20 開いた扉

 凍土で海音はアルトと暮らし始めた。

 雪の中に生えるわずかな植物を採ったり、動物を狩ったりして食料を確保する。アルトは生まれた時から暮らしているだけあって、どこで何が取れるのかすべてを知り尽くしていた。

 日が出ている間がとても短いので、一日が早回しで進んでいるようだった。夜は編み物をしたり細工物を作ったりしながら長話をしたが、アルトは精霊に言いつけられているらしく早々に床につく。それに付き合っていると、海音も自然と早く体を休めるようになった。

 楽しかった。アルトは海音と同い年のようにはしゃいで、けれど兄のように海音に色々なことを教えてくれて、海音はそれを見ているのが好きだった。

「すまん」

「ううん。僕が注意してなかったから悪いんだ」

 ある時、アルトは熱を出して寝込んだ。雪遊びに夢中になって日が暮れるまで遊んでいた日の翌日のことだった。

 海音は白夜に手伝ってもらいながら看病した。凍土の聖獣はこのようなことには慣れているらしく、食料の準備や頭に乗せる布の取替えなどもてきぱきとこなして、アルトの世話をいつも以上に甲斐甲斐しく焼いていた。

「情けないよな。俺、体が弱くて」

「何言ってるの。情けなくなんてないよ」

 線が細いし、マナトにはどこか弱いところがあると聞いていたが、心配は尽きなかった。

「下がってきたね。よかった」

 白夜と寝ずに看病をした翌朝、アルトの熱が落ち着いてきたことに安堵した。

「……なあ、海音」

「うん? 何か飲む?」

 ふいに話しかけられて、海音が何気なく返した時だった。

「俺さ、お前に初めて会った時、お前にずっとここにいてもらって、俺の子を産んでくれるように頼もうと思ったんだぜ」

 冗談などまるで感じさせない彼の口調に、海音は動きを止める。

「僕に?」

 あまりに予想外のことを言われたので、海音は驚いて咄嗟に言葉が出てこなかった。

「凍土は俺の世代で滅びる。俺は体が弱いからあと数年もてばいいところだろう。そして……俺と共に精霊も消える。でももしお前が俺の子を産んでくれたら、その滅びの未来も変わるだろ?」

