岸壁な女

 防波堤で夜釣りをしていた。

 ここの堤防は足場が悪かった。コンクリートがあちこち傷んで、ボロボロと崩れている。脆くなった角に足でも乗せると、そのまま海へ落ちてしまう。なるべく縁をありきたくないのだが、真ん中あたりの崩れ方のほうが余ほどひどい。足元が暗いので、ヘタをすると転んだり、足首をひねったりしてしまう危険性がある。

 魚が釣れるポイントは、先端部分で赤灯台がある場所だ。そこにたどり着くまで、釣り道具を持ってかなりの距離を歩くことになった。しかも途中からは、足場の不確かな古い防波堤を歩かなければならなかった。

 防波堤先端部、数十メートルの範囲は昭和時代の初期に造られた年代物だった。別の場所にあらたに造成されたために、そこは放置されたままだ。赤灯台も大概に朽ち果てていて、灯りが点されることもなかった。

 私がこの場所で夜釣りをするのは初めてだった。低い堤防のため、高波をかぶると流される危険性があって、おいそれとは近づけない。過去に何人かが海にさらわれて、行方不明になっている。魚釣りはそれほどの趣味ではないので、そこまでして頑張る気が起こらなかった。

 ただし、今日はとても波静かで、満月の淡い明かりが心地よかった。誰もいない場所で、ゆっくりと時を過ごしたいと思ったのだ。ケイタイの電波も届かないのか、私のスマホは沈黙したままだ。

 仕掛けにエサをつけて海へと投げ入れた。竿先に鈴をつけて魚がかかるのを待つ。赤灯台の基部部分に腰かけながらタバコを吸っていると、後ろの方で人の気配がした。どうやら別の釣り人が来たようだ。やや心構えながら振り向くと、女が一人立っていた。

「釣れますか」と、その女が声をかけてきた。

「いま来たばかりだし、ここには初めてきたから、なにが釣れるかわからないんだ」

 ランタンの灯りに浮かび上がった女の顔は、こんな磯臭い場所に不釣り合いなほど美しかった。二重の瞼がくっきりとして、切れ長の目を妖艶に魅せていた。

「魚は、あまり遠くにはいませんよ。岸壁のすぐ近くにいます」

 釣り道具も持っていないのに釣りには詳しいようだ。ここだここだと、堤防の縁に立って、すぐ下の海面を指さすのだ。

 女の言うとおり、堤防の真下に仕掛けを垂らすと、すぐに引きがあった。丸々と太ったカサゴが釣れた。

「煮つけにすると、おいしいですよ、でも」

 魚を釣り針から外そうとした際に、カサゴの背びれのトゲが親指を貫いてしまった。

「痛っ」

 毒のない魚だが、まるで猛毒があるかのような激痛だった。親指に血だまりができて、それはすぐに崩壊してポタポタと滴り落ちた。

「気をつけないと刺さります」

 急いで親指に絆創膏を貼るが、その薄っぺらい布地を超えて血が滲み出ていた。

「明日も来てください。そうすると血も痛みも止まりますから」   

 顔をあげると、女はいなった。どこに行ったのか暗闇を見渡すが、それらしき人影を見つけることができなかった。


 次に日の夜、再び防波堤の先端部までやってきた。

 昨日と同じように仕掛けを海に投げ入れて、魚のあたりを待った。親指の絆創膏は血でびっしょりと濡れている。なんど取り替えても、痛みと出血は止まらなかった。

「これを裸足で踏みつけてください。そうすると楽になりますよ」

 女はそう言って、恐ろしく棘の長いウニを堤防の上にばら撒いた。彼女がそこにいたことを、私はいつ知ったのだろうか。

「足の裏の皮がえぐれてすっきりしますよ」

 足裏のぶ厚い皮が気になっていた。それが少しでも薄くなるなら、やってみるのも悪くないと思った。

「体重をかけて踏んでください」

 女のいうとおり、全体重をかけて勢いよく踏みつけた。棘の先端部が突き刺さり、それは足裏を通りこして、足の甲を突き破っていた。

「痛いでしょう」

 激痛だった。生まれてこのかた、これほどの痛みを経験したことはなかった。痛みで涙がボロボロと落ち、おもわず自分の足首を切り落としたい衝動にかられた。とにかく悲鳴をあげた。そうすることで、少しでも気を紛らわそうとした。

