19 過去
「僕の宵月での名前はライ。皇家を支える一族の血脈で、後ろ暗い面を持っていた」
海音の話に驚くでも疑いを向けるでもなく、アルトは頷いて先を促す。
「僕の師であり上官であり、絶対服従の主であったのが僕の父。父はとても厳しかったけど、優しくもあった。僕のことをかわいがってくれた」
顔を上げて、海音は目を細める。
「転機は、お仕えする皇族にお披露目する儀式の直前。僕が七歳になる一月前のこと」
海音の心は七年前に飛ぶ。海音に深い傷を与えた日の、ほんの少し前に。
「僕が男の子でないことがわかるまでは、僕は幸せだったんだ……」
父は朝から機嫌が良かった。元々、海音に武術を教える時以外は朗らかな笑みを崩さない人間だったが、海音はその父の上機嫌を見ているのが嬉しかった。
「明日からは、ライは私たちの仲間入りだ。これからは今までよりずっと一緒にいられるようになるね」
「ありがとうございます。僕も嬉しいです」
海音は父に対しても敬語を使っていた。あらゆる武術に秀でていて皇族の側近としての知性も備えている父を尊敬していた。
海音の父は長い黒髪を頭の高い位置で縛っていて、瞳は海音と同じ蒼をしていた。微笑まなければ目だけで凍てつかせてしまうほどの冷たい美貌を持っていた。
「行儀が悪いですよ」
「いいんだよ。誰が見ているわけじゃないし」
海音は父の膝の上で遅い昼食を取っていた。母は今朝から留守にしていたが、父が甘いのは海音だけで母に対してはいてもいなくても同じような態度を取っていたので、別段気にかける様子はなかった。
そのことを悲しいと思う感情は持っていなかった。海音の世界は父の作り出すものがすべてだった。
「僕はどなたにお仕えすることになるのでしょう?」
「第三皇子殿下だよ。父さんと同じだ」
父は相好を崩して海音の頭を撫でる。
「殿下はまだ十八で、男性だけど少女に見紛うようなかわいらしい御方だよ。お前のことを話したら、楽しみにしていると仰った。きっとかわいがって頂けるよ」
「光栄です。精一杯お仕えします」
一族はあらゆる面で主に仕える。男色が貴族のたしなみであるから、閨の相手さえもその役目に入る。海音はその意味をよくわかっていなかったが、たぶん理解できていても同じ受け答えをしていただろう。
「食べたら衣装合わせをしよう。殿下に初めてお会いするのだから、きちんとしておかないとね」
「はい!」
海音は元気に頷いた。これで父やその主である皇子の役に立てると思うと、異性に肌を見せてはいけないと母に言い聞かせられたことさえ忘れてしまっていた。
訓練は厳しかったが、父が甘やかしてくれるこのひとときは海音にとって一番好きな時間だった。
「父上、一つお聞きしたいことがあります」
「ん? 何だい?」
「僕には父君が二人いるのですか?」
海音はまんまるな青い目で父を見上げる。それに、父はくすりと笑って首を傾げる。
「どうしてそう思うの?」
「だって、時々父上は入れ替わっておられるでしょう? 無口で、あまり笑わない父上と」
「ふふ。よく気づいたね」
父は海音の頭をぽんぽんと叩いてその目を覗き込む。
「当たりだよ。海音にはもう一人父君がいる。私の双子の弟だ」
「叔父上ですか?」
「二人の子だ。私たち二人の区別ができる人間はほとんどいないんだ」
海音はなるほどと頷いた。子どもには父と母が一組だけど、自分の場合は父が二人いて均衡が取れているのだと納得した。
「軽く汗を流してから衣装合わせをしよう」
笑い合いながら食事を終えて、海音は父に連れられて泉の方に向かった。
性別を父に対しても隠さなければいけないと母に言い聞かせられていたことをちらりと思い出した。けれどどうせ衣装を着せてもらうなら明日にでもわかることだと楽観していた。
少し雨が降り始めていた。父は空を見上げて言う。
「嵐になるかもしれない。急ごう。ほら、ライも」
先に着衣を解いて、父は鍛え抜かれた体を泉につける。手招きされて、海音も前合わせを解いた。
父は何気なく目を戻そうとして、ふいと海音を振り向いた。それは奇妙にゆっくりとした動作だった。
「知らなかった。お前、女の子だったの」