 ふっと息を漏らしてアルトは笑う。

「それにお前っていい奴だから。俺の短い余生を一緒に楽しく生きてくれそうな気がした」

「アルト……」

 海音はアルトを男性として見たことはなかった。けれど不思議と彼の言葉がすんなりと入ってきたのは、長年文通を続けてきた親しみのためだ。

「でも駄目だ。お前みたいな優しい奴に、人生を左右させるようなことはできない」

 きっぱりと言葉にして、アルトは柔らかく微笑む。

「気づくとお前、南の空を見てる。……帰りたいんだろう?」

 海音が口をつぐむと、アルトは頷く。

「俺に遠慮して口に出せないだけで、本当はすぐにでも旅立ちたいと顔に書いてある。俺は、それでいいと思う」

「でも僕が行ったら、アルトは一人だ」

「はは。何を言ってる」

 傍らの白い狼を小突いて、アルトは苦笑する。

「俺には白夜も精霊もいる。グロリアやゼノンも時々様子を見に来てくれる。一人なんかじゃない」

 アルトは月の色の瞳を海音に合わせて言う。

「明日、ここに惶牙が来る」

 海音ははっと息を呑んだ。

「お前の場所を言ったわけじゃないが、クレスティアを通ったから大体行き先がわかったらしいな。ウチの精霊が少し話をした」

「惶牙は、何て?」

 乾いた喉に息を通しながら、海音は尋ねる。

「一度だけでいいから、公国の精霊と話をしてやってほしいと。……でなければ公国が危ないと、懇願してきた」

「公国に何が?」

「詳しくはわからない。ウチの精霊はお前が望まないなら惶牙をここに通さないが、どうするかと」

 海音は膝の上で拳を握り締めて頷く。

「……行くよ」

 アルトは手を伸ばして、そっと海音の頭を撫でた。

「よく言った。また戻って来てもいい。お前の望むようにしろ。……ただ」

 海音の手を握って、アルトは問いかけた。

「ここじゃないどこかに住むことになっても、また手紙を書いてくれ。待ってる」

 海音は深く頷いた。

「うん。必ず。君は僕の一生の友達だから」

 ぎゅっと心優しい凍土のマナトの手を握り返した。









 翌朝の早くに惶牙はやって来た。

 海音を見るなり飛びついて来て、髪やら頬やらを引っ張ったり舐められりした。何かいろいろな感情が混じり合っているようで、見ているアルトも呆れるくらい海音をもみくちゃにした。

「どうしたの?」

 アルトに尋ねると、彼は惶牙の言霊をそのまま伝える。

「「痩せたじゃねぇかこんちきしょう。こっちはどれだけ心配したと思ってんだ」」

「……ごめん」

 海音は頭を下げて謝ると、惶牙の顔をそっと撫でる。

「公国は今どうなってるの?」

「「シヴが心を閉ざして大変なありさまだ。いいから早く来てくれ。公国が沈んじまう」」

「沈む? わぁ!」

 首を傾げる海音を、惶牙は無理やり背中に乗せる。

「アルト。それじゃ」

「ああ。気をつけてな」

 挨拶もそこそこに別れて、惶牙に外に連れ出される。

 凍土の精霊の加護で舟を渡してもらった後、惶牙はひたすら海音を背に乗せて走り続けた。さすがに休憩を取ったり夜に眠らせたりはしてくれたものの、彼の急ぎようは見たことがないほどだった。

 行きは二十日ほどかかった森が、あっという間に後ろに通り過ぎていく。海音は久しぶりの惶牙の乗り心地を堪能するどころではなく、痺れと戦いながら、けれど止めようとはしなかった。

(よほど切羽詰ってるんだ。シヴ様、心を閉ざしたってどういう……?)

 公国の領域に入らない限りシルヴェストルと話をすることは叶わない。海音の心も急いて、強行軍もいつしか気にならなくなっていた。

 獣道を駆けたおかげで、七日を過ぎた辺りで森の様子が変わってきた。針のような樹木から公国の側に多かった色とりどりの木々が増えてくる。

 公国が近い。それを感じて、海音の鼓動も高鳴った。

「惶牙?」

 ふいに惶牙は足を止めると、海音を近くの木の元に下ろす。座るように促して、どこかへ駆けて行く。

(ここにいろってこと?)

 それは何となくわかったが、次の瞬間背筋をなで上げるような悪寒に気づいた。

(いる……魔獣だ)

 聖獣としての使命に駆られて惶牙は行ったのだろうと理解して、海音は考えを巡らせる。

(惶牙は僕が危なくないようにと、安全なところに残してくれたんだろうけど)

 辺りの気配を探る。確かに、この近くには魔獣はいないようだ。

(点々と散らばってる。惶牙だけじゃ……)

 マナトでない海音にどうして魔獣の気配が探れるのかはわからなかったが、不思議と魔獣の位置が特定できた。距離まではっきりと頭の中に浮かび上がってくる。

(……僕に何ができるんだろう)

 唐突に、海音はかつてヴェルグから公国に発つ日の朝に考えたことと同じことを思い出していた。

(宵月に戻れないとしたら、僕がここで生きる意味は何なのだろう?)

 俯いて海音は自問自答する。

(その答えを知りたくて、僕は公国に向かったはずだった。そして)

 鮮やかな木々に映る碧の光。それに目を細めて海音は思う。

(公国で惜しげもなくたくさんのものを与えられた。それに応えて、僕は公国のために働きたいと思ったんだ)

 答えはもう出ていた。海音はそれを言葉にする。

「大切な人たちを守るために、僕は戦う」

 海音は立ち上がって剣を抜いた。魔獣の気配の方へと真っ直ぐに走り出す。

 三体の魔獣にすぐさま取り囲まれた。猪、山犬、狼らしい大型獣たちは、海音を見るなり草木を腐らせながら突進してくる。

(目を逸らすな。僕は……!)