「毒があるから痛みが増すんです」

 さんざんに踏みつけてから、それは毒のあるウニだと思い出した。間違って釣り上げても、うかつに触ってはいけない生物だった。

「ほら、鈴が鳴ってますよ」

 竿先につけた鈴が鳴っている。釣り針に魚がかかった合図だ。

 強烈な引きだった。竿の先がググッと沈み込む。リールを巻いてなんとか釣り上げると、蛇のような魚だった。防波堤の上で、細長い魚体をくねらせて大いに暴れている。

「ウツボですね。大きなウツボがかかりました。ほら、早く針から外さないと、ウツボがかわいそうです」

 鋭い釣り針が口の肉を突き刺しているので、痛みで苦しんでいるはずだ。早く外してやろうと手を伸ばすと、ウツボがいきなり噛みついてきた。

「う、くう」

 親指の根元の肉を、ジグザクにえぐられてしまった。血が噴き出して止まる気配がない。すぐに信じられないほどの痛みが襲ってきた。両足の痛みと相まって、私はおいおいと泣き叫んだ。

「フジツボが食べられることを知ってますか」

 それは知っている。大きな種類を海で養殖しているのだ。

「ほら、そこにあるでしょう」

 女が指したのは防波堤の壁だ。満月の明かりに照らされて、その灰色の表面が鳥肌のように泡だっていた。食用となるような大きなものではなく、よく岩場にへばり付いている小さいやつだ。ただし、壁一面にびっしりとすき間なく付着していた。

「寒いから服を脱ぎましょうか」

 ひどく寒かった。凍えてしまいそうだ。ざらざらした感触が、肌のいたるところをまさぐっている。まるで冷えた土砂の中に埋もれているようだ。

「なあ、フジツボで背中をこすってみろよ。きっと痛いからこすってみろよ」

 女のいう通り、防波堤の壁で背中をこすったら、とても痛いだろうと思った。どうせ全身がざらついているし、妙な圧迫感があって気分が悪い。いっそこそげてしまったほうがいいだろう。

「なあ、骨までやれよ。骨が砕けるまでこすっちまえ」

 背中の肉が削がれて、骨とフジツボがぶつかり合っていた。もはやその痛みは耐えられる限度を超えている。あまりにも歯を食いしばるので、歯ぐきから血が出てきた。

「削れ、もっと削れ」

 女の言っていることに抗しきれない。激しい痛みに苛まれながらも、背中をこすることをやめられないのだ。

 壁に付着したフジツボがボロボロと剥がれ始めていた。いや、防波堤自体も削れていた。中の砂利と劣化したコンクリートの粉が、私の足元に落ちている。月明りだけでは、それらが本当に石なのか、私の肉片なのか判別がつかない。 

「見ろよ、なあ、あたしを見ろよ」

 真後ろから言ってきた。あの女の声だ。

「おまえが放り込んだだろう。あたしを投げ入れただろう。生きたままやっただろう」

 何かが私の首と太ももに抱きついてきた。とてもごつごつしていて、嫌な感じがする。気持ちの中に悪心が満ち満ちて、気が狂いそうだ。

 人だろうと思った。痩せ細った女が、後ろから抱きついて離れないのだ。

「こんな夜だったな。なあ、こんな夜だったろう」

 女の声がねっとりと絡みついてきた。たしかに、満月の淡い明かりが溢れる夜だった。

「あんたはあたしを殺しただろう。なあ、殺しただろう。殺しただろうさ」

 そうだ、私は女を殺したんだ。あれは戦争が始まろうとしている昭和の初め頃だった。ずいぶん昔のことだ。港湾造成工事の親方をやっていた頃だ。

「手籠めにしただろう」

 陰惨なレイプだった。どうしてあんなに興奮したのかわからない。なぜだか知れないが、無性に傷つけたいと思った。

 女郎屋の女だったが、存外に美しかった。彼女の内側をえぐってやりたくて仕方なかった。

「鉄の棒を突き刺しただろう。お腹に突き出しただろう」

 女の腹にカナテコを突き刺した。すごい出血で、人はこれほど血を噴き出すことができるのだと妙に感心したものだ。

 朝になってもまだ生きていた。造りかけの防波堤に上部コンクリートを打ち込む際、型枠の中に放り込んでやった。生きたまま女は固まっていったんだ。


 ハッとして正面を見た。街の明かりがはるか向こうに小さく見えて、目の前には真っ黒な大洋が広がっていた。ここは沖防波堤であり、しかも信じられないほど沖に設置されていた。

 急に背中が柔らかくなった。後ろの壁が底なしのように感じられて、気持ちが悪かった。この感触はよく知っている。コンクリートが固まる前の柔らかい状態だ。


 耐えがたい痛みを抱えながら、私は真っ暗な海にただ一つしかない防波堤に、ズブズブと呑み込まれていた。それが潮水で浸食されて粉々になる百年の間、私は昔なじみの女と共にいなければならないのだ。

       

                                  おわり

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ホラー的なショート集 北見崇史 @dvdloto

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