第八部《煙の毒》を払う

2‐51皇后の病を診る

 大陸を統一するコク帝国は毒疫どくえきに見舞われていた。一年八カ月経っても終息のきざしはなく民心みんしんは陰っていたが、皇后の懐妊という喜ばしい報せがもたらされ、宮廷から都にいたるまで祝福の声で華やいでいた。

 


 後宮は皐月ごがつ緑雨りょくうが降り続けていた。

 春から夏に、季節を替える恵みの雨だ。南部に横たわる山脈の影響で都には地方よりも駆け足で雨季うきがくる。新緑を映す雨の雫が紫陽花あじさいのつぼみを膨らませて、睡蓮の茎を延ばす。後宮の庭が夏の花々で賑わう時期はそう遠くもないだろう。


 皇后の住まう貴宮は時季じきに縛られず、梅に向日葵ひまわり竜胆りんどうと春から秋までの花が咲きそろっている。だが、貴宮たかみやにも雨は降る。雨霧うろの帳をかぶり、今は貴宮も他の宮と同様に雨季の趣を漂わせていた。

 貴宮の一郭いっかくには水晶宮すいしょうきゅうがある。応接につかわれる玻璃ガラス張りの宮殿は濡れた緑にかこまれて、朧月おぼろづきのように微睡まどろんでいる。


「このたびはご懐妊、おめでとうございます」


 銀髪に孔雀の笄を挿し、青緑の襦裙きものをまとった姑娘むすめが袖を掲げて低頭する。ツァイ 慧玲フェイリン、彼女は白澤はくたくという叡智の一族の血脈を継ぐ後宮の食医だ。慧玲が揖礼ゆうれいする先では車椅子にすわった欣華シンファ皇后が華のように微笑んでいた。


「御子は望めないと言われ続けてきたけれど、こんな奇蹟があるだなんて。ほんとうに幸せだわ。皇帝陛下の忘れがたみね」


 欣華は嬉しそうに膨らんだ胎をなでる。


「すでに安定期に入られているとお聴きいたしました」


 雕皇帝が崩御してから約五カ月が経つ。

 雕皇帝は土毒どどくを解毒したあと、貴宮に御渡りしており、時期から考えても皇后に宿ったのがディアオ御子おこであることは疑いようもなかった。


「この頃はおなかを蹴るようになったのよ」


「まあ、左様ですか。お健やかで喜ばしいことですね。……それでは失礼いたします」


 慧玲フェイリンは頭をさげ、みずからの膝に皇后の足を乗せた。皇后は雕皇帝に連れてこられた時から脚が動かず、日頃から女官に介助されている。幸いにも動かないのは脚だけだが、出産に危険をともなうため、懐妊を機に脚の治療が始まった。


「ほかの医師たちはとうに匙を投げてしまったから、あとは貴女だけが頼りなのよ」


「善処いたします」


 触診したかぎりだと筋が弛緩して、萎えていた。強めに指圧して「痛みは感じますか」と尋ねたが、麻痺しているのか、欣華は首を横に振る。


「幼いころに熱が続いたご経験はありますか」


 幼少期に高熱をだすと末梢神経に後遺症が残ることがある。


「ごめんなさい、後宮に迎えられるまでのことは想いだせないの……」


「たいへん失礼いたしました」


 慌てて頭をさげる。

 皇后が記憶喪失だという噂は聴いたことがあった。戦場をあてもなく彷徨っていたところをディアオ皇帝が保護し、宮廷に連れてきたとか。欣華が雕皇帝と同姓であるのはそれゆえである。


 続けておこなった腹診、聴診でも異常はみられなかった。さながら呪いのようだと考えかけて、非現実的な考えだとみずからを叱責する。


「お食事は取られていますか」


「ちゃんと喰べているわ。でもそうねぇ、この頃はべても喰べてもお腹が減っちゃってこまっているの」


 異常な食欲亢進しょくよくこうしんか。妊娠時には食欲の変動があるものだが、欣華シンファは肥った様子はなく痩せている。吸収が滞っているのではないだろうか。

 欣華は時々長期の睡眠を取るという噂があった。長い時はひと月程眠り続けるとか。事実だとすれば、脚が動かないこととも関係があるかもしれない。


(だとすれば、あの病証か)


