第五楽章

「うわあ! すごい!!」


 先程までの大人びたダリアの様子からは想像できないほど、彼女は興奮していた。


 ここは俺の工房。元々じーちゃんが使っていたが、じーちゃんが死んでからは俺が引き継いだ。


 じーちゃんは幼かった俺にバンドネオン調律師としての技術を叩き込んだ。もちろん、当時の俺は全ての技術をマスターする事は出来なかった。でも、じーちゃんは自分の死を予見していたのか、手記を残していた。


 その手記を読んで驚いた。そこには調律の全てが事細かに記されていた。


 もちろん、一部にはどうしても文字では伝えられない、職人の感覚に頼る作業があった。しかし、そういった作業はことごとく生前にじーちゃんに叩き込まれていた。


 じーちゃんが死んでから、ずっとこの工房を守ってきた。


「本当にすごい……」と壁一面を覆い尽くすほどの年代物のバンドネオンを見て、ダリアがうっとりと感嘆を漏らす。


 もちろん、全て手入れして、完璧に調律している。


「この壁の棚は?」とダリアが指を指す。

「ここは、部品棚だよ」と一つ引き出しを開けて見せる。覗き込んだダリアは「こんなにいっぱい……」とまたため息を漏らした。


「さあ、君のバンドネオンを」と声をかける。


 ダリアは「そうだったね」と、笑いながら手に持ったケースを差し出した。


 そのケースを両手で、宝物を扱うように慎重に受け取る。


 作業机の上にそっと置く。


 細やかな意匠が凝らされたとても美しいケースだった。


 椅子に座り、両手を擦り合わせながら一呼吸置く。


 正面の金具を押すと、かちりとケースの錠が開く。両手で上蓋を持ち、慎重に開けていく。


 ひと目見て理解する。とんでもない名器だった。


 鳴らしてもいないのに、工房の大気が張り詰めていく。まるでコンサートが始まる前の静けさだ。


 磨かれた木目は赤々と輝き、所々にあしらわれた螺鈿の繊細かつ複雑な色彩が彩りを添えていた。


 楽器の正面、左右に埋め込まれた一際目を引く螺鈿細工の花の意匠。この、可憐かつ気品のある佇まい。


「ダリア……」

「なに?」


 自分の名が呼ばれたものと勘違いしたのか、彼女が返事をした。


「ああ、ごめん。違うんだ。これ」


 彼女は俺の指先を見て頷く。


「ええ。私の名前の由来となった花。綺麗でしょう? とても気に入ってるの」

「ああ、綺麗だ」


 そう答えながら振り向くと、ダリアは何故だか驚いた顔をしていた。


「ああ、ごめん。つい見惚れてしまっていた。直さなきゃね」そう言って、楽器を手に取り、一つ一つ確認していく。


 やはり、一音だけ音が出ない。それに、彼女の言うとおり至る所が傷んでいた。


 しかし、これだけの年代物だ。それは仕方のないことだった。


 それに、ダリアがどれだけこの楽器を大切に扱ってきたのか、手にとるようにわかった。この年代物にしては、ほぼ奇跡と言って良いほどの状態だった。


「どう? 治りそうかな?」


 振り返ると、ダリアは心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。


 ふと、ベルガモットの様な爽やかな匂いがした。


 一つ屋根の下、こんな美しい女性と二人きりであるという事実を思い出し、急にどぎまぎしてしまう。


 俺は、童貞か……と心の中でツッコミを入れるが、全くそのとおりだった。


「た、多分大丈夫……です」

「……です? なんか緊張してる?」


 ダリアは悪戯っぽい笑顔を浮かべながら屈んでみせる。胸元の谷間が強調され、まるでブラックホールのように視線がそこに吸い寄せられる。


 無理やり目線を外し、この胸の高鳴りを必死で隠そうと「別に……」と放つ一言が、最高に童貞っぽく、恥ずかしさで死にそうになる。


 ダリアはゆっくりと顔を寄せ「見せてあげよっか?」と耳元で囁いた。


 あまりの刺激に、椅子から転げ落ちそうになる俺を見て、彼女は本当に愉快そうに笑った。


「ごめん、ごめん。からかいすぎたよ。アポロは初心だなあ」

「や、やめて下さいよ……」


 また、何故か敬語になってしまった。


「で、どうかな?」と真剣な眼差しで見つめてくる。さっきまでの悪戯っぽい表情とのギャップがすごい。


「あ、ああ。大丈夫そうだよ。直せるよ」

「本当? よかった!」


 太陽の様に輝く笑顔。


 今までのどんな表情よりも魅力的だった。


「でも、一晩はかかるかな。あいにく、寝具は俺のしかないんだ。我慢するか、床で寝てくれ」

「いいよ。ここで見てる」そういってダリアは踏み台を作業台のそばまで持ってくると、そこに腰掛けた。


「でも、きっと退屈だよ?」

「いいの。見たいから。だめ、かな?」

「だめ……ってことはないけど。眠くなったら、寝てくれな」


 ダリアは嬉しそうに頷いた。


 俺は、目の前の楽器に向き合うと目を閉じる。


 すると、楽器の呼吸音が聞こえてくる。


 心の中で楽器に語りかける。


「君の声を聞かせてくれ」


 微かに、しかし確かに返事が聞こえる。その小さな声に必死に耳を傾ける。


 『追うんじゃない、待つんだ』とじーちゃんの声が聞こえる。


「はい。師匠」


 心を落ち着けて、ただ耳を傾ける。


 するとある瞬間、唐突に理解する。目の前の楽器の全てを。


 そうなれば、何をどうすれば良いのか、手にとるように分かる。


 そこからは無心で手を動かした。


 完璧に調律できたころには、東の空が白んでいた。


 振り返るとダリアが真剣な眼差しで見つめていた。


「起きてたのか」

「すごい集中力ね。本当に、素晴らしいものも見せてもらっちゃった」


 その言葉は、素直に嬉しかった。


「終わったよ。ちょっと弾いてみてくれ」


 ダリアは首を振る。


「ねぇ、アポロ、少しは寝なきゃ」

「だけど……」


 心底心配している様子だ。


「分かった。今日も仕事あるし、言うとおり寝るよ」


 そう言って、立ち上がり寝室へと向かう。


 ダリアは楽器を抱えたまま後ろをついてきた。


 ベッドに横になった途端、ものすごい疲労と眠気を感じた。


「ごめん。本当にすぐに寝てしまいそうだよ。ねぇ、出来ることなら、もう、一晩だけ……」


 額に手が置かれる感覚。抗えぬ眠気で魂ごとベッドに沈み込んでいく。


 どこか遠くで懐かしい子守唄が聴こえた。今度は完璧な調べだった。


 ああ、美しい……な。

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