21 きずな
海音が目を開けると、そこは大木の真下だった。
(え……?)
空気の軽さも大気の優しさも箱庭のものだ。しかし起き上がった海音は、そこがどこか一瞬わからなかった。
(命の香りがしない)
青々としげっていた木々が色を失っている。小鳥の声や野うさぎが駆ける音がしていた森は静まり返っていて不気味だ。
(枯れてはいない、けど……眠ってる……?)
大木に耳を押し当てると、微かに脈動する音が聞こえてほっとした。
セピア色の森を抜けて神殿にたどり着く。
(水は生きてる)
そのすぐ脇にある泉が小さな音を上げたので、海音はそちらに足を向ける。
「あっ」
何気なく泉を覗き込んで、海音は思わず声を上げた。
水面に映っているのは公国の街の様子だった。だがそれは海音の知っている公国ではなかった。
「水が……!」
道が水に沈み、家の中まで浸水している。露店でにぎわっていた広場には、店の一つも出ていない。
人々は家にはもはや住んでいないようだった。高台に避難しているようで、街はひっそりと静まり返っている。
(もしかして、雨がやまないのか?)
激しくはないが、途切れることのない雲から糸のような雨が降り続く。しとしとと、陰鬱な音を響かせながら。
街そのものが静かな滅びの道を辿っているようで、海音は血の気をなくす。
(シヴ様は何をなさっているんだ。公国を誰より大切に見守って、雲一つにも神経を尖らせて管理していらっしゃったはずなのに)
海音は立ち上がって神殿に走った。
碧玉の柱は森と同じで色を失っている。輝きはついえて、ただの石のように天井をかろうじて支えているだけ。
「シヴ様、どこにいらっしゃるんです!」
海音は精霊の名を呼びながら神殿の中を走り回った。部屋の数が多いのをこれほど憎いと思ったことはない。回廊はどこまでも続いていて、海音の足音だけが木霊していた。
全部の部屋を見て回っても精霊の姿は見当たらなかった。
もう一度丹念に部屋を回ろうと早足で歩き出した海音に、ふと違和感がよぎる。
(あれ? こんなところに扉なんてあったっけ?)
回廊の途中に小さな扉をみつけた。それは神殿の中を繰り返し探検してすべてを知り尽くしているはずの海音でも、一度も見たことがない扉だった。
そこはうっすらと緑色の燐光を帯びていて、海音に何かを伝えてくる。海音はその微かな言葉を受け取った。
「シヴ様、ここですね? 開けてください。海音です」
扉の向こうに呼びかける。少し待ってみたが、答えはない。
(あ……開く)
押してみると、それは音もたてずに開いた。海音はためらうことなく中に踏み込む。
(これは……)
中は足の踏み場もないほど木の根が絡み合って広がっていた。海音は城の大広間が入ってしまいそうな巨大な網の目をかきわけながら、根が集まる一つの樹を探し出した。
「……シヴ様」
その樹に埋もれるようにして、緑髪の男性が目を閉じて佇んでいた。籠を編むようにその周りを枝が取り巻いて、外界のすべてを拒絶しているように見える。
「僕です、海音です。シヴ様、どうなさったのですか」
海音の呼びかけに、彼はちらりと一瞥をくれる。緑髪が青白い頬にはりついて、その目には生気がなかった。
その頬を雫が伝っていく。よく見ると、頬には既にいく筋も涙の跡があった。
「嫌いだと言った」
言葉の意味がわからず海音が眉を寄せると、彼はもう一度小声で呟く。
「お前は、私を、嫌いと言った」
言葉尻が震えた。
海音は愕然とした思いで立ち竦む。
(この方は、僕のでまかせの言霊に傷ついて……?)
