第4話 永遠
エリカは走った。夢中で、走った。
途中、自分を見て囁く声の存在に気づいた。すれ違った全ての人間が、エリカの異常な形相に唖然としていた。
多くの視線を感じながらも、エリカは努めずともそれを気にして今度こそ落ち込んだり、立ち止まってしまったりすることはなかった。
だって、大丈夫だから。全てがもう、なくなるから。
「時を巻き戻せたら、いいと思いません?」
私は、床に転がる彼に向けて言った。
「……は?」
「もしも、時を巻き戻すことができたら。過去に戻ることができたら。こんなにも素敵なことってあっていいのでしょうか」
「……人を、殴っておいて、何を、訳の分からないこと言ってんだよ」
「簡単な話じゃないですか。……時を巻き戻せたら、いいと思いません?」
先輩は、私を睨んだ。どんな表情をしていようが、やはり彼は綺麗だ。
「もう俺、帰るから。二度と話しかけるな」
そう吐き出すように残し、去ろうとする。
荒々しく足音を立てながら扉に向かう彼の背中に向けて、私は静かに声をかけた。
「……せんぱい」
「だからお前、何なんだ」
そう言って、私を振り返った瞬間。
彼の目が、驚愕したように見開かれた。
「な、なな、お、おお前っ、そ、それっ……!!」
うがああっ、と喉の奥から搾り出されたような声を出し、彼はその場に崩れ落ちた。歯を私にも分かるほど大きな音でがたがたと震わせていた。
_無様だ。とんでもなく、無様だ。
私は、彼のその姿を見て、満足した。口元に薄い笑みを浮かべる。気分がこれまでにない程、高揚していた。
「なっ、な、なんで、こんなことっ、す、す、するんだっ……!!」
「言ったでしょう、私は貴方を愛しているんです。本気なんです」
私は先輩の元へ、ゆっくりと歩み寄る。
そして、右手に持ったカッターナイフを、彼の頭上から振り下ろして、当たる寸前で止めて見せた。
―恋をした女を舐めるなよ。私は、貴方が思っている以上に、女だから。
「いいですか、速水先輩。今、私は本当に恥ずかしいんです。なぜだか分かりますか?」
「あ、あうああ、あっ……」
「一応言っておきますが、正気ですよ。……私、幸せになりたいんです。好きな男の人と、一緒になりたいんです。だけど、貴女に振られて分かりました。このままじゃ、私は幸せになれない。なぜなら、貴女に振られたことは恥で、私は一生それを忘れることはできないから」
カッターの先端を、彼の首元に近づける。
悲鳴にもならない悲鳴を、彼は上げた。
彼の唇は乾き、顔は気味の悪い程に青白く、見開かれた目は、ぎょろぎょろと右往左往していた。
なんていい光景なんだろう。私は笑いを必死にこらえながら、言った。
「貴方は、私の人生にとって、一番の恥なんですよ! 私は、貴方に拒絶されたんですからね。……でも、許してあげる」
私は、カッターの刃をゆっくりとしまった。
先輩の顔色が、徐々に戻っていった。
「私も、貴方の無様な姿を見ましたから。これで、お互い平等ですよ」
「てんめえ、何しやがるっ!!」
先輩が、私に殴りかかった。
ゴッ、と鈍い音が室内に響く。
私はよろめき、そのまま側の本棚に倒れかかった。
再び、拳が目前で振り下ろされる。
視界が消えたと思った瞬間、もたれかかっていた本棚と一緒に、私は床に倒れ込んだ。
ばさばさと音を立てて、何十冊もの本が、雪崩のように落ちていく。
―もう、終わりなのだ。
息を上げて肩を上下させる彼を霞む視界で捉えた瞬間、目から涙があふれた。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。だけど、愛してたんだよ、ずっと。ずっと。ずっと、前から。
ゆっくりと目を閉じる。意識を手放す瞬間、心の底から祈る。
―時よ、戻って。
街に出る。その途中で、出会った。
なんて格好いい人なんだろう。
彼の名前は?ねぇ、彼の名前よ。貴方知ってる?
ああ、あの人はね……。
リュウだよ。
「伊東さん。私、職員室行ってくるわね」
「え、どうかしたんですか?」
「ちょっと大山先生に呼ばれちゃってね。悪いけど、今日はもうここ閉めるから……」
「私、あとで鍵かけて返すので、まだここにいてもいいですか?」
「え、まあいいけど……。本なら借りていけばいいのよ」
「そうじゃなくて……。ここ、絶好のデートスポットになりません?」
―私、リュウのことが好き。
―ごめん、エリカ。
「あら、誰か好きな人でもいるの?教えてよ」
「いくら先生でも、そこまでは……」
「ええー、気になるじゃない。―分かった、速水君でしょ?」
「な、な何でですか!ち、違いますって!」
「ふふ、貴方って分かりやすいのよ。彼、この時間になるといつもここにくるでしょ?いいわよねえ、読書が似合う男性って」
「……先生には敵いませんね」
ねえ、私、貴方に振られた。
時が戻ればいいのに。
部屋の内側から、鍵をかける。
彼しか中に入れないように。
私と貴方は永遠なの。
―誰かいますかー?
―います、すいません!
扉を開ける。全ての記憶などない。だからこそ思う。
ああ、彼は。彼はなんて格好いいのだろう。
君との時は永遠に 各務あやめ @ao1tsuki
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