2‐44「助けて、鴆」

 風に導かれるようにヂェンは、入り組んだ殿舎のなかを進んでいく。


「皇太子様、待ってくださいって」


 リウが慌てて追いかけてきた。ヂェンは振りかえらずろうかをまがり、地下室に続く階段にいたる。底から吹きあがる風が鴆の髪を掻きみだした。

 覗きこんだ季宮ときみやの地下室は冥界を想わせるほどに昏い。


慧玲フェイリン!」


 呼びかけたが、声は吸いこまれ、かえってはこなかった。


 ヂェンはためらわず、階段をおりていく。

 昏冥の底では透きとおる白銀の火が燃えていた。

 熱のない奇異きいな火だ。燃え続ける火から、鴆は肌が痺れるような凄みを感じた。不測の事態であることは疑いようもない。


「ちょっ、待ってください、皇太子様……なんか、俺、動けないんですけど」


 振りかえれば、リウが壁にしがみついて、息も絶え絶えによろめいていた。あきらかに身が竦んでいる。本能から湧きあがる恐怖、畏怖に縛られて動けなくなっている。

 鴆は使い物にならなくなった劉を取り残して、先に進む。


「いるんだろう、慧玲フェイリン! 慧玲……っ」


 奈落の底に慧玲フェイリンが、いた。

 銀の髪を風になびかせ、胸から華を咲かせている。孔雀を連想させる霊妙な華だ。華からあふれた白銀の火がその身をつつみ、たたずむ姑娘むすめの姿をぼうと暗がりに浮かびあがらせていた。

 青い紋様は侵蝕を続け、緑眼りょくがんのふちを妖しく飾りつけている。血潮をいたのか、唇は真っ赤だ。傷だらけで、服もあちらこちらが破れていた。


 惨たらしいほどに綺麗だ。


 鴆は本能で感じる。これはおそろしいものだと。

 彼女はまわりにある毒を吸いあげ、貪欲に喰らい続けていた。飢えている。眼を覗けばわかる。底のない飢渇。

 ヂェンほどに死線を越えてきた男が、戦慄する。背が凍てつき、時がとまったように動けなくなる。

 あるいは鴆だからこそか。


 ヂェン人毒ジンドクであり呼吸をする毒だ。

 根差した本能が危険だと強く訴えてくる。あれにだけは近づいてはならないと。


「っ……慧玲フェイリン


 臆してたまるか。

 喧しい本能をねじふせて、鴆は視線をそらさずにひとつ。

 彼女のもとに踏みだす。


「迎えにきたよ」


 空虚ばかりを映していた緑眼が揺らめき、振りかえる。静かに荒んだ眼だ。彼女は微笑んでいる。綻んだ血濡れの唇を動かす。


「――――――」


 声はなく。言葉にもならず。

 だが、鴆にだけは、聴こえた。


「――――――助けて、ヂェン


 鴆は瞬時に理解した。

 慧玲が、慧玲の魂が、喰われているのだと。


 彼女のなかに根づいた毒を喰らう毒が、いま、彼女を喰い荒そうとしている。彼女の魂を毒とみなしたのか。あるいは飢えて錯乱しているのか。

 いつだったか、鴆が飼っていた毒蛇が自身の尾を喰らって死んでいたことがあった。強い毒を造るために穢れた箱で育てたときだ。その時のことが想いだされる。だが、今は理窟りくつを考える暇はなかった。


 たいせつなことはひとつだ。


「彼女を、喰わせてなるものか」


 絡みつく本能の呪縛をひきちぎるように鴆が踏みだす。

 旋風がごうと吹きすさぶ。鴆の外套が破れ、髪を結わえていた紐がほどけた。髪が拡がる。さながら宵の帳だ。


麒麟きりんだか神だか、知らないが――渡さない」


 風が瓦礫の破片を巻きあげたのか、頬が微かに切れた。

 踏みだすごとに鴆のなかにある人毒が喰われていく。袖から、裾から、蛇や蜂、蝶や蜘蛛といったむしたちが死に絶えて、落ちる。


(この身の毒くらい、喰らいたければ好きなだけ、喰らえ。なんだってくれてやるさ、彼女を取りかえせるんだったら)


 彼はすでに誓っている。毒をあますことなく、彼女に捧げると。

 奪いかえすように鴆は慧玲を抱き寄せた。喰い破られて、ばらばらになった魂をつなぎとめようとする。


「だから、そんなものに喰われるな、慧玲」


 その声に魂をびさまされたのか。

 緑眼に強い意志が、よみがえる。


「慧玲」


「……私、私は」


 彼女は微笑もうとする。

 辛い時ほど微笑む、そう産まれた。気丈に振る舞わなければ、万の毒は喰らえなかった。だから彼女は、傷ついた頬を持ちあげようとして。


「僕だよ」


 ヂェンがささやきかけた。


「僕だろう? いま、貴女の傍にいるのは」


 たったそれだけ。

 だが、崩れた。


「っ……」


 幼けなく頬をゆがめて唇をかみ締める。喉からはこらえきれなかった悲鳴が洩れだした。たったひとつだけ、こぼれた涙が砕けた星のように瞬く。


「……そうだよ、それでいいんだ」


 鴆は愛しむように微笑んで、慧玲を抱き締める腕にちからをこめる。

 先ほど「助けて」とつぶやいた時も彼女の唇は微笑をかたどっていた。だから、声なんかなくとも、聴こえたのだ。


 辛い時に微笑む彼女の癖を、鴆だけが知っているのだから。


 慧玲は銀のまつげをふせ、眠りに落ちるように意識を手放した。強張っていたその身からふっと力が抜ける。


 鴆は慧玲フェイリンを抱きあげた。

 微かなを残して風がやみ、鎮火する。慧玲の胸を破り、咲いていた華も緩やかに凋む。孔雀が翼を折りたたむように、あるいは卵のなかに還るように。

 孔雀青くじゃくあおの羽根が舞いあがるなか、眠り姫のような姑娘おんなを抱き締めて、鴆がひとつ、息をついた。

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