 恐怖は感じなかった。覚悟を決めた海音にみなぎる勇気が、恐怖を凌駕していた。

 冷静に身を屈めて剣を構えた瞬間、海音は目を見開いた。

(あれは、もしかして)

 魔獣の中を流動しながら巡っている赤く丸い球状のもの。それがふいに点滅して見えた。

(……見える! あれが核だ)

 グロリアたちが話していた魔獣の弱点。それが今の海音にははっきりと瞳に映った。

(そうか、恐れが人の目を覆い隠しているだけで、ちゃんとそこにあるんだ)

 海音は猪の魔獣の突進をかわして剣をなぎ払う。黒い土くれが少しはがれて、こぶし大ほどの赤い球が露になる。

 狙いを定めて、海音はすれ違いざまにそれを切り裂いた。

 猪の魔獣が途端に動きを止めて崩れ始める。海音はそれを横目で見ながら、迫ってきた他の二体の突進を、身を屈めてギリギリでかわす。

 海音はいつかあの人に聞いた寝物語を思い出した。

――誰しも、言霊を使って心を伝えている。

「忘れてしまっただけなんだ……」

 すべてはそこに存在していた。何もかも、いにしえから変わることなく。

 それは言霊も、人の心も同じである気がした。

 山犬の噛み付きを、手をついてかわした。腹の下からえぐるように剣で切り上げると、目の前に赤い球状のものが見える。

 海音は剣を捨てて、両手で核を引き剥がす。すさまじいうめき声を上げてのたうちまわる魔獣の下から抜け出ると、核に予備の短剣を突き刺した。

「あと一体」

 剣は少し離れたところに投げてしまっている。眼前に迫る最後の魔獣。

(恐れを抱いて目を曇らせてはいけない)

 海音はしっかりと目を見開いて、飛びついてくる狼の魔獣に身構える。

「くっ」

 一撃目はかわしたが、肩にかみつかれた。すぐさま振り払ったが、俊敏な動きで海音を地面に引き倒そうと食いついてくる。

(いけない。体力を消耗しすぎた)

 自分の動きが鈍っていることは感じた。今はもう、海音の二倍ほどの体長があるものと取っ組み合いをするだけの余裕がない。

「惶牙!」

 海音は迷わず聖獣の名を叫んだ。彼の力が必要だった。

(僕は公国に行かなきゃいけないんだ)

 自分の大切さを、海音はようやく理解できた。勇気はすべてを自分で解決しようと人の助けを拒むことじゃない。助けを借りながら、自分にできることを精一杯やること。

 惶牙はすぐさま現れて魔獣に食らいついた。球体を取り出そうと黒い土くれを払っている間に、海音は走って剣を拾い上げる。

「離れて、惶牙!」

 自分が言霊を操っていることを、海音は気づいていなかった。

 惶牙は海音の声に反応して離れる。海音は剣を握り締めて魔獣の上に飛び乗る。

 真っ直ぐに剣が球体に突き刺さる。もがく魔獣に海音は振り落とされたが、魔獣の動きはまもなく止まった。

「はぁ、はぁ……っ」

 息が上がった海音の側に惶牙が寄ってきて頬をなめる。よくやったと言ってくれた気がして、海音は微笑み返した。

「あ……」

 ふいにどこかで嗅いだ香りが鼻先を掠めた。それに惶牙も気づいたようで、顔を仰向けて大きく吼える。

 森の中を惶牙の咆哮が駆け巡る。

 海音の体が急に沈んだ。懐かしい空気が海音を取り巻いていく。

 それは、海音が初めて公国のものに触れた時と同じ。視界が真っ白に染まっていく。

「シヴの心を取り戻してくれ。頼む……海音」

 惶牙がそう言ったのが、海音の耳に届いた。

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