたろ。俺がいなくて」
「ああ、それなら大丈夫。私が熱出して倒れていると説明しておいたから。それに、店主は終始上機嫌だったよ」
ありがたいことだ。なんとか首の皮一枚繋がった。俺の欠勤の言い訳をしてくれただけでなく、その何倍もの穴埋めをしてくれたのだ。店主もダリアが演奏してくれるとなれば、願ったり叶ったりのはずだ。
「本当にありがとう。なんとお礼を言っていいか。クビにならずにすんだよ」
「いいえ。お礼を言うのは私の方。この子を治してくれたんだから。だから、お礼をするために帰ってきたの。さあ、なんでも言って。私に出来ることならなんでもする」
「お礼をする」ともし言われたらなんと答えるかもう決めていた。
「もう一度。もう一度だけ君の演奏が聴きたい」
ダリアは、意外そうな顔をする。
「そんなんで良いの? 私、意外とお金持ってるよ?」
「良いんだ。俺にとってはそれが一番なんだ」
しかし、口に手をあてて、何かを考えているようで、なかなか弾こうとはしない。
「どうした? ダメか?」
「いや、もちろん良いのだけれど……そうね。まず、アポロの音楽を聴かせて?」
「俺の? 昨日も言ったがうまくないんだ。と言うより、何か足りないんだ」
「足りない?」
「そう。間違ってるわけじゃない。でも、魔素が反応しないんだ。それだけじゃない。心も……」
渋る俺を遮り、「良いから良いから!」とダリアは椅子から立ち上がると、どこで見つけてきたのか、俺が子供の時から弾いているヴァイオリンを部屋の奥から持ってくる。
「アポロが寝てる間に見つけたの。悪いと思ったのだけれど、中を見ちゃった。この子、とても大切にされているね。アポロは恋人も大切にしそう」
揶揄いながらも、ダリアはうっとりとした顔で、ケースに指を這わす。
その姿が妙に艶っぽく、また良くない感情が鎌首をもたげる。
慌てて沈めようと、ヴァイオリンを手に取る。
「分かったよ。弾くよ! でも、笑うなよ」
「絶対に笑わない」
ダリアの目は真剣そのものだった。
それは、それでプレッシャーなのだが、仕方がない。
ケースからヴァイオリンを取り出し、構える。何度も、何度も練習してきた曲。
甘く、切ないメロディ。音は完全に調和が取れていた。しかし、やはり魔素は何も反応しない。それに、譜面どおりのはずなのに、何かが違うと感じる。
ちらりとダリアを盗み見る。
彼女は、目を閉じ真剣に聞き入っていた。
躍起になって、音を、音楽を探す。しかし、探せば探すほど、遠ざかっていく気がして、何もわからなくなった。
もう、これ以上弾けないと思った。
「な。うまくないだろ?」と途中で切り上げて投げやり気味にダリアに問いかける。
「そんなことない。とても上手。でも、なるほど。確かに足りない」
直接言われると、やはり相当にショックだった。急速に心が縮こまっていく。
「さあ、俺のつまらない音楽なんて良いから、君のを聴かせてくれ」
しかし、聞こえていないのか、それには応えず、ダリアはまだ何か悩み、考えているようだった。
「ねえ? 私の魔法ってなんだか分かる?」
「え? なんだろう、人を眠らせていたから、癒しの効果とか?」
「違うの。私の魔法はね、記憶の操作なの」
手に持ったヴァイオリンを取り落としかける。
魔法だって、なんでも出来るわけじゃない。魔法は己の魂の具現化と言われている。つまり、表現の極地なのである。
当然、全ての芸術家は、表現したいものは自分の中にしかない。だから、他人の精神や心を読み取ったり、あまつさえ操作したりする魔法は存在し得ないのだ。
もし、そんなものがあるとすれば、それは御伽噺に出てくる、正真正銘の魔法である。
「それって……
「そう、かもね。私は、人間の記憶を自在に操れるの。記憶を引き出し、そして、書き換えることも。昨日の睡眠魔法は、強制的に全員の『眠いという記憶』を引き出したの」
「じゃあ、あのじーちゃんとの思い出も、君が?」
「そう。私自身が相手の記憶を全て読み取れるわけではないけれど。あの時発動させた魔法は、“アポロの音楽が好きだった頃の記憶を引き出す”というもの」
あの時言った『アポロのためだけに弾く』という言葉には、そんな意味があったのか。
「その記憶の中で、アポロは確かに音楽が楽しいと感じていたはず。今のアポロと違うこと……もしかして、足りないのって……」