「そ、そんなの」
精霊の心の純粋さを思い知った気がして、海音は喉を詰らせる。
「あれは、勢いで」
「お前は出て行った」
碧玉の瞳を閉ざして、精霊は空ろな言葉を漏らす。
「ここより故郷がよいと。そう言った」
ぽたりとまた透明な雫が落ちる。
「私はまた拒絶された……誰かの代わりでもよいのに、お前はそれすらさせなかった」
海音は樹の元で精霊を見上げながら問う。
「それはルチル様のことですね?」
無言の肯定が返ってきて、海音はさらに問いかける。
「シヴ様。ルチル様はどうしてお亡くなりになったのですか?」
今それを知らなければならないと思った。精霊の心を知りたいと思った。
「ルチルは体も弱ければ心も弱い少女だった。夫であるヨハンが、自分以外の女性ばかりに目を向けるのに深く傷ついていた」
「それで?」
海音がそっと相槌を打つと、精霊は淡々と答える。
「私が代わりをした。ヨハンの姿を写し取って、ヨハンの性格を真似て、ただしルチルのことを何より想って、慈しんで……今までのマナトと同じように、ルチルが私にヨハンを見てくれるように」
波の無い口調は、押し殺した精霊の悲しみを痛切に感じさせた。
「ある時、ルチルはもう帰りたくないと、箱庭から出なくなった。現世に疲れきって、生きる気力を失った。私や惶牙がどれだけ言って聞かせても、食事すら取らなくて……」
「箱庭の外にお連れするわけにはいかなかったのですか?」
シルヴェストルはうめくように呟く。
「私はルチルに触れることができなかった。惶牙もだ。……ルチルは私たちの存在を信じていなかったのだ。ただの一度も」
精霊たちは自分を信じない存在に影響を及ぼすことができない。それはシルヴェストルなら当然わかっていたことだ。しかし、その相手がマナトだったとしたらどうだろう。
愛しいマナトが自分の存在すら信じていないとわかったら、それは精霊にとってどれだけの痛みなのだろう。海音は唇を噛み締めた。
「日に日に弱っていく様子を見ていることしかできなかった……言霊の存在しないただの抜け殻になるまで。何もかも私が悪いのだ」
「どうしてですか? 心が弱かったのは、シヴ様が悪いわけじゃない」
「マナトにしなければよかったのだ」
流れていく涙。彼はきっと前のマナトの前では泣くことすらできなかった。他の誰かの身代わりであるためには、自らの感情は押し殺さなければならなかったのだから。
「人の世界から離すべきではなかった。ただ見守っているだけでよかったのだ。私などにかかわったから、ルチルは人にとって一番大切なものを失ってしまった」
「……違います!」
海音は思わず樹にしがみついて、シルヴェストルの服の裾を掴んでいた。
「シヴ様は悪くないんです! 人は愛しい人に側にいてほしいと望みます。それをシヴ様も望んだだけです。当たり前のことをしただけではありませんか!」
「違う……私がルチルを殺したのだ……」
樹の枝が次々とシルヴェストルに巻きついていく。まるで解けない鎖で自らを痛めつけるように、彼の体を締め付ける。
「聞いてください。僕はあなたと話をしに来たんです!」
閉じこもっていく精霊に、海音は呼びかける。
「僕はあなたから逃げました。あなたが惜しげもなく与えてくれるものが多すぎて、怖くなって、ここは自分の場所じゃないと思ったんです」
精霊の表情は動かない。海音の方を見ようともしない。それでも海音は言葉を続ける。
「僕はあなたにふさわしくない。もっとすばらしいマナトをお迎えするべきだと思って。嫌いだなんて言ったのは嘘です。信じてください」
話したいことはたくさんあるのに、言葉がうまく紡げない。海音はもどかしさに口元を歪めながら必死で言葉を重ねる。
「ええと、それで……僕が宵月に戻りたいと言ったのは、僕の罪を償うためでした」
海音は俯いて言う。
「僕は父をこの手にかけました。それは許されないことで、どうしても宵月に戻って贖う必要があるんです」
深く頭を下げて、海音は頼み込む。
「ですから、どうか宵月に行くのをお許しください」
「……宵月には帰さない」
海音を憎んでいるかのように、精霊は低い声で呟く。
「戻ったらお前は死ぬ。誰が帰すものか」
海音ははっと顔を上げる。
「どうしてそれを?」
「宵月の精霊に聞いた。それに」
ゆっくりと、シルヴェストルは口を開く。
「お前の父親は死んでいない」
「え? ほ、本当ですか?」
「それも宵月の精霊に聞いた。お前が初めて公国に来た頃に」
海音は息を呑んで沈黙した。
(父上が、生きている?)
