2‐52藍星の昇進と鴆の冷戦
翌朝になっても雨が続いていた。
乾かないのは洗濯物ばかりではない。生薬も大抵は乾燥させてから漢方薬にするが、こう雨続きだとせっかく採取した植物の根がだめになってしまう。
「慧玲様、慧玲様!」
雨の喧騒を蹴散らして、
「じゃじゃじゃんっ」
盛大な掛け声とともに藍星は持っていた
「私、
「すごい、おめでとうございます」
「朝からもうっ嬉しくて嬉しくて! これってあれですよね、お
「藍星の働きぶりは昇級にふさわしいものです。日頃からほんとうによく頑張っていますね。あなたのような女官がつかえてくれていることを、私は誇りにおもいます」
「わ、わわっ、そんなそんな、涙がでちゃいます」
藍星は涙を浮かべて、慧玲に思いきり抱きついた。藍星のほうが年上だとはとてもじゃないが、想えない。
「慧玲様が推挽してくださったんですよね? ありがとうございます」
後宮においても、昇級というのは推挙するものがいて承認される。
「残念ながら私にその権限はありませんよ。後宮食医とはいえ、私は
藍星が眼をまるくして、硬直する。
「え、鴆様……ですか? だ、だってあの、鴆様ですよ?」
藍星は
「ですが、ほかに想いあたるひとはいません」
「そ、そんなはず、鴆様が……あの、鴆様が? ふええぇえぇぇっ!?」
軒で雨を避けていた雀たちが、藍星の絶叫におどろいて飛びたっていった。
◇
雨に濡れた水晶宮はさながら、曇り
「貿易は好調だと聴いたわ」
「民が豊かになるのは素敵なことね」
その証拠に彼女は微笑みながら、不穏なことを囁きかけてくる。
「そろそろ、大きな争いでもあればいいのだけれど、ね?」
欣華は人を喰らう
「貿易が盛んになると賊や密売者が動きだす。賊と組んで私腹を肥やす地方官もいる。それらを取り締まり死刑に処せば戦争がなくとも貴方の飢えは充分に満たせるはずです」
「そうね、あなたはほんとうによくやってくれているわ、でも」
欣華は心細げに膨らんできた胎に手を添える。
「この頃はとくにお腹が減るの。懐妊したせいかしら」
最大の問題は彼女がその身に
「戦争、ね。考えておきますよ」
「嬉しいわ。ああ、そうだわ、こちらもお願いね」
欣華は名簿のようなものを渡してきた。鴆は即座に暗殺命令だと理解する。
「宮廷にはまだ、危険なひとたちが残っているでしょう?
歌うように言葉を紡ぎながら、彼女は飾られていた花の茎を折っていく。項垂れ、宙ぶらりんにぶらさがる花の頚がずらりとならぶ。
母親の残虐な愛だ。
「お胎に息づいている御子が愛しくてしょうがないの。時々お胎を蹴るのよ。お腹のなかで蝶が舞っているみたい。ふふ、可愛い、まもってあげないとねぇ」
蜜のようにあまやかな声に
「それにしても、人毒というのは
欣華は鴆の眼を覗きこむ。
「その身を毒となして毒あるものを統べる。
彼女の意をはかりかねて鴆は微笑を崩さず、沈黙に徹する。
「でも、彼女はあなたの毒を好いているみたい。宮廷でも
鴆は敢えて嘲笑を織りまぜて尋ねかえす。
「どうでしょうね、試してみますか」
微かに舌を覗かせた。
毒蛇のような挑発にも皇后は臆さない。息の根に牙を喰いこませるような睨みあいを経て、皇后は声をたてて微笑をこぼした。
「やめておくわ。妾は苦いものはきらいなのよ」
「苦い、だけですか」
「人の命を絶つ程度の毒なんて、妾にとってはまずいだけよ。それに……ふふ、妾の可愛い食医さんを怒らせたくはないもの」
予想だにしなかった方向に話が振られて、鴆が失笑する。
「は、それはいいね、妬みは毒だ。そんなものを彼女からひきだせるんだったら、喀きそうでも我慢するだけの価値はありますね」
銀の髪を結わえた薬の
「ですが、彼女は可愛らしく嫉妬なんかしてはくれないでしょう、残念ながら」
鴆は
水晶宮を後にして、雨に濡れた大理石の階段をくだる。最後の一段を踏んだところで張りつめていた息をついた。
この身にはいま、
皇后はすでに疑いを持っているが、確証がないため、人毒の話を振ることで鴆が動じるかどうか熟視していたのだ。
(彼女は人毒で死なせた死骸は喰らうが、人毒そのものは避けている。人毒を危険視しているから、僕を側におき、監視している)
皇后に真実をさとられては危険だ。
幸いなことに鴆は人毒に頼らずとも調毒ができる。剣や
隠しとおせるはずだ。
雨に打たれて死にかけた蝶が石段の隅で息絶えようとしていた。
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