第八部《煙の毒》を払う
2‐51皇后の病を診る
大陸を統一する
後宮は
春から夏に、季節を替える恵みの雨だ。南部に横たわる山脈の影響で都には地方よりも駆け足で
皇后の住まう貴宮は
貴宮の
「このたびはご懐妊、おめでとうございます」
銀髪に孔雀の笄を挿し、青緑の
「御子は望めないと言われ続けてきたけれど、こんな奇蹟があるだなんて。ほんとうに幸せだわ。皇帝陛下の忘れがたみね」
欣華は嬉しそうに膨らんだ胎をなでる。
「すでに安定期に入られているとお聴きいたしました」
雕皇帝が崩御してから約五カ月が経つ。
雕皇帝は
「この頃はお
「まあ、左様ですか。お健やかで喜ばしいことですね。……それでは失礼いたします」
「ほかの医師たちはとうに匙を投げてしまったから、あとは貴女だけが頼りなのよ」
「善処いたします」
触診したかぎりだと筋が弛緩して、萎えていた。強めに指圧して「痛みは感じますか」と尋ねたが、麻痺しているのか、欣華は首を横に振る。
「幼いころに熱が続いたご経験はありますか」
幼少期に高熱をだすと末梢神経に後遺症が残ることがある。
「ごめんなさい、後宮に迎えられるまでのことは想いだせないの……」
「たいへん失礼いたしました」
慌てて頭をさげる。
皇后が記憶喪失だという噂は聴いたことがあった。戦場をあてもなく彷徨っていたところを
続けておこなった腹診、聴診でも異常はみられなかった。さながら呪いのようだと考えかけて、非現実的な考えだとみずからを叱責する。
「お食事は取られていますか」
「ちゃんと喰べているわ。でもそうねぇ、この頃は
異常な
欣華は時々長期の睡眠を取るという噂があった。長い時はひと月程眠り続けるとか。事実だとすれば、脚が動かないこととも関係があるかもしれない。
(だとすれば、あの病証か)
試せることは端から試す。
「承知いたしました。貴宮の
「もちろんよ。ふふ、貴女の薬膳なんていつ振りかしら。楽しみにしているわね」
…………
そればかりか、鍋から湯勺まで純銀製だ。皇帝の食事をつくる宮廷の庖厨でもこれほど豪奢な造りではなかった。食医つきの女官である
「皇后陛下は
「気ですか? 確か、人の身のうちには三種の要素が循環していて、五臓六腑を始めとした器官を動かしているんですよね」
「そう、それが
「気には生まれつき備わっている先天の気と、食物や呼吸、環境から補える後天の気があります。後者のなかでも、食物によって補う栄養素は水穀の気と言います」
慧玲は喋りつつ水桶を運ぶ。
「よって今晩の薬膳には水穀の気を補い血を養う、こちらの食材をつかいましょう」
水桶を覗きこんだ藍星が「げっ」と声をあげた。
「これ、蛇ですか!?」
「魚ですよ。
都ではそれなりに希少で、高級な食材として扱われている。
「
「りょっ、了解です」
藍星は桶のなかで泳ぎまわる鰻を取りだそうとする。だが、鰻はぬめぬめとしていて細長い身をくねらすので、かんたんには捕まえられなかった。
「わっ、わっ、わっ」
あわあわしながら、藍星はまな板に鰻を乗せた。
慧玲がすかさず、あばれる鰻をつかむ。頭を落とさないように中骨に一撃をいれて締めた。続けて鰻の頭部に釘を刺して、まな板にうちつける。
背から庖丁をいれ、身をふたつにひらく。尾の先端まできたところで庖丁をかえして、往復するように滑らせ、骨や毒のある肝をそぎ落とす。
この
「ちなみに鰻の毒は熱で分解されるので、それほど危険なものではありません。肝はあとから吸い物にしましょうね」
毒のあるものほど扱いかた次第で強力な薬となる。
だが、有毒の血か。慧玲は調理を続けながら、
鴆は皇太子だが、その素性は滅びた毒師の一族だ。
秋宮での
逢いたい。
だが鴆からは逢いにこれても、後宮食医に過ぎない慧玲が要請もなく宮廷に渡ることはできなかった。
「慧玲様、考えごとですか?」
鍋に伸ばして焼いていた卵がこげそうになっていた。藍星に声をかけられ、慧玲は慌てて箸を動かして、薄焼き卵をすくいあげた。
「すみません、だいじょうぶです」
頭を振って、もやもやとした思考を振り払った。
いつだってそう、鴆だけが慧玲の冷静な思考をかき乱す。彼は比類なき毒だ。
「
「完璧です。でも珍しいですね。普段だったら
「脂の乗った
「わ、皇后様の気虚にぴったりのお薬になるわけですね。さすがです」
鰻のたれはさきに鍋につくっておいた。
「七輪をつかって鰻を焼きましょう」
鰻というと
「うわあ、これはぜったいにおいしいですよ! においだけでご飯三杯はいけます!」
藍星はほんとうに香りだけで頬が落ちそうになったのか、両手で押さえていた。
「調いました、
…………
箸をつけるなり、
「まあ、なんておいしいのかしら。
鰻重だけではなく、鰻を胡瓜と和えた酢の物、鰻の肝をつかった吸い物もそろえた。甘辛い味つけの鰻重に酸味や苦味を添えることで、
「鰻は煮つけた物を食べたことがあったけれど、こんなにふわふわに焼きあげるなんて。脂も乗っていて、絶品だわ」
「鰻は気を補うほか、腎と肝を養うことで筋や骨を強化する効能がございます。気が滞りなく循環すれば末梢神経の痺れを取りのぞけるのではないかと思い、調えました」
「そうなのね、だからあなたのつくるご飯はとってもおいしいのねぇ」
万華鏡を想わせる瞳が、慧玲を映す。
「……ああ、ほんとうに
「肝吸いにはどんな効能があるのかしら」
尋ねられて、慧玲は一瞬にして我にかえる。
「鰻の肝は
「物知りね。ふふ、さすがは後宮食医さんだわ」
「身にあまるお褒めの言葉を賜りまして、恐縮でございます」
先程の身が竦むような緊張はなんだったのか。頭をさげながら考えたが、慧玲には思いあたることがなかった。
「今後、朝昼晩の食の監修を貴女にお願いするわ。晩ご飯だけは貴女に直接調理してもらえると嬉しいのだけれど」
「謹んで拝命いたしました」
皇后の食を監修するなんて身に余る重役だ。期待を裏切るわけにはいかない。慧玲は決意を新たに額づいた。
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お読みいただきまして、ありがとうございます。
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