にわかには信じられないことに、海音は瞠目する。
ただ、精霊の言葉に嘘があるとも思えない。
(……よかった)
胸に宿ったのは安堵だった。たとえ自分の命を奪われようとしても、海音は今でも父を憎むことはできなかった。
海音はほんの少し目元を和らげたが、すぐに表情を引き締める。
「僕が父に刃を向けたのは事実です。戻って……」
「なぜお前は命を粗末にしたがるのだ!」
突然、シルヴェストルは怒声を響かせた。
「何のために公国に導いたと思っている! たとえ見守ることしかできなくとも、ただお前に生きていて欲しかったから、私は……!」
叩きつけるような言葉に海音は息をするのも忘れた。
「馬鹿者が……嵐の海に飛び込んだりして、魔獣に立ち向かったりなどして……お前は、お前は……」
青ざめて唇を噛み締めている精霊を海音は驚きの目で見上げていたが、ふと問いかける。
「……導いた?」
精霊の言葉を反復しただけだったが、なぜか精霊はぎくりと肩を竦ませた。
「シヴ様、公国に導いたって……」
シルヴェストルはさっと顔を背ける。海音は一つずつ、確認するように言った。
「僕、前から不思議だったんです。僕をヴェルグで拾ってくださった方はアレン様だったように見えたのに、アレン様は僕のことを知らないようでした。……もしかしたら、あの御方はアレン様に似た誰かだったのではないかと」
だんだんと心にかかっていたもやが晴れていく。そんな気持ちだった。
「城で一度だけ、肖像画の間でアレン様そっくりの絵を見たことがあります。それは若い頃の……ヨハン・シュヴァイツ・ル・シッド大公殿下」
侍女の間でも聞いたことがある。公子は若い頃の大公殿下にそっくりだと。ただ、下々の者に対しても心配りを欠かさないのは、母君であるフィリシア・ルチル公妃殿下の気質を引き継がれたのだと言っていた。
「大公殿下が若い姿でヴェルグに現れるはずがなくて……前のマナトが公妃殿下であったなら、大公殿下の姿を持つのは……」
海音は蒼い瞳を見開いて、気まずそうに俯いている精霊を見上げる。
「僕をヴェルグで助けてくださったのは、シヴ様ですね?」
「……う」
「倒れていた僕を看病して、名前を与えて、公国に来るようにと言ってくださったのは。前を向いて生きよと仰ったのは、シヴ様なんですね?」
父親に見放されて、どこにも行くあてがなかった海音にもう一度生きる希望を与えてくれた、碧玉の瞳の青年。
「……嘘はついていない。お前が問わなかっただけだ」
ぽつりと居心地悪そうに精霊は答える。
「そんな……」
探す必要などなかった。彼はずっと目の前にいたのだ。
一番側で見守っていたのを、海音が気づかなかっただけだ。
真実を知った海音は、胸に突き上げてくる感情のままに叫んだ。
「な……なんてまぎらわしいことをするんですか! シヴ様のばか!」
「ば、ばか?」
海音は生まれて初めて、体に満ちる熱湯のような感情を知った。
「シヴ様が一言言ってくだされば済んだことじゃないですか! 僕はあなたを探しに公国に来たんですよ。どうしてくれるんですか!」
海音は怒っていた。見たことのない彼女の本気の怒りに、精霊はたじたじとなる。
「な、なぜそこまで怒る」
「わかりません!」
「わからないって……」
「この気持ちをどこにぶつければいいのかわからないんです!」
アレンに抱いた淡い恋心が行き場をなくして、海音の胸を駆け巡る。
海音はぷりぷりと頭から湯気を噴き出す。
「どうして大公殿下の御姿なんかで現れたんですか」
「そ、それは……私は誰かの代わり以外で生きたことがないから、本来の姿で現れてもどうしていいかわからず」
「それなのに僕が公国に来たらマナトは要らないって仰るし」
「ルチルを不幸にしてしまったから、私などには関わらないほうがいいと……」
「傷ついたんですよ。要らないって言われて」
「それは、その……すまない。要らないわけではなく、ただ、どう言えばいいのか」
精霊は律儀にも一つずつ答えながら、不安そうに海音の表情を窺う。
「怒っているか?」
「怒ってます!」
海音はきっと睨み返して言う。
「僕は仮のマナトかもしれませんけど、それくらい話してくださればよかったんです」
「仮……とは、何の話だ?」
「最初にグロリアさんが仮でもいいからマナトにしてあげてくださいと言ったじゃないですか」
怪訝な目をして海音が言うと、精霊はいぶかしげな表情になった。
「私がそんなことを言ったか? あの時は気が動転していて、ろくに覚えていないのだ。マナトに仮初めも真もない」
海音は頭を押さえる。
ずっと仮のマナトであるから遠慮しなければいけないと思っていた。それを、精霊は全く覚えていないというのだ。
ため息をついた海音に、シルヴェストルは恐る恐る言葉をかける。
「マナトを持つべきではないとわかっていたのに、お前の姿を見たら……どうしても、帰せなくなって」
「どうしてですか」
徐々に怒りを鎮めてきた海音の問いに、精霊は口ごもる。