ダリアは何かに気がついたのか、弾かれたように椅子から立ち上がると、楽器ケースからバンドネオンを取り出す。
ダイアはどっかりと椅子に座ると、バンドネオンを腿に乗せ「これかもしれない」といった。
「足りないもの? どれ?」
「だから、セッション!」
ダリアは少女のように目を輝かせる。
いや、第一級相当の演奏家とセッション? 荷が重すぎる。
「無理だよ。さっき聴いてもらったとおり、俺には、才能がないんだ」
「本当にそうかな? ねえ、アポロ。あなた、お祖父様以外とセッションしたことある?」
「……ないけど」
「じゃあ、一人で弾いていて楽しかったことは?」
どうだろう……言われてみれば、無いかもしれない。小さい頃、一人で練習しても、どこかつまらないと感じていたような気がする。
「ない、かも」
ダリアは、「やっぱり!」と手を叩く。
「何が?」
「だから、ええっと、もう! めんどくさい! いくよ」
俺の静止も待たず、彼女はバンドネオンを弾き始める。
情熱的なタンゴ。
何度もじーちゃんとセッションした曲だ。
しかし、ダリアの演奏はそれとは比べ物にならないくらい圧倒的だった。胸ぐらをつかまれたかのように、物凄い力でぐんぐん引き寄せれる。
「すごい……」とダリアが思わずといった感じでつぶやく。
「本気で弾いてみて初めて分かる。すごいよ。今までと全然違う……思ったとおりの、ううん、それ以上の音が出る」
熱に浮かされたように肌が上気し、ダリアの頬が紅色に染まっていく。
額には汗が浮かび、それが夜露のように月光に照らされて煌めいていた。
「ねえ、アポロ……きて……」
ダリアの濡れた瞳。その、熱っぽい視線に絡め取られ、俺の理性は吹き飛んだ。
もう、どうなっても知らないからな!
一心不乱に、ヴァイオリンを掻き鳴らす。情熱的に、熱病患者のように、もっと、もっと、もっとだ!
ヴァイオリンからは嬌声にも似た甘美な響きが溢れ出す。その響きに呼応するかのように、大気が、魔素が張り詰めていく。パンパンに膨らんだ風船のようだ。
地の底から湧き上がるような力強いダリアの音が、主旋律を押上げ、音楽は天上へと登っていく。
--ダリアが主旋律を
--俺が主旋律を
攻守を交代しながら、本気でぶつかり合う。
二人でどんどん登っていく。そしてある瞬間に、「来る」と直感する。
張り詰めていた大気と魔素が一斉に弾け、あの時のように共鳴を始める。部屋の中に青白い魔力の塊が一斉に舞い、それと共に物凄い快感が身体の芯から湧き上がる。
すごい! すごい! すごい!
こんな感覚、初めてだ!
しかし、それで終わりじゃなかった。
ヴァイオリンの音とバンドネオンの音が直接ぶつかり合う空間に、全ての魔力が凝縮していく。部屋の中では、ぶつかり合う魔力に弾き飛ばされた魔素が暴風のように吹き荒れる。
正直怖いと思った。
これ以上続けたらどうなるんだ!
でも、とても止めることなんて、俺も、ダリアもできなかった。もう、死んでも良いとすら思っていた。
常軌を逸した二人の熱量。ほとんど、狂気と言っても良いほどの洗練されたハーモニー。
そして、それは唐突に起こった。凝縮した魔力が爆発したのだ。
その瞬間、部屋の景色は爆風で吹き飛ばされ、真っ白な空間と変貌する。
次の瞬間、頭の中で、今まで聞いたありとあらゆる楽器の音色が堰を切ったように溢れ出し、再構成されていく。
そして、二人だけのタンゴに、それら全てが重ね合わさっていく……ドラム、クラシックギター、ピアノ、ウッドベース、サックス……もはや、フルオーケストラ並みの音の厚み、複雑なハーモニーへと変貌していった。中には、聞き覚えのない音色も含まれている。きっと、これはダリアの記憶の中の音だ。
二人で顔を見合わせる。
お互い、今何を考えているのか手に取るように分かった。
曲はクライマックスに向けて、さらに昇りつめる。もう、誰にも止められなかった。
お互いの音を強く抱きしめ合う。
先ほどの魔力の大共振とは比較にならないほどの、脳が焼き切れるような快感が押し寄せる。
そして、最後の一小節。
二人は、全てを出し尽くし、果てたのだった。
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