世間話をするように言ってきたので、海音がこくんと頷く。父はあまりにいつも通りだったから、海音はそのまま近寄ろうとした。
目の前で光が閃いた途端、思わず海音は身を引いていた。
「……ち、ちちうえ?」
海音の前髪が切れて宙に舞う。
「避けちゃ駄目だろう? できれば痛みを感じずにいかせてやりたかったのに」
父は短刀を手にしていた。子ウサギを仕留めるように逆手に持ち、海音の首を狙ってなぎ払った。
「女の子は要らないんだ。用のない子どもを育てるわけにはいかない。だから」
父は笑みを消した。冷酷無比な上官の顔だった。
「殿下に知られる前に消さなきゃね」
伸びた手から、海音は無意識に逃げた。哀れな防衛本能だった。
「父の言うことには従いなさい」
「い……いやです!」
殺される。それを直感で理解して、海音は踵を返す。だがその手がぐいと引っ張られる。
空が雷鳴でぎらりと光った瞬間だった。
背中に熱い痛みが走った。刀で切りつけられた痛みに海音は悲鳴を上げて、それでも何とか腕を掴む手から逃れようともがく。
「逃げるな。一撃で仕留められない」
父にとっては、自分はもはや獲物の一つでしかない。それを知って、海音は泣き出しそうになるのをこらえながら体をばたつかせる。
ふいに矢が父のすぐ側を掠める。少し身をかがめなければ父に当たっていただろう。海音を拘束する手が少し緩む。
海音は思い切って父の鳩尾に当て身をくらわせていた。
完璧には入らなかったが、父の下から這い出るには十分だった。
「殺すな! 私の子だ!」
父の声とそっくりの声を背中で聞いたが、海音は無我夢中で走り出していた。後ろから追って来るのがどちらの父か、それすらもわからないまま。
頭上では雷が激しく鳴っていた。雨はますます強くなり、昼だというのに真っ暗な世界が広がっていた。
追いつかれたのは夜になってからだった。靴はとっくに破れて裸足に砂利が食い込んだ。
海音は絶壁に追い込まれていた。後ろは遥か下に海面が見える崖で、前方に父の姿があった。
何を言っても無駄な気がした。泣いても乞うても許してもらえるとは思えなかった。
(死にたくない……っ)
ただそれだけの思いで海音は刀を振るって、気づけば父を絶壁に追いやっていた。
死への恐怖だけで、海音は父を崖から落とした。
真っ暗な海が父を飲み込む。
……ここから落ちたら助からない。
とんでもないことをしてしまったと、海音は呆然と立ち竦む。
疲れ果てて座り込んだところで、風がうなる音が聞こえた。もう一人の父が近づく気配がした。
なぜ自分はこんな目に遭っているのだろう。男に生まれなかったから? それを隠していたから? でもそれは、仕方なくて。自分ではどうしようもなくて。
どうしてどうして。
何もかもから逃げたくて、海音も海に飛び込んでいた。
「……気づいたら竜人の島に流れ着いていたんだ。彼らは僕の事情も聞かずに手当てをしてくれた。僕が一刻も早く宵月から離れたいと言ったら、大陸に渡る船に乗せてくれた」
「怪我は大丈夫だったのか?」
心配そうにアルトが問いかけてきた。海音はそれに苦笑して、そっと背中に触れる。
「竜人の皆にそれ以上迷惑をかけるわけにはいかなかったから、平気だって言ってヴェルグの街で別れて……すぐ、森で動けなくなってたんだ」
海音は目を伏せて、柔らかく微笑む。
「そこで僕を拾ってくれた人がいた。……僕はその人に、生きる希望を与えてもらったんだ」
海音は決して忘れることのできない記憶の回想を始めた。
熱に浮かされる中で、海音は誰かに抱きかかえられた気がした。視界すらぼやけて、頭の中もぐちゃぐちゃで、けれど優しい匂いがその人から漂って不思議と安心できた。
「酷い熱だ。お父さんやお母さんは?」
ベッドの上に寝かされて心配そうに訊ねられた。海音は何を問われたのかわからず、ただ浅い呼吸を繰り返すだけだった。
カッと窓の外が光って、海音は反射的に体を小さくした。刀傷を受けた瞬間、父が海音を殺そうとした瞬間のことが蘇って、恐怖に体を震わせた。
「ごめんなさいっ。とうさまぁ!」
悲鳴を上げると、傍らの誰かが海音の頭に触れた。
「ぼくがしんでれば、ぼくがいうことをきいてれば、あぁぁ!」