「ヴェルグの外れの森でお前をみつけた時、天の住人が落ちてきたのかと思った」
「天の住人、ですか?」
「ああ……」
シルヴェストルは微かに頬を紅潮させて頷く。
死者の中でも選ばれた者だけが導かれるという楽園。宵月にしか残らない古い伝説だと思っていたが、大陸の、それも精霊が信仰しているとは初めて知った。
「打ちひしがれながらも強くて、儚いほど小さいのに輝き続ける魂で……本当に、こんな、き、きれいな子が私の森に迷い込んだのは、奇跡のような出来事だと、舞い上がってしまって」
しどろもどろになりながら精霊は言葉を紡ぐ。
「マナトにした後も、きれいになっていく一方で、いつ他の精霊に奪われるかと気を揉んだ。だがお前は公国を好いているし、きっと離れることはないだろうと安心していたら……」
赤くなっていた顔が一気に青くなる。海音はそれをみつめながら、どうして今日のシヴ様はこんなにわかりやすいのだろうと考えていた。
(そうだ。シヴ様は公国そのものなんだ)
そして唐突に思い出した。公国に初めて来た時の国の印象を。
――この国は、一人で大人になった国なんだ。
(幼い心を抱えたまま、表面だけ成長した方なんだ)
それは失礼なことかもしれないが、真実のように思えた。
「海音。もう一度、戻って来てはくれないだろうか」
置き去りにされた子どものような声色で、シルヴェストルは言った。
「出て行けと言ったのは謝る。他にも何か傷つけたことがあったら全部謝るし、悪いところがあるならちゃんと直すから……」
海音はもう精霊への怒りはすっかり冷めていたが、あえてむすっとした顔をすることにした。
「一番悪いのは、僕が出ていったくらいで公国に雨を降らせたことです。惶牙も心配してましたよ。どうなってるんですか。公国が沈んじゃうじゃないですか」
「そ、それは……どうにかしようとはしているのだが、心が沈んで」
「まったく」
海音は腰に手を当てて立つ。
「シヴ様なんて、シヴ様なんて……」
両手を広げて、海音は樹の幹ごとシルヴェストルを抱きしめる。
「……大好きです」
(呆れるほど純粋に僕を想ってくれる、優しいあなたが)
微笑んだ海音に、シルヴェストルの目が止まる。
網のように彼を覆っていた枝がぱらぱらと落ちていき、彼は地面に足を下ろした。
「か、いおん……」
「あなたを残して宵月になんて行けません。あなたが僕を守ってくれたように、僕はあなたを守りたい」
降りてきたシルヴェストルを真っ直ぐに見上げながら、海音は言う。
「僕は魔獣を狩れるようになりました。お役に立てると思います」
「残って……くれるのか」
「はい」
はっきりと頷いたが、精霊はまだ呆然としたまま立ち竦んでいる。
「だが、御遣いは危ないし……」
「それは譲れません。その代わり、シヴ様の望みを一つだけ聞いてあげます」
シルヴェストルは迷わなかった。
「私のマナトになって、一生側にいてくれ」
海音は目を輝かせて、ゆっくりと微笑んだ。
「はい。一生いてあげます」
シルヴェストルの碧玉の瞳と海音の蒼い瞳が向き合った時、海音は羽毛のように柔らかく温かいものに体が包まれたのを感じた。
それはシルヴェストルも同じだったようで、驚いたように自分の周りを見回す。
「シヴ様。精霊とマナトの絆の意味、僕はわかった気がします」
シルヴェストルも頷く。
「精霊が望んで」
「マナトも望み」
海音は胸に手を当てて言う。
「その望みが重なった時に、結ばれるんですね……心が通じた証が」
絆とは心のつながり。それは考えてみれば当たり前のことだった。
周りの様子も変化していた。枯れ枝だらけだった室内に、いつの間にか花が咲き乱れている。きっと神殿の外も命の輝きが戻っているだろう。
「名を結ぼう」
シルヴェストルは海音の手を取って言う。
「ああ、最初にシヴ様がした儀式ですね」
「本当は、形式はどうでもよい。あれは南の精霊がするのを真似ただけだ」
「でももう一度始める意味をこめて、同じようにしましょうよ」
精霊は柔らかく微笑む。彼がこんなに優しく笑うのを見るのは初めてだと、海音は思った。
「我、シルヴェストル。東の果てより来た者と名を結ぶ」
今頃は公国の雨も上がっていることだろう。人々は外に出て、晴れ渡った空を仰いでいるに違いない。
「その名は海音。今この時より、我がマナトとする」
海音の頭を大きな手が包み込んで、そっと屈みこんで額にキスをする。
「ようこそ、海音。お前の生涯の家へ」
笑い返して、海音は蒼い目で精霊を見上げた。
「初めまして、シルヴェストル様。これからよろしくお願いします」
海音は背伸びをして、シルヴェストルの頬にキスを返す。
碧玉の瞳を持つ森の国の精霊と、蒼い瞳を持つ東の国の少女は、こうして生涯の絆を交わした。
訳あり精霊と秘密の約束を~世話焼き聖獣も忘れずに~ 真木 @narumi_mochiyama
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