第3話 告白

 どれだけ考えたって、分からないことはある。けれど、今日は違う。私は考えてすらいない。

 だって私は今、恋をしているのだから。


 エリカは選ぼうとする。次の恋を。次の相手を。男は別に、リュウだけではないのだ。

 それでも、彼のことが忘れられなかった。どれだけ彼にひどい振られ方をされようと、エリカは未だに彼のことを、愛していた。

 例えば、エリカの住む街で、子供が物乞いをしているとする。そんな時、エリカは絶対に手を差し伸べたりしない。自分だって、人に構えるほどの余裕がある訳ではないのだから。でも、もしもこの子供が、リュウだったら? ふとそんな想像をすると、エリカは叫び出したくなる衝動に駆られる。駄目。彼がそんなことをしていちゃ、絶対に駄目。そんな、みすぼらしい服を着て、ろくに食べれていない様な姿をしているなんて。かわいそうに、私が助けてあげる。どんな手を使ってでも、たとえ、私自身が、それで潰れてしまっても。

 私でよければ、いくらでも犠牲になる。あなたが幸せなら、私はそれでいいのだから。


 理解が、できない。

 私は、まじまじと、その本を眺めた。

 このエリカという少女は、一体、何を考えているのだろう。普通、好きな人がいたら、その人と一緒になりたいと思うのではないのか。その人と二人で、幸せになりたいと思うのではないか。自分自身が潰れてしまっても、彼が幸せでいてくれたら、それでいい? 何だ、それ。

 私は、先輩と一緒になりたい。だけど、傷ついたり、悲しい思いをしたりするのは嫌だ。ちゃんと、幸せになりたい。それって、人間として、思って当たり前のことではないのだろうか。

 考えていると、先輩が話しかけてきた。

「どう、その本は。面白いなら、読み終わったら、僕に貸してく……」

「いいえ、駄目です」

 私は、強い口調で言い放った。

 先輩が、きょとんとした顔をした。

「え、何で?」

「だって、この本、面白くないですから」

「でも、さっきはあんなに楽しそうに、その本のことを僕に話してくれていたじゃないか」

「さっきまでは、そうでした。でも、今は違います」

 私は、先輩の顔を、正面から見つめた。

「先輩、好きな人のために自分を犠牲にする人って、どう思います?」

「え……?」

 先輩は、形のいい眉を、少し寄せた。

「どういうこと?」

「この小説の主人公は、好きな男のためなら自分はどうなってもいいとさえ思ってるんです。でも私、そんなのどうかと思います」

 そこで一度区切り、私は息を吸った。だって、こんなのおかしいに決まっている。

「たとえ好きだからといって、自分を捨てる必要なんてないんです。誰に

 だって、幸せになる権利があるんですから」

 私は、先輩をもう一度見つめた。きっと、先輩は私に同調するだろう。そう思っていたのに、返ってきた言葉は予想とはまるで違うものだった。

「ああ、それはね、伊東さん」

 先輩はそこで、なぜか笑みを浮かべた。面白くて仕方がないと言うように。

「そう感じるのは、君が、恋をしたことがないからだよ」


 街に出る。

 リュウに告白して、失敗して。あれから、彼とは会っていなかった。

 自分がひどい顔をしていることくらい、自覚していた。昨日だって、一日中泣いていたのだ。やはり彼に振られたのは事実で、エリカはそれが悲しかった。

 それでもなお、外に出る。立ち直るために。彼との恋はもう終わったのだから。彼のことは、もう忘れるべきなのだから。

 冷たい風に当たりながら、エリカはふらふらと街をさまよう。時折あふれそうになる涙を、懸命にこらえた。

 その時だった。

 ひとつの人影が、エリカの視界の隅に映り、去っていった。見逃してしまいそうになるくらい、たった一瞬のことだったけれど、エリカには分かった。

 ―リュウだ。あそこに、リュウがいる。

 そう分かった瞬間、全身にざわりと鳥肌が立った。周りの世界が、エリカの意識から消えた。

 話しかけるべきではない、と心の中の自分が強く訴えている。実際、話しかけたところで、今となっては何を話せばいいのかわからない。でも、そんなことは関係なかった。

 エリカは、彼のことが好きなのだから。考える前に、反射的に体が動いていた。


 声が出なかった。

 私が、恋をしたことがない……?