「そんな悲しいことを言ってはいけないよ」
そっと頭が抱きしめられた。長い髪が海音の頬に触れた。
「君は宵月の子か。そこで辛いことがあったんだね?」
包み込むような優しい声色で海音に話しかけてくる。
「ぼくがわるいこだから……」
「後悔できる子は悪くない」
よしよしと頭を撫でながら、その人は告げる。
「ゆっくり体を休めなさい」
顔を濡れた布で拭ってくれて、肩まで布団を掛けられる。
「……こわい」
海音はぽろぽろと涙を零して呟いた。
「ぼくはころされる。こわいよ……!」
「宵月の人が君を?」
耐えられなくて恐怖を口にすると、その人は静かに返した。
「どうして」
「ぼ、ぼくがとうさまを……こ、ころして」
「それは君を父様が手に掛けようとしたからなのだろう?」
自分はそんなことまで口にしてしまったのだろうかと、海音は迷いながらも頷く。
「君は悪くないよ。宵月から出て来てよかった。逃げてよかったんだ」
その人の声は無条件で胸の奥に入ってくるような、不思議な響きを帯びていた。
「こわいよ……」
「大丈夫。ここには君を傷つける人はいない」
その人はずっと海音の手を握っていてくれた。夢かうつつかわからない状態をさまよう海音の側に、いつもついていてくれた。
一体いつ食事を取ったりしているのかわからないくらい、その人は海音の側を離れることがなかった。
熱が下がってくると、その人の姿が見えるようになった。
「体を起こして大丈夫なの」
金色の髪を後ろで縛り、瞳は碧色。宵月では見たことのない異国人だったが、彼はとても優雅で、座っているだけで絵になる男性だった。
「あの、あなたは?」
「私……は、その」
彼は困ったように目を伏せた。それに、海音は慌てて訂正する。
「すみません。まずはお礼を申し上げるべきでした。ありがとうございます」
「いいや……」
見ず知らずの自分を拾って看病してくれた親切な人に、海音はぺこりと頭を下げた。
「お金を持っていないのですが」
「そんなことはいいんだ。その、君を拾ったのは私の勝手で」
碧の瞳の彼は慌てた様子で言葉に迷う。
頷く様子はどこか幼くて、そして海音をみつめる目は光で輝いていた。
「あ、いや。とにかくお金とかそういうものを気にすることはないから、ゆっくり休みなさい」
わたわたと海音を布団に引っ張り込む彼に、海音は言葉をかける。
「あの、本当にお礼をしようにも」
「ああ、私が奴隷商人かもしれないと疑っているの? それだったら寝ている内に運び出してるよ」
「いえ、あなたが悪意のある人だと思っているわけじゃなくて」
「だったら安心して眠りなさい。ここについていてあげるから」
どうしてそこまでしてくれるのかを尋ねられないまま、彼は海音を看病してくれた。
細く長い指が何度も海音の髪を梳く。
碧玉のような瞳で海音をみつめたその人に、海音は目が離せなかった。
海音は顔を上げて、微笑みながらアルトに言う。
「その人は僕に名前を与えて、公国に来るようにと言った。そうすれば、直接は会えないかもしれないけど必ず見守っていると。僕はそれで公国に行くことを夢見て、ヴェルグで働いてお金をためていたんだ」
「そしてグロリアにマナトの資質を見出されたんだな」
アルトの言葉に、海音は目を瞬かせる。
「知ってるの?」
「何年か前、グロリアがここを発つ時に、ヴェルグの街に公国のマナトとなるべき者がいるから迎えに行くと言っていたからな」
アルトは少し考えてから言葉を続ける。
「それで公国で生きる決意をしたのに、どうしてまた宵月に戻ろうと思ったんだ?」
海音は首を横に振る。
「やっぱり罪は消えないと思うんだ。だから、償いに」
「だがその人だってお前は宵月から出て来てよかったと言ったんだろう? 俺もそう思う」
アルトは月色の瞳でじっと海音を見据える。
「その人がもう一度お前に会ったら言うこと、俺はわかる気がするな」
「それは……?」
「過去に囚われるのはもうやめろってことだよ」
アルトの手元の火が爆ぜる。
「殺されそうになって抵抗したのは当然だろう。それなのにお前は七年間も苦しんだ。命をもって宵月に償いに行こうともした。もう十分じゃないか」