 試せることは端から試す。白澤ハクタクたる母親が治療できなかった皇后の脚を、姑娘として完癒させる。それが慧玲の使命だ。


「承知いたしました。貴宮の庖厨くりやをお借りしてもよろしいでしょうか」


「もちろんよ。ふふ、貴女の薬膳なんていつ振りかしら。楽しみにしているわね」


 欣華シンファ姑娘しょうじょのように純真な微笑をこぼす。彼女の微笑にはいつだって陰りがない。今は亡き雕皇帝が寵愛した華の微笑だった。


 

 …………

 


 貴宮たかみや庖厨くりやは大理石で造られていた。

 そればかりか、鍋から湯勺まで純銀製だ。皇帝の食事をつくる宮廷の庖厨でもこれほど豪奢な造りではなかった。食医つきの女官であるミン 藍星ランシンは庖厨に入るなり「ふえぇっ、御殿ごてんじゃないですか」と眼をまわして倒れそうになっていた。


「皇后陛下は気虚ききょではないかと考えられます」


 藍星ランシンは騒いでいたが、慧玲フェイリンの推測を聴き、いっきに真剣な表情になる。


「気ですか? 確か、人の身のうちには三種の要素が循環していて、五臓六腑を始めとした器官を動かしているんですよね」


「そう、それが気血水きけつすいです。血は血液にして火の働きをつかさどる。水は津液といって、胃液や唾液などが含まれます。身体を潤滑に動かす水の要素ですね。最後が気。健全な状態のことを元気というようにこの気こそが命の源であり、健康の基礎をつかさどります。この気が枯渇している状態を気虚と言います」


 気虚ききょに陥ると疲れやすくなるほか、胃腸を含めた脾の働きが鈍り消化吸収不良になる。大抵は食欲不振になるが、肝気虚だと逆に食欲が旺盛になる。だが、吸収が滞っているために食事量にかかわらず痩せてしまう。


「気には生まれつき備わっている先天の気と、食物や呼吸、環境から補える後天の気があります。後者のなかでも、食物によって補う栄養素は水穀の気と言います」


 慧玲は喋りつつ水桶を運ぶ。


「よって今晩の薬膳には水穀の気を補い血を養う、こちらの食材をつかいましょう」


 水桶を覗きこんだ藍星が「げっ」と声をあげた。


「これ、蛇ですか!?」


「魚ですよ。うなぎと言います。島国では夏の疲れには鰻と推進されていて、民間でも広く食されているとか」


 都ではそれなりに希少で、高級な食材として扱われている。


さばいていきますが、血には微毒があるので眼に入らないよう気をつけてくださいね」

「りょっ、了解です」


 藍星は桶のなかで泳ぎまわる鰻を取りだそうとする。だが、鰻はぬめぬめとしていて細長い身をくねらすので、かんたんには捕まえられなかった。


「わっ、わっ、わっ」


 あわあわしながら、藍星はまな板に鰻を乗せた。

 慧玲がすかさず、あばれる鰻をつかむ。頭を落とさないように中骨に一撃をいれて締めた。続けて鰻の頭部に釘を刺して、まな板にうちつける。

 背から庖丁をいれ、身をふたつにひらく。尾の先端まできたところで庖丁をかえして、往復するように滑らせ、骨や毒のある肝をそぎ落とす。


 このかん、五秒だ。よどみのない庖丁さばきに藍星ランシンは圧倒されている。


「ちなみに鰻の毒は熱で分解されるので、それほど危険なものではありません。肝はあとから吸い物にしましょうね」


 毒のあるものほど扱いかた次第で強力な薬となる。


 だが、有毒の血か。慧玲は調理を続けながら、ヂェンのことを想いだしていた。

 鴆は皇太子だが、その素性は滅びた毒師の一族だ。人毒じんどくという禁じられた毒を身に帯びていて、血潮をひと雫垂らすだけで人を絶命させることができる。危険な男だが、慧玲とは切っても切れない関係だ。


 秋宮での麦角バッカク中毒の事件後、慧玲は一時昏睡状態となった。意識を取りもどしてからは十日が経つが、ヂェンとはあれきり逢えていなかった。


 逢いたい。

 だが鴆からは逢いにこれても、後宮食医に過ぎない慧玲が要請もなく宮廷に渡ることはできなかった。


「慧玲様、考えごとですか?」


 鍋に伸ばして焼いていた卵がこげそうになっていた。藍星に声をかけられ、慧玲は慌てて箸を動かして、薄焼き卵をすくいあげた。


「すみません、だいじょうぶです」


 頭を振って、もやもやとした思考を振り払った。

 いつだってそう、鴆だけが慧玲の冷静な思考をかき乱す。彼は比類なき毒だ。


山椒サンショウは挽き終わりましたか」


「完璧です。でも珍しいですね。普段だったら花椒ホアジャオをつかうのに」


「脂の乗ったうなぎには品のいい辛味をもった山椒こそが合います。花椒では主張が強すぎて、鰻をひきたてるどころか旨みまでなくなってしまいますからね。それに山椒には胃腸に働きかけ、消化吸収を促進する効能があるんですよ」


「わ、皇后様の気虚にぴったりのお薬になるわけですね。さすがです」


 鰻のたれはさきに鍋につくっておいた。


「七輪をつかって鰻を焼きましょう」


 鰻というと紹興酒しょうこうしゅで煮るか、拉麺のスープにするのが定番だが、慧玲は串に通して七輪で焼いた。焦げめがついたら蒸篭せいろに入れて十二分ほど蒸す。あわ雪のようにふんわりとした身に刷毛はけでたれをつけ、再度七輪に乗せた。たれをつけては焼いてを繰りかえす。備長炭の香が鰻にうつり、豊かな風味をかもしだす。


「うわあ、これはぜったいにおいしいですよ! においだけでご飯三杯はいけます!」


 藍星はほんとうに香りだけで頬が落ちそうになったのか、両手で押さえていた。

 錦糸卵きんしたまごを散らした白飯に鰻を乗せる。最後にあざやかな緑の粉山椒をひと振り。


「調いました、鰻重うなじゅうでございます」


 …………

 

 箸をつけるなり、欣華シンファ皇后は歓声をあげた。


「まあ、なんておいしいのかしら。嘉饌かせんとはこのことね」


 鰻重だけではなく、鰻を胡瓜と和えた酢の物、鰻の肝をつかった吸い物もそろえた。甘辛い味つけの鰻重に酸味や苦味を添えることで、気血水きけつすいを補う完璧な薬膳となる。


「鰻は煮つけた物を食べたことがあったけれど、こんなにふわふわに焼きあげるなんて。脂も乗っていて、絶品だわ」


「鰻は気を補うほか、腎と肝を養うことで筋や骨を強化する効能がございます。気が滞りなく循環すれば末梢神経の痺れを取りのぞけるのではないかと思い、調えました」


「そうなのね、だからあなたのつくるご飯はとってもおいしいのねぇ」


 万華鏡を想わせる瞳が、慧玲を映す。


「……ああ、ほんとうにおいしそう、、、、、


 欣華シンファは微かに唇を舐めた。なぜか唐突に恐怖感がわきあがり、慧玲は総毛だつ。理屈ではない。本能からこみあげるものだ。


「肝吸いにはどんな効能があるのかしら」


 尋ねられて、慧玲は一瞬にして我にかえる。


「鰻の肝は血虚けっきょを補い、免疫を高める効果があります」


「物知りね。ふふ、さすがは後宮食医さんだわ」


「身にあまるお褒めの言葉を賜りまして、恐縮でございます」


 先程の身が竦むような緊張はなんだったのか。頭をさげながら考えたが、慧玲には思いあたることがなかった。


「今後、朝昼晩の食の監修を貴女にお願いするわ。晩ご飯だけは貴女に直接調理してもらえると嬉しいのだけれど」


「謹んで拝命いたしました」


 皇后の食を監修するなんて身に余る重役だ。期待を裏切るわけにはいかない。慧玲は決意を新たに額づいた。

 


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 お読みいただきまして、ありがとうございます。

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