王者

一齣 其日

『敗者、鳥肌、影法師』

 息があがる。

 散々に打たれ、赤く腫れ上がった腕や顔の痛みが鬱陶しい。

 カウントが6を越えた。

 立つな、立ってくれるな。

 ニュートラルコーナーで、傷だらけの王者はただひたすら挑戦者が立ち上がらないことを祈り続けていた。

 ラウンドは既に8回目、スタミナも残り少なく、あと2回のラウンドを凌ぎ切れるかも分からなかった。

 自分も挑戦者も、このラウンドで既にダウンを1回ずつ取っていた。

 鎬を削るような攻防戦が幾度も繰り広げられていた。

 8ラウンド残り2分を切ったところで、挑戦者の左ストレートをかわしざまに、王者の右クロスが決まった。

 テンプルを打っていた。顔中の皮膚が波打って、挑戦者はリングに沈んだのだ。

 残り、2カウント。

 長い。

 挑戦者は、焦点の合わない瞳で体を起こそうとする。

 もしファイティングポーズを取られたら、そう思うだけで王者の気力の方が打ちひしがれそうな気分に襲われた。

 しかし、挑戦者はもう立てなかった。

 子鹿のように震えた腕と脚は、テンプルへのダメージが相当のものであった証拠である。

 テンカウントが、過ぎた。

 レフェリーが、満身創痍の王者の腕をぐいと上げる。

 王者は勝ったのだ。

 挑戦者を退けて、数度目になる王座の防衛を成し遂げてみせたのだ。

 8ラウンド目にして、華麗にK Oを取った王者の技に観客の興奮はひとしおだ。

 実況の席では、解説が興奮したように王者の技を語っている。

 セコンドが上がり、よくやったと王者を抱擁した。

 王者はまだ、言葉も出なかった。

 疲れからだろうか、自身のダメージもあったからだろうか。

 否、ほっとしたのだ。

 ようやくプレッシャーから解放されて、ただただほっとしてならなんだ。

 横目に、打ちひしがれた挑戦者……いや、敗者を覗く。

 彼もセコンドに抱かれて、涙を浮かべていた。

 苦い涙に違いない。王者もそうだった。まだ、王者という肩書きを持たなんだ頃の、敗北の涙というのは味わいたくないほど苦かった。

 だが、彼は強かった。

 8ラウンドまで粘って、王者からダウンすら取ってみせた。

 槍のように伸びた右ストレートだった。

 スウェーが間に合わず、顔面で受けてしまった。

 左眼がどこぞの幽霊みたく腫れぼって、視界が半分になっていた。

 膝が崩れて、リングに尻餅をもついてしまった。

 6カウント目で立ったが、そこから彼の怒涛な攻勢も目に見張るものがあった。

 一度、ボディブローを効かせて流れを変えていなければ……。

 そこまで考えたところで、妙なほどに鳥肌が立った。

 あるかもしれない未来を想像するだけで、背筋に悪寒が走る。

「おい……大丈夫か」

 はっと我に返してくれたのは、セコンドであるトレーナーの言葉だった。

「折角勝ったってのに顔が青いぞ。しっかり喜べっ」

 ニッカしと明るい笑みをみせてくれて、王者もうっすと短く答える。

 そうは言われても、どうしたって王者の気分は晴れなかった。

 負けていたかもしれない。

 負けたら王者という肩書きも、ベルトという証も、それ以上に今まで築いてきた名声、地位も全て失うことになる。

 なんの肩書きも持っていなかった頃とは、もう敗北の意味合いがまるで違うのだ。

 何より、もっと恐れるものもあった。

 ここから、王座防衛戦の表彰があり、インタビューのマイクが向けられる。

 メディアのシャッターライトに観客の祝福の声援が、リング内外で飛び交っていた。

 その時ばかりは自分の胸の内を押し殺して、当たり障りのない、王者に相応しい言葉を並び立てる。

「さすがチャンピオンです! 次もこの調子で防衛線を期待してますね!」

 インタビューに答え終わって、真っ先にいつものように聞くその言葉。

 お世辞なのか、それとも心の底からの本音なのか、どちらとも知らないが、王者はその一言一句が重かった。

 初めはなんとも思わなかった。

 気を良くすらしていたのかもしれない。

 けれどいつしか、防衛戦を重ねて、挑んでくる挑戦者と削る鎬が大きくなるにつれて、なんでもなかったその言葉が、王者の胸に深く突き刺さるようになっていた。

 期待が、本当に重かった。

 このインタビュアーだけではない。

 リングの周りに駆けつけた観客の、ネットの画面の向こうにいるファンの、自分へと向けた期待全てが怖かった。

 王者となって数年だ。技術も日進月歩で、次々と有望株の新人ボクサーも現れつつある。

 時々、夢でも魘されてしまうのだ。

 まだ見ぬ挑戦者の影法師のパンチをくらいKOされてしまう己の姿を夢に見て、王者は魘されてしまうのだ。

 こんなプレッシャーと戦う羽目になるのなら、一生挑戦者として、栄光も知らずに生きていれば良かったのだ。

 それはどうしようもなく無意味で、己の下した敗者たちの侮辱に他ならぬ思考であろう。

 王者も、それは十分に自覚していた。

 どのみち、後には引き返せない。

 とっくの昔に賽の目は振られてしまっている、戻すことは叶わない。

 王者は生真面目な男だ、向けられた期待をも裏切ることはできない。

 きっとまた挑戦者が現れれば、威勢のいい言葉を並べて戦うのだろう。

 王者としての風格を見せファンや観客を喜ばせるために拳を奮い続けていくのだろう。

 まだ見ぬ影法師に王の座を奪われるいつかその時まで。

 プレッシャーも恐怖もひた隠し、孤独の道を王者は行く。

 一握りの男たちしか知らない、茨に満ちた道であった

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