「そんなことはない。僕は殺されても仕方がないことをしたんだ」
「お前は宵月の狭い世界のしきたりにこだわりすぎてる。俺からしてみれば、どうして殺されるとわかってる所に戻ろうとするのかわからない」
海音は顔をしかめて首を横に振る。
「宵月ではそれが普通だった」
「ほら、そこで宵月を持ち出す。海音。俺や他のいろんな人間にはそれでも構わない。でもな、お前はそれじゃ駄目なんだ」
手を伸ばして、アルトは海音の肩に手を触れる。
「精霊はマナトのすべてを受け止めるつもりでマナトと名を結ぶ。……お前はその精霊の思いに、真っ向から応えたのか?」
月の色の瞳はすぐに逸らしてしまった蒼い瞳を捉えようと、真っ直ぐにみつめてくる。
「すべてを話さなきゃならないのは俺に対してじゃなくて、公国の精霊に対してのはずだ。お前の精霊は打ち明けるのに役不足なほど不誠実なのか?」
「アルト……」
鋭い物言いに海音がうろたえる。
「そんなつもりじゃ」
「きついかもしれないが聞いてくれ。お前は精霊を心から信じてないんだよ」
海音は宵月から逃げる時に最後に感じた海の冷たさを思い出していた。体の中の血が一斉に凍っていくような衝撃が、全身に走る。
「僕が……信じてない?」
「そうだ」
深く頷いて、アルトは続ける。
「お前は怖がってるんだ。精霊が自分を受け入れてくれるか。だから逃げ出した。今度は公国から宵月に」
海音は黙りこくった。アルトの言葉が秋に舞い落ちる木の葉のように頭の中で巡った。
(怖かったのは、宵月での罪じゃなかった。自分を受け入れてもらえるか、こんな僕でも……愛してもらえるのか)
自分の心の奥にあった渇望に気づいて、海音は泣きたくなった。
海音は一度喉を鳴らして、迷いながら口を開く。
「どうしてわかったの? 僕自身もわかってなかったことなのに」
俯いて訊ねると、凍土のマナトは苦笑した。
「グロリアから聞いてるんだよ、いろんなマナトのことを。皆一度は悩むんだそうだ。精霊に受け入れてもらえるかどうか、自分がマナトでいいのかって」
「みんな……アルトも?」
アルトはうろたえて、困ったように目を逸らした。
それで彼も悩んだことがあったのがわかって、海音は目をぱちくりとする。
「だから笑うなっての。チビの頃の話だろうが」
憮然として宙に言葉を放つアルトは、まだ幼さが残っているような気がした。
「俺はお前の国の精霊に会ったことはないし、精霊はウチのしか知らないが」
目を逸らしながら、迷いながら、アルトはぼそりと呟く。
「精霊は呆れるほど純粋に、マナトのことを想ってるもんだぞ。だからちゃんと信じてやれ」
信じる。それを聞いて、海音は気づく。
(僕はシヴ様のことを想って公国を離れたつもりだったけど、そうじゃなかった。本当にシヴ様を信じてるなら、すべて話して納得してもらってから出てくるべきだったんだ)
だからと海音は唇を噛む。
(シヴ様はまだ納得できていなくて、僕が行く先々で妨害をしていらっしゃるんじゃないだろうか)
「……僕、もう一度シヴ様と話してみなきゃ駄目だね」
アルトは目を上げて頷く。
「ああ」
「たとえ許してもらえなくても、話すら聞いてもらえなくても」
「そうだな」
「……だけど、アルト」
海音はぎゅっと手を握り締めて俯く。
「僕は、怖いんだ」
灯りに照らされても、アルトには海音の顔が哀れなほど青ざめて見えた。
「お前などいらないという言葉を……もう二度と聞きたくないんだ。会いに行って、もし、もしそう言われたら、僕……」
手が真っ白になるほど強く握り締める海音の隣に、アルトはそっと腰掛けた。
「お前、小さい頃に負った傷、一つも治ってないんだな」
肩を抱いて、凍土のマナトは静かに言う。
「精霊にも聖獣にも、公国の人間にも言えなかったのか。よく今まで我慢したな」
ぽろりと目から零れ落ちた涙を、アルトはすくい上げる。
「それなら落ち着くまでここにいればいい。凍土には公国の精霊の力は及ばない。何日でも、何年でも……気が済むまで」
静かに泣き出した海音の頭を、アルトはまるで実の兄のように撫で続けていた。
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