第四楽章
それからは大変だった。
希代の大作曲家、口に出すのも恐れ多いあのお方。
そんな中、突然現れた第一級相当の演奏家に店内は熱狂し、ほとんどパニック状態になっていた。
席を立ち、ステージに押し寄せる客たち。まるでバファローの群れの如しであった。
彼女は右手を挙げる。
客たちは途端に静まりかえり、彼女の一挙手一投足を固唾を飲んで見守る。
彼女は、不思議なメロディの曲を弾き始める。その音にはどこか違和感があった。
次の瞬間、前方にいた客のひとりがばたりとその場に倒れる。それを皮切りに、一人、また一人と倒れていく。ついにはステージ上の楽団員達もが意識を失ってしまった。
そして、自分にも抗い難い強烈な眠気が襲ってきた。
寝てはダメだ! 彼女に聞きたいことがあるんだ! 寝ては……ねちゃ……
*
左手の親指に鋭い痛みを感じて目を覚ます。
みると、ぼたぼたと血が滴っており、左手は手首辺りまで血で汚れていた。
でも、助かった。この痛みで起きることができた。傷口を右手で強く圧迫しながら起き上がる。
辺りを見渡すと、まだ全員眠っているようだった。
しかし、ステージにダリアの姿はなかった。
「くそっ」
店の後方で、扉が閉まる音がする。
彼女だ! 追いかけなくては!
夢中で駆け出す。うまく足が回らなかった。
ほぼ体当たりに近い形で店の扉を開ける。階段には彼女の姿がなかった。
階段を駆け上がり、通りに出る。
通りにさっと目を通す。右手側、ガス燈の淡い光の中に、彼女の後ろ姿が見えた。
間に合った!
彼女に駆け寄り叫ぶ。
「待ってくれ!」
ぴたりと彼女は足を止め、振り返る。
その顔には多少、驚きの色が浮かんでいた。
「どうして……』
傷口を抑えたまま、血で汚れた左手を見せる。
「これのおかげで起きられた」
それを見た瞬間彼女は今度こそ激しく動揺する。
「ちょっと! 指怪我したの? ちょっと待って、今手当を……」と彼女は旅行カバンを開けると慌てた様子で何かを探す。
「ほら、傷見せて」と彼女は俺の手をゆっくりと開く。その瞬間、傷口からどくどくと血が流れ出す。
「こんなに、深く……。ちょっとしみるよ」
彼女は小瓶の蓋を口で開けると、その中身の液体を傷口へと注ぐ。
焼きごてを押し当てられたような熱さを感じて、思わずうめく。
「動かないで。男でしょ」
ものすごい力で手首を取り押さえられ、動かすことができなかった。
しばらく耐えていると、徐々に痛みが引いてきた。目を開けると、傷口がみるみる閉じていく。
「これって、まさか……霊薬?」
「そう」
「そうって、こんな高価なもの! 俺が一年働いたって買えないよ! どうやって返せば……」
「そんなこと、どうでもいい。アポロの指の方が大切」
「どうして……」
「どうして? 変な事聞くのね。君のような素晴らしい演奏家からその技術が失われるのが我慢ならないだけ」
「俺は……上手くなんかないんだ。こんな高価な薬を使う価値なんてないよ」
「そんな事ない!」
彼女の目は燃えていた。それには多少怒りも混じっているようだった。
「音楽が好きなんでしょう? それともあの時叫んだ言葉は嘘なの?」
「それは……」
嘘ではなかった。心からの本心だった。
それを思い出させてくれたのは、他でもない、このダリアだ。だから、嘘をつきたくなかった。
「嘘じゃない。本当に音楽が好きなんだ。でも、ずっと忘れていた。でも、今日思い出したんだ。そして、それを思い出させてくれたのは、君だ」
ダリアは優しく微笑む。
「なら、あなたはやっぱり偉大な演奏家だよ。お祖父様がいつも言っていた。それが一番大切な事だって」
「君のおじいさんも、演奏家なのか」
「ということは、アポロも?」
「そう。君の音楽を聴いた時、じーちゃんとの思い出がフラッシュバックしたんだ。思い出の中で、じーちゃんとセッションしてた。そして、堪らなく音楽が好きだっていう、あの時の気持ちもはっきりと感じたんだ」
「そっか……」
ダリアはしばらく黙っていたが、「さてと」と言って立ち上がる。
「もう行かなくちゃ。お店の人達もそろそろ目を覚ます頃だしね」
俺には、まだダリアに聞きたいこと、聞いてもらいたいことがあった。
心臓が早鐘のように鳴る。もう、治ったはずの左手の親指が脈に合わせてじんじんした。
意を決して口を開く。喉がからからに乾いていた。
「なあ、今晩泊まるところあるのか?」
ダリアは少し驚いたようだが、「くくく」と笑うと、「なんだ、少年。誘ってるの? 嬉しいが、生憎私はそんなに軽い女じゃないのだよ」と揶揄ってきた。
彼女の言葉を慌てて遮る。
「ち、違うって! その楽器……」そう言って、地面に置かれた楽器ケースを指差す。
「ああ、これ? 見たことないでしょう? これはね……」
知っていた。だって、じーちゃんの楽器だったから。
「バンドネオンだろ?」
ダリアは心底驚いた様子だった。
無理もない、この楽器は作り手も、調律師もほぼいなくなり、今では絶滅危惧種だ。この楽器を知っている人間はほぼいない、らしい。俺も、じーちゃん以外が弾いているところを見たのはダリアが初めてだった。
「知ってるの?」
「ああ、じーちゃんが弾いてた楽器だ」
「うわあ! 嬉しいな! この楽器を知っている人に会うなんて! 私、初めてかもしれない」
「俺もだよ」と笑う。
ダリアの演奏は、じーちゃんよりもずっと上手かった。でも、一つだけ違和感があった。それこそ、ダリアに聞きたいことだ。
「なあ、そのバンドネオン、一音だけ出なくなってるんじゃないのか?」
「……よく気がついたね」
「あの、みんなを眠らせた魔法だよ。あの曲、実はじーちゃんが昔、聴かせてくれた子守唄なんだ。それで気がついた」
「そっか。そう、壊れているんだ。他にも結構ガタがきていてね。知ってのとおり、もう作り手も調律師もいないからどうにもならなくてね。この子が壊れたら、引退しようと思ってるんだ」
ダリアは悲しそうな顔をしながら、しゃがみ込むと楽器ケースを我が子のように撫でた。
このままでは、
「それは、ダメだ!」
「ありがとう……でも、どうしようもないの」
「いや、大丈夫だ。俺のじーちゃんは実は調律師でもあったんだよ。しかも、バンドネオンのね」
ダリアがはっと顔をあげる。その瞳には、何か祈りのようなものが見てとれた。
「もしかして、アポロは……」
俺は力強く頷く。
「俺は、じーちゃんからその技術を受け継いでる。おそらくこの世で最後のバンドネオン調律師だ」
「治せる?」
「もちろん。それが仕事だ」
ダリアの瞳から、一筋の涙が流れた。
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