「自分を犠牲にしてまでも、相手に尽くしたい。そういう感情は、人のことを本気で愛してこそ生まれるんだよ。伊東さんは、まだそういう経験をしたことがないんじゃない?」

 先輩の口調は自然だった。別に私のことを馬鹿にしている訳ではない。それは直観的に分かった。けれど。

 けれど、どうして、あなたがそんなことを言うの?

「……先輩は、私が、本気で恋をしたことがない、とおっしゃるのですか」

「そうじゃないかって、僕は思うんだ」

 私は、唇を嚙み締めた。体が震え始めて、止まらなかった。

「……本気で言ってるんですか」

 語尾が涙声になる。先輩が驚いたように私の顔を見た。

「あ、いや、違う、ごめんね。僕はただ……」

「私が愛してるのは、あなたですよ!!」


 彼のことなんて。リュウなんて、大嫌い。

 エリカは今度こそ、絶望していた。

 エリカが、リュウに告白した。リュウが、エリカを振った。男に振られたエリカは惨めで、情けない。

 街中で、そんな噂が広まっていた。皆が、ひそひそ、ひそひそ話して、エリカを笑う。

 噂を流して、面白がって人々に吹聴していたのは、リュウだった。

 僕って、こう見えても、結構モテるんだぜ。まぁ、エリカみたいな、金も知恵もないような女、僕には釣り合わねえけどな……。

 声高に、誇らし気に言う。その声に、大勢の人が、笑う。

 私が愛したのは誰だったのだろう。

 消えてしまいたい。自分なんて。


 沈黙が降りた。

 つい会話の流れで、勢いに任せて言ってしまった。でも、後悔はなかった。

 いずれ今日でなくても近い将来、私は彼に気持ちを打ち明けていただろう。そのくらい、彼への気持ちは自分の心の中で隠し持っているには大きすぎるものだった。遅かれ早かれ、私は先輩に告白していた。だから、今日この場で言ってしまったことにも、悔いはなかった。

 私は先輩の顔を見て、目をそらさなかった。絶対に、自分からはそらさないと心に決めていた。

 その視線に耐え切れなくなったのだろう、いつかの私のように、今度は先輩が、ぱっと私から顔を背けた。その表情は、髪に隠れて見えなかった。

 ―お願い。

 長い、長い沈黙。それを、やがて先輩の声が破った。珍しく、その声は震えていた。その震えを彼が必死に隠そうとしているのに、私はすぐに気づいた。

「―伊東さん、僕にはね」

 緊張で、空気が張り詰めているように感じた。自分でも驚く程、心臓が跳ね上がっていた。

「僕、彼女がいるんだ」


 ここは、不思議な場所です。この街では、何が起こるか分かりません。

 恋が破れた?それは不幸でしたね。

 でも、もう大丈夫。貴女には私が付いています。だから怖がらないで。

 隣街の泉にね、時を巻き戻す水があります。色々と注意しなければいけないことはありますが、貴女はそれを使えばいい。彼ともう一度、やり直せますよ。

 え、そんな話、信じられない?―噂で聞きましたけど、貴女、かなりのロマンチストでしょう? リュウさん、でしたっけ? 彼にはあんなに甘いのに、こういうところでは、意外に現実主義者なのですね。

 まぁ、信じるか否かは、貴女にお任せしますけどね。


 信じていなかった。そんな上手い話、ある訳がない。でも、私は他に信じていいものなど、とっくに失っていた。街を出る。歩く。どこまでも、どこまでも、歩く。

 ―あった。


 再び沈黙が降りた。今度は、先輩がそれを破ることもなかった。

 窓から生ぬるい風が吹き抜けていった。それが頬に当たり、ひどく不快に感じる。先輩はもっと不快なのだろうな、と想像する。

 ―そう、不快なのだ。

 先輩が、何も言わないまま席を立とうとする。その腕を、私が掴む。

「伊東さん、悪いけど」

「……出られませんよ」

 え、と先輩が、引きつった表情で漏らした。

「……どういう、こと」

「あなたは、出られません。一度入ってしまえば、もう戻れないんですよ、一生」

 私は淡々と告げる。だって、事実なのだからしょうがない。

「意味がわからないんだけ……」

 パンッ!!

 私は、先輩の顔を殴った。

 床に倒れて呻く彼を見下ろす。

 ―恥だ。この、すべてが。

 恥だから、消す。















         

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