2‐52藍星の昇進と鴆の冷戦

 翌朝になっても雨が続いていた。

 乾かないのは洗濯物ばかりではない。生薬も大抵は乾燥させてから漢方薬にするが、こう雨続きだとせっかく採取した植物の根がだめになってしまう。蒲公英タンポポの根を摘まみつつ、慧玲フェイリンが朝から肩を落としていたところ、賑やかな声が聴こえてきた。


「慧玲様、慧玲様!」


 雨の喧騒を蹴散らして、藍星ランシンが飛びこんできた。


「じゃじゃじゃんっ」


 盛大な掛け声とともに藍星は持っていた木簡もっかんを拡げる。


「私、ミン 藍星ランシン正七品しょうしちほん御女ごじょから正六品しょうろっぽん宝林ほうりんに昇級いたしました」


 慧玲フェイリンが思わず笑顔になった。蒲公英タンポポの根を放りだして藍星のもとにかけ寄る。


「すごい、おめでとうございます」


「朝からもうっ嬉しくて嬉しくて! これってあれですよね、お給金きゅうきん、あがりますよね! えへへ、お給金お給金」


 藍星ランシンは嬉々としてお給金の舞いを踊っている。ぽよぽよ、くるくる。踊りまわる藍星の頭をなで、慧玲は微笑みかけた。


「藍星の働きぶりは昇級にふさわしいものです。日頃からほんとうによく頑張っていますね。あなたのような女官がつかえてくれていることを、私は誇りにおもいます」


「わ、わわっ、そんなそんな、涙がでちゃいます」


 藍星は涙を浮かべて、慧玲に思いきり抱きついた。藍星のほうが年上だとはとてもじゃないが、想えない。


「慧玲様が推挽してくださったんですよね? ありがとうございます」


 後宮においても、昇級というのは推挙するものがいて承認される。


「残念ながら私にその権限はありませんよ。後宮食医とはいえ、私は正五品しょうごほんですので。権利を持っているとすれば、皇太子であるヂェン様でしょうか」


 藍星が眼をまるくして、硬直する。


「え、鴆様……ですか? だ、だってあの、鴆様ですよ?」


 藍星はむしがきらいだ。鴆が蟲を操る毒師どくしであることは知らないが、本能では勘づいているのか、天敵とばかりに鴆を怖がっていた。鴆も藍星にたいしては辛辣というか、愛想よく微笑んでいても態度の端々に険がある。


「ですが、ほかに想いあたるひとはいません」


「そ、そんなはず、鴆様が……あの、鴆様が? ふええぇえぇぇっ!?」


 軒で雨を避けていた雀たちが、藍星の絶叫におどろいて飛びたっていった。

 


        ◇


 

 雨に濡れた水晶宮はさながら、曇り玻璃ガラスだ。濁った玻璃ガラスに紫が映る。


「貿易は好調だと聴いたわ」


 柘榴茶ざくろちゃを飲んでいた欣華シンファが茶杯をおいて、ヂェンに微笑みかけた。

 禁色きんじきの絹を身にまとった鴆は、皇后にたいして跪くことも袖を掲げこともしなかった。彼はいま、皇太子というお飾りの身分ではなく、毒師の暗殺者としてこの場にいる。それを理解している欣華もまた、鴆の非礼を咎めることはしなかった。


「民が豊かになるのは素敵なことね」


 欣華シンファはころころと鈴を転がすように笑っているが、慈愛によるものではなく単純に食材になる肉は脂が乗って肥えているほうがいいという程度の話に過ぎないことを、鴆だけが知っている。

 その証拠に彼女は微笑みながら、不穏なことを囁きかけてくる。


「そろそろ、大きな争いでもあればいいのだけれど、ね?」


 欣華は人を喰らう化生ばけものだ。彼女の飢えを満たすため、ディアオ皇帝は不要な争いを敢えて招き続けてきた。いまは鴆がその役割を担っている。


「貿易が盛んになると賊や密売者が動きだす。賊と組んで私腹を肥やす地方官もいる。それらを取り締まり死刑に処せば戦争がなくとも貴方の飢えは充分に満たせるはずです」


「そうね、あなたはほんとうによくやってくれているわ、でも」


 欣華は心細げに膨らんできた胎に手を添える。


「この頃はとくにお腹が減るの。懐妊したせいかしら」


 ディアオ皇帝との御子おこが男ならば、妾腹しょうふくかつ未だ立太子りったいししていないヂェンにとって脅威となる。事実、皇后を支持するものたちは正統な御子を次期皇帝となすべく動きだしていた。もっとも鴆にははたから皇帝になるつもりはない。

 最大の問題は彼女がその身にはらんでいるのが、人間の赤ん坊とはかぎらないことだ。どのような化生ばけものが産まれてくるのか、鴆は想像するだけでもぞっとした。


「戦争、ね。考えておきますよ」


「嬉しいわ。ああ、そうだわ、こちらもお願いね」


 欣華は名簿のようなものを渡してきた。鴆は即座に暗殺命令だと理解する。


「宮廷にはまだ、危険なひとたちが残っているでしょう? わたしの愛しい御子を虐めるようなものはぜんぶ摘んでしまわないとだめね」


 歌うように言葉を紡ぎながら、彼女は飾られていた花の茎を折っていく。項垂れ、宙ぶらりんにぶらさがる花の頚がずらりとならぶ。


 母親の残虐な愛だ。

 欣華シンファの推察どおり、宮廷では様々な思惑が絡みあっている。皇后を疎んずるものは八割がた処分したが、愚かな振りをしている鴆を皇帝に担ぎあげて実権を握ろうとする姑息こそくなものが増えてきていた。欲の坩堝るつぼだ。直接は皇后の敵にはならずとも危険分子には違いない。


「お胎に息づいている御子が愛しくてしょうがないの。時々お胎を蹴るのよ。お腹のなかで蝶が舞っているみたい。ふふ、可愛い、まもってあげないとねぇ」


 蜜のようにあまやかな声にヂェンは言い知れぬ嫌悪を感じた。


「それにしても、人毒というのはことわりを過ぎたものね」


 欣華は鴆の眼を覗きこむ。


「その身を毒となして毒あるものを統べる。つばを垂らすだけでも命を奪えるなんて、ねえ? 人というのはたまに、神より奇なることを考えるものね。わたしでは考えつかないような恐ろしいことを」


 彼女の意をはかりかねて鴆は微笑を崩さず、沈黙に徹する。はら御子みこをおびやかすなと牽制されているのか。あるいは人毒を失ったのではないかと疑われているのか。


「でも、彼女はあなたの毒を好いているみたい。宮廷でも接吻くちづけをしていたとか、ふふ、恋って素敵。それとも人毒じんどくというのはあまやかだったりするのかしら?」


 鴆は敢えて嘲笑を織りまぜて尋ねかえす。


「どうでしょうね、試してみますか」


 微かに舌を覗かせた。

 毒蛇のような挑発にも皇后は臆さない。息の根に牙を喰いこませるような睨みあいを経て、皇后は声をたてて微笑をこぼした。


「やめておくわ。妾は苦いものはきらいなのよ」


「苦い、だけですか」


「人の命を絶つ程度の毒なんて、妾にとってはまずいだけよ。それに……ふふ、妾の可愛い食医さんを怒らせたくはないもの」


 予想だにしなかった方向に話が振られて、鴆が失笑する。


「は、それはいいね、妬みは毒だ。そんなものを彼女からひきだせるんだったら、喀きそうでも我慢するだけの価値はありますね」


 銀の髪を結わえた薬の姑娘むすめを想い浮かべる。白澤ハクタクの叡智を授かり、患者ならば誰にでも命を賭ける博愛と強さを持った姑娘だ。


「ですが、彼女は可愛らしく嫉妬なんかしてはくれないでしょう、残念ながら」


 鴆は外掛はおりの袖に名簿を収めて欣華皇后に背をむけた。

 水晶宮を後にして、雨に濡れた大理石の階段をくだる。最後の一段を踏んだところで張りつめていた息をついた。


 この身にはいま、人毒じんどくがない。

 皇后はすでに疑いを持っているが、確証がないため、人毒の話を振ることで鴆が動じるかどうか熟視していたのだ。


(彼女は人毒で死なせた死骸は喰らうが、人毒そのものは避けている。人毒を危険視しているから、僕を側におき、監視している)


 皇后に真実をさとられては危険だ。

 幸いなことに鴆は人毒に頼らずとも調毒ができる。剣やはりをもちいて、人の命を絶つ技能も身につけている。だから、暗殺を遂げることに支障はなかった。

 隠しとおせるはずだ。


 ヂェンはあらめたて神経を張りつめ、濡れた石段を蹴る。

 雨に打たれて死にかけた蝶が石段の隅で息絶えようとしていた。

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