第2話 進展
この小説の主人公は、彼のことを心の底から愛していた。
「リュウ。私、リュウのことが好きなの」
エリカがそう言った瞬間、リュウの表情が止まった。そして、さっと顔を伏せてしまった。
それが単なる驚きのためなのか、戸惑いのためなのか。―それとも?
エリカには見当もつかなかった。
それでも、エリカには覚悟ができていた。
エリカにとって、これは初恋だ。彼に出会い、恋をして、エリカは、恋とは何かを知った。リュウのことを考えるのは、楽しく、甘く、そして苦しい。
この苦しみを、あなたも味わって。
「エリカ。僕はね、今とても驚いている」
エリカはそれを、静かに聞いていた。
「エリカが僕のことをそんな風に思っていただなんて。―ありがとう」
リュウ。
愛してる。私と、一緒になって。
「何読んでるの?」
突然の声に、私は、ぎゃっと小さく叫んで身をのけぞらせた。恐る恐る、目だけ上へ動かすと、視界に速水先輩が映った。
ふふっ、と彼は小さく笑った。
「そんなに驚かなくたっていいじゃないか。君、二年の伊東みのりさん、だよね?」
伊東みのり、と言うのを聞いて、ああ、彼が自分の名前を呼んでくれた、と心がふわふわした。はい、とか、ええ、とか言おうと口を開いても緊張で声が出ない。心はこんなに浮足だっているのに、不思議なことに、体は固かった。
速水先輩が、ゆっくりと私のとなりに腰かけた。
「そういえばここ、今日司書さんいないよね? 僕が来る前は、君、一人だったの?」
「あ……。はい」
直視するのが恥ずかしく、私は先輩の顔から目をそらしながら、早口で返した。
「私が来た時は司書の先生もいたんですが、他の先生に急の呼び出されて、職員室に行ってしまったんです。それで私、今読んでいる本を読み終わった後でいいからって、図書室の鍵を職員室に返すように頼まれて」
私は、制服のポケットから鍵を取り出して、先輩に見せてみせた。
「なるほどね」
先輩は形の良い顎を指でなぞりながら、ふと不思議そうな表情をして尋ねた。
「でも、それならどうして内側から鍵をかけたの?そんなことする必要なかったんじゃない?」
「―え? あ、ええっと、まあ……」
どうしてだっけ……? 先輩に見つめられて、必死に脳内から記憶を引っ張り出そうとするが、空回りしている感覚だ。頭の回転が普段より遅い。
何拍か置いて、私はやっと思い出せた。
「本を……、集中して読みたかったんです」
声が上ずっているのが、自分でも分かった。
先輩は、そんな私の様子は気にしていないようで、そう、と短く答えるだけだった。私の手元に視線を移して言う。
「本って、それ?」
「あ、はい」
「どんな本なの? 見せてよ」
先輩はいたずらっ子のように笑いながら言った。そうやられると、こちらは、つい都合の良い錯覚をしてしまいそうになる。彼も、自分のことが好きなのではないかと。
そんなこと、ある訳ないのに。
私が反応しないでいると、先輩は、さっと私の手から本を抜き取った。
「『エリカの復讐』か……。面白そうだね。サスペンスとか?」
「あ、いえ。それが違うみたいで」
そこは自分も気になっていたところだった。私は小首を傾げてみせた。
「私もはじめはそう思ったんですけど……。タイトルにそぐわないような、純粋な恋愛小説なんです」
「これ、もう全部読んだ?」
先輩が、ぱらぱらとページをめくりながら聞いた。
「いえ、まだです」
私が言うと、先輩は本を閉じた。ふっ、と目を細めてみせる。
「じゃあ、これから新展開があるかもね。そうでなきゃ、『復讐』という言葉は似合わないだろう?」
そうかもしれない、と私は思う。もう一度、本をめくり返してみる。
エリカは泣いていた。そして同時に、怒っていた。リュウに。
エリカが自分の想いを彼に告げた時、彼は、「ありがとう」と言った。
その言葉に、自分がどれほど救われたことか。
あの時、エリカは嬉しかったのだ。
けれど、その気持ちは、一瞬にして、壊されることになった。
女がいたのだ、リュウには。
彼は実にあっさりと、エリカの告白を受け流した。エリカがどんな思いで、彼に気持ちを打ち明けたか、考えもしないで。
リュウに連れられた女は、憎い程、汚れた女だった。いや、もしかしたら、実際は美しい女だったのかもしれない。けれど、エリカにはその女を綺麗だとは、到底思えなかった。
艶のある黒髪。彼女の肩を抱いてリュウは言う。美しい、と。へらへらと誤魔化すように笑いながら、エリカに向けて言う。
ごめんね。振っちゃって。
「先輩、『復讐』の意味が分かりましたよ」
私が本から顔を上げて言うと、先輩も手に取っていた本から目を離して、こちらを振り向いた。
「この主人公の女の子は、告白した相手に振られちゃうんです。きっと、この女の子は、これからその男の子に、仕返しをするんですよ。それが、『復讐』です」
「ふうん……。伊東さん、ちなみにさ」
伊東さん、というはじめての呼称に、私は思わず、びくりと体を震わせた。
「僕が今読んでいた本はね、君のとは全く逆の設定なんだよ」
先輩は、一冊の本を、私の目の前にかざした。
その本の表紙は、『エリカの復讐』と、どことなく似た雰囲気だった。
『マットの悲鳴』
もうすでに読み終えてしまったのだろう、先輩が、その本の内容を話してくれる。
「あるところに、マットという少年がいた。彼はある日、とても美しい少女、ヨルに出会う。彼は彼女を愛していたけれど、彼女には他に愛する男がいた。―マットの望みは叶わなかった」
「それで?マットもヨルを恨むんですか?」
私が身を乗り出して聞くと、先輩は、どういうわけだか、苦笑いした。
「ああ。自分の望みが叶わなかったが故に、人生に絶望して、ヨルとの心中を試みるんだ」
先輩は、よどみなく話を続ける。ジンセイニゼツボウシテ。使い古された、俗っぽい言い回しだが、先輩が言うと違和感なく聞けるから、不思議なものだ。多分、彼が身にまとう、年に見合わない大人びた雰囲気がそうさせているのだろう。
「まぁ、この小説を読んで僕が感じたのは、人間の弱ささ。結局、人は自分を救うために生きている。マットがヨルと死んだのは、自分が女に拒まれたという、嘆きと恥にまみれた記憶から、自分を解放するためさ。決して彼女を愛していたからじゃない。全部、自分のためにやったことだよ」
先輩は、どこか遠くの一点を見つめながら言った。そして、再び笑顔に戻って私を振り向く。
「伊東さんは、どう思